「思想哲学」カテゴリーアーカイブ

現代社会ではなぜ『労働意欲の低下』が起こりやすいのか?:資本主義経済のモチベーション停滞

子ども時代の親の影響? 「できれば働きたくない」という若者たち

2000年代に入る頃から、ニートやひきこもり、無職の増加などが社会問題としてクローズアップされ始め、『アパシー(意欲減退症候群)』や『モラトリアム(自己アイデンティティ拡散・職業選択の遷延)』、『自己愛の肥大(甘え・社会と自意識の乖離)』などのキーワードで労働意欲の低下が語られてきた。

人間の働く意欲というのは『本能的なレベル』では限られていて、『生存+α』のほどほどのレベルでしか働かないことが多く、ジャングルが生い茂っていた石器時代の狩猟採集文化の実労働時間は、わずか2~3時間ほどであった(ひとり当たりの土地の占有面積の広さ・乱獲されていない生物資源の多さから短時間で餓死せずに食欲を満たす程度の収穫物が得られた)という推論も出されていたりする。

江戸時代も農民の労働時間はそれなりに長かったが、都市で暮らす人々の生活・労働は『その日暮らし(貯蓄・贅沢を追求しない)』であったため、朝から晩まで残業までして必死に働くようなハードワーカー(生粋の労働者階級)はほとんどいなかったとされる。

労働時間の長時間化を引き起こした要因は、『農業(農作業)』と『工業(工場労働)』と『企業経済』であるが、皮肉なことに人類の経済的な豊かさと文化文明の発展も、これらの大勢の人々を労働力として動員・要請する『農業・工業・企業経済の発展(生産力の余剰・新たな商品と価値の提示)』に支えられてきたのである。

これらの産業と労働がなければ、人類は石器時代の動物的本能に従って生きる狩猟採集文化(財の蓄積・モノの進歩がなく短命で同じ生活を繰り返すだけの文化)の段階に、更に100万年以上は縛り付けられていただろう。

農業も貨幣も知らない類人猿から分岐した猿人(人類の共通祖先)の歴史は実に約300~400万年も続き、ホモ・サピエンス・サピエンスとしての現生人類が登場してからも約100万年以上は石器時代の狩猟採集文化の生活様式を延々と繰り返していたのだから、人類は気の遠くなるような時間をほとんど進歩せずに生きてきたといえる。

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“元少年A(酒鬼薔薇聖斗)”を名乗る人物のサイト開設とこの人物のパーソナリティーのどうしようもなさ

『神戸児童連続殺傷事件』を起こした犯人かどうかの真偽は不明だが、『元少年Aの犯行・心理・嗜好・読書歴』と共通していそうな要素を感じるグロテスクかつナルシスティックなコンテンツが掲載されたサイトではある。

神戸連続殺傷事件「元少年A」名乗るサイト開設 自己紹介やイラストなど掲載

作者が偽物だとしても、相当この事件と加害者の心理・履歴・著作などに興味のある人物なのだろうか。こういった思弁的・言語的な自己陶酔(自己顕示)に耽溺していく型の文章には個人ごとの癖や特徴がでやすいから、元少年Aの『絶歌』を読んだ人であれば(私は未読だが)文書の類似性を何となく判断はできるのかもしれない。

本人だと仮定すると、『存在の耐えられない透明さ』というサイトのタイトルが、少年時代に起こした事件の犯行声明文の自己規定や犯罪の動機と重なってくるが、酒鬼薔薇聖斗と名乗っていた加害者は『他人から自分の存在が透明になっていて見えていない(この世界に自分が実在していないという透明な存在感覚)』によって殺人事件を犯したのだと告白している。

その透明な存在感覚や目立つ騒ぎを起こすことで承認されたい自己顕示欲(人格の演技性)が今もまったく変わっていないのであれば、『精神病理・反社会性パーソナリティーの根本部分』は矯正することができなかったとも言える。

犯行声明文で元少年Aは『ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として、認めて頂きたいのである』と書いているが、元少年Aの自己の存在感や承認欲求の異常な偏りは、『猟奇的・劇場的な犯罪行為を介して“あなた達”と呼ぶ“無関係な第三者(世間一般の仮定的他者)”に自分の存在を押し付けるように見せようとしていること』である。

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中絶は、他者や法から非難されるべき罪悪か?:普遍主義とパーソン論から考える

僕はキリシタン(カトリシズム信奉者)でも生命至上主義でもなく、人工妊娠中絶(堕胎)に関しては『パーソン論に基づく合理的な容認論』の立場を取るので、中絶を社会的・倫理的な罪悪として非難することはなく、そこに至る他人の個人的な経緯や理由にも関心はない。

中絶女性に「許し」を、ローマ法王が全司祭に権限認める

自分が男性であるため、自分が妊娠して中絶をする当事者にはなり得ないこともあるが、自分が養育のお金を出すわけでも子を責任もって育てるわけでもない『他人である女性の妊娠・出産』に関して、何らかの強制力のある規範・善悪(罪悪感)を押し付けたいという感情や判断を初めから持