「思想哲学」カテゴリーアーカイブ

天皇陛下のリベラルな平和主義思想と元号、 冬ボーナス、東証一部上場企業の平均額は89万6,279円だったが…。

保守派を自認する安倍政権にとってリベラルな今上天皇が「戦後レジーム・戦後民主主義の代弁者」になっている構図はシニカルだが、日本にとっての象徴天皇の位置づけは歴史・民意の結節点になりやすい。

<天皇陛下>82歳に 戦後70年「先の戦争を考えた1年」

“改憲・安保法制(集団安保)・歴史教育(大東亜戦争の評価)・沖縄基地問題”などは、確かに安倍政権の特徴の一つで、多くの政治対立の原因となっているが、日本の時代精神や外交・世論が180度変わる時には、当代の天皇陛下ではないにしても、今上天皇の発言・価値観にも何らかの変化が見られるはずだ。

天皇の治世が『元号(明確に区切られる歴史的時間軸)』と共にあるという『時間支配の記号化(数値化)』は、世界的に見ても世襲王朝が断絶した民主国家ではかなり特殊な遺制だ。昭和の戦争が大東亜戦争を想起させるように、日本人の時代感覚・価値・記憶と元号は現状では西暦以上に切り離せない所与の時間概念である。

天皇陛下本人が老いの影響を折に触れて述懐されているが、天皇が崩御するまで『元号』が続き、原則引退できない慣例は健康・人権の観点からも改める必要がある。明治以前の天皇は上皇・法皇になる事ができたが、近代日本は院政の歴史等から『最高権威の分裂・万世一系の乱れ』を警戒し、元号・天皇の唯一性を強調した。

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日本の少子化問題の本質はどこにあるのか?:移民政策とAI・ロボットの技術革新(イノベーション)

今の技術水準や労働需要の延長線上で未来を予測しても、科学技術や意識の変化は予測できない。労働人口不足というが幾ら子供を増やしても移民を入れても政府が働かせたい建築・介護等の仕事を希望する人が増える保障もない。

日本は移民政策が必要、労働力確保で中国に負ける可能性=河野担当相

最もクリティカルな問題は、少子化問題が解消して子供が増えれば、人手不足に喘いでいる介護・建築・一次産業等の労働に進んで従事してくれる人が増えるという予測自体が『非現実的・的外れ』という事である。

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仏教の諸行無常の世界観と人の悩み・苦しみへの対応:流動的な現実・自我に対して固定的な意識(過剰な欲望・執着心)になり過ぎないように。

仏教の世界観は『諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静』に集約されるが、個人の解脱(正覚)や衆生の救済を説く仏教の功徳は『抜苦与楽』といわれる。

人はなぜ苦しむのかの問いに、ゴータマ・シッダールタ(仏陀)はシンプルに『煩悩・渇愛の執着』があるからだと答えるが、それを諸行無常に照らせば『すべてがただ過ぎ去る(生命の炎がいつか吹き消される)世界の中に、自我とその快感覚を常住させようとする執着の足掻き』によって苦しむとも解釈できる。

生命活動とは、すべてが流れさっていく中で流されまいと踏ん張り、吹き消されようとする中で吹き消されまいと己を燃やす営みであり、自我が時間に流されて吹き消される前に、次世代の生命へと輪廻する縁起・本性を持つものでもある。

悠久の宇宙と膨大な時間を前に、人は砂粒ほどに小さく無力である。その人為・努力・技術あらゆるものをもってしても、宇宙開闢以来すべてを流しさって生命とモノの秩序を崩壊させてきたエントロピー増大則に抗することは不可能であり(刹那的な生命・仕事によるネゲントロピーで部分的な抵抗はできるが)、時間が何なのか何の意味があるのかさえ誰も分からない。

存在の有限性と自我の一回性の前に、人は根底的不安から戦慄して目を背けざるを得ない。有限性を直視して苦しみ・迷いを超越して輪廻から離脱したものを正覚者たる仏陀と呼ぶ。だが煩悩と弱さを抱えた人間はまず仏陀などにはなれないからこそ、人間界は輪廻を繰り返して今なおここにあるとも言える。

苦しみの原因として『生・老・病・死』の四苦を上げるが、これは『時間経過による死の運命』であると同時に『人(生命)の有限性』によって生じる不可避な苦しみである。私もいずれ老いて死ぬが、私より先に生まれた祖父母・親きょうだいはかなりの確率で先に死に、好きになった人も大切な人も良い思い出のある人も嫌な思い出のある人もおそらくは、宇宙的時間に照らせばわずか100年(またたきの刹那)の歳月にさえ耐え切れずどこかに流れ去っていくだろう。

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豊かで平和な社会では“美(外見)の相対価値”が高まるか?:時代の余剰によって“美・力・知の原理”に翻弄されるヒト

生物界の自然選択では“美の原理”というのは“健康(生殖能力)の指標”である。類人猿の艶やかな毛並みや孔雀の華やかな尾羽、ハチドリのカラフルな羽などは、それだけ遺伝的基盤が安定していて十分な栄養摂取(食物の獲得)ができる能力があることを示唆している。

「イケメンや美人は出世しやすい」は本当か

20世紀末から21世紀にかけて、先進国における美人やイケメンの相対価値は格段に高くなったとされるが、それは過去の時代と比較して『生存淘汰圧(最低限の生活のためのコスト)』が小さくなり、『美しさ・洗練・セルフイメージの基準を繰り返し喧伝するインターネット+メディアの影響力』が大きくなったからである。

そもそもヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)の婚姻・恋愛を介した自然選択では、『美しさの原理』というのは数千年の長きにわたって女性ジェンダー(見られる性・選ばれる性としての女性)と深く結びついたものであり、男性の美しさ(見た目の格好良さ)というのはまず問題にされた時代がほとんどなかったのである。

フェミニズムの女性研究者たちは、まさにこの類人猿の段階からの自然選択として連綿と続いてきた『見られる性・選ばれる性としての受動的な女性性(女性の主体性を禁圧してモノ化して婚姻で囲いこもうとする男性原理・家父長制)』と戦ってきた側面がある。

つい数十年前までは男性は『外見を取り繕うのは恰好悪い・男は見た目ではなく能力(組織適応と稼ぐ力)だ・生白いなよなよした男など男ではない』というジェンダーを植えつけられ、義務教育では男は外見を格好つけるなということで丸坊主を強制されたり、長髪・パーマ・洗髪なども『不良・落ちこぼれ・生活の乱れ(非正規的な男性像)』として低く評価される時代が続いていた。

女と比較して男は『見られる性(美しさ・格好良さを査定される立場)』として評価されることに慣れていないし、『外見が好みじゃないからあなたじゃダメ(容貌が生理的に受け付けない)』とはっきり言うことさえある最近の若い世代の女性の主体性(選ぼうとする意志)は、男にとって相当な恐怖であり苦痛(プレッシャー)でもあるだろう。

男性を外見で選ぼうとする若い女性の主体性・選好性というのは、『若者の恋愛離』れの一因でもあるし、『外見・美しさにおけるコンプレックス』というのはかつては女性に多かったが、近年は男性のほうにも増えていて『コンプレックス関連産業(見かけを格好よくすることに関係したビジネス)』の市場規模が拡大傾向にあるとも言われる。

確かに、若い世代ほど『平均的と見られる外見・おしゃれのハードル』が高くなっていて、過度に華やかさを競い合って進化の袋小路に陥った孔雀の尾羽のように、ヒトもまた本来の『生存淘汰圧への適応・健康指標』を超えて『社会的・性選択的な高望みの圧力(社会的承認競争+視覚的娯楽のインフレ率)』を高めているのである。

メディアでは一般社会には極めて比率の少ない美人やイケメンが当たり前のように映像として映し出され、容貌が優れている者と優れていない者との待遇の差異(皆にちやほやされて賞賛されるか対人魅力が低いとして軽く扱われるか)がある種のお決まりのクリシェ(紋切り型)となっている。

そこには『勤勉と力の原理(旧来の男性ジェンダー)』が介在する余地が乏しくなっているどころか、容姿を売りにしている著名な芸能人は『美と力の原理』の両面において圧倒的に一般庶民を上回っていることのほうが多い。

少し前までは、男社会では『色男、カネと力はなかりけり』の嫉妬もありきのスローガンで、あいつは外見だけは良くて女にモテるかもしれないが、体格がひょろくて根性がないから『肉体労働・男同士の喧嘩の場』では使い物にならないモヤシのような優男だ、男としての本当の価値では俺のほうが上だという認知(男性ジェンダーの支え)によって『外見上のコンプレックス』はほとんど無効化されていた。

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なぜイスラム教徒(+キリシタン・白人のムスリムへの改宗者)は増えるのか?

イスラム教は現在のペースで信者数を増やしていくと、2070年にはキリスト教の信者数を追い越して、『世界最大の宗教勢力』へ拡大すると見られている。ムスリムの人口は現時点でも16~17億人以上はいて、この人口は今後増えることはあっても減ることはまずなく、毎年数百万人の単位で増えていくと予測されている。

なぜ増える? イスラム教への改宗

日本人にとってイスラーム(イスラム教)は、もっとも馴染みが薄い世界宗教であり、イスラームは日本人一般が宗教アレルギーを感じやすい“規律的・強制的な宗教”としての特徴を多く備えている。

仏教の戒律でさえ、天台宗の円頓戒や浄土門の解釈で無効化してきた日本人は、宗教的な細々とした行為規範が日常生活の内部に入ってくることを嫌う傾向がある。
イスラームというのは『信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼』など五行の義務の強制力が強く、集団主義的な同調圧力や宗教的な罰則がある点でも、現代の先進国の人々には一般的には受け容れられにくい。

では、なぜムスリムの人口は拡大し続けるのか。記事にもあるが、その原因は主に以下のようなものである。

1.イスラム教徒の女性合計特殊出生率の高さ+先進国の出生率の低さ

2.イスラーム圏の若者人口比率の高さ+先進国の超高齢化の進展

3.非ムスリム、特に先進国(自由主義圏・資本主義圏)からの改宗者の増加

なぜイスラム教徒の出生率は高いのか。紛争地帯・治安悪化地域が多く、平均的に教育水準が低くて、『結婚・出産』以外の女性の人生の選択肢が殆どないからである。

伝統的な部族共同体のルールや性別役割分担のジェンダーから、女性が『自己決定権・自己選択権』を理由にして、結婚しない産まない(子供は○人で良い)といった選択をすることが難しく、また高等教育前後のモラトリアムもないので一定の年齢で大半が部族の義務として早くに結婚する。

家父長制に基づく家族制度で『男=夫・父の権限』は先進国とは比較にならないくらいに強く、女性は基本的には家(父)に付属する財物としての認識に近く、自分がどうするかを自分で決める『自由な個人』という自己規定そのものが男でも女でも成り立たない。部族(血族集団)や家(男の庇護)から切り離された女性は、生きていくことが不可能か極めて困難な状況にある。

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現代に甦る“選択権・科学知の優生思想”と“五体満足で生まれてくれさえすれば~”の高齢者世代

障害児・障害者の出生を巡る議論には常に誤解と文脈のズレ、感情のもつれがつきまとう。

自分が障害者であるか否か、家族や友人知人に障害者がいるかいないかの『当事者性・実際の負担の有無』を抜きにすれば、『障害者の出生前診断や堕胎への賛否』というのは“他人事の圏域”を出ることはないから、一般論として障害胎児の堕胎をすべきではないといっている人が、その当事者(母)になれば堕胎の選択をすることは十分に有り得る。

■障害児出産発言、茨城県教育委員が辞職申し出

“健康(美しさ・強さ)”を賞賛する悪意のないナチュラルな優生思想的な感覚でも、それを発言する時の立場・肩書き・環境・聞き役(聴衆)によっては、『障害者差別の問題(下手をすればナチズム賛同疑惑)』としてクローズアップされてしまう。長谷川氏のような政策・教育に一定の影響力のある公人は、『障害胎児の堕胎の賛否』については、親となるべき当事者の選択に任せるという以上の踏み込みをすべきではないのである。

教育委員の長谷川智恵子氏(71)が『茨城県では減らしていける方向になったらいい』と発言したことで騒動が広まり辞職することになったが、教育委員や政治家、産科院長など公人としての立場で『障害児の出産・堕胎・幸不幸にまつわる価値判断』を明言することは原則として倫理的・福祉的なタブーである。

おそらく長谷川氏は特別に深く考えず、昔ながらの健康な赤ちゃんを願う親・祖父母の一般的な気持ちを前提にして、『五体満足で生まれてくれさえすれば他に多くは望まない』といったようなニュアンスから、行き過ぎた『障害児の出生前診断+堕胎の選択の推奨』という公人のタブー領域に言及してしまったように思う。

自分の家族や親しい知り合いに、頑張って自分たちなりの幸福や可能性を追求しながら生活している障害者・障害児がいれば、軽々しく『障害者を減らせる方向性になればいい・妊娠初期にもっと障害の有無がわかるようにできないのか』とまでは踏み込めないものだ。

ここで、周りに健常者ばかりしかいない、重い障害者やその家族のことを慮る配慮を普段からしていないという長谷川氏の世界観や人間関係(付き合いの範囲)の狭さが露呈してしまったといってもいい。

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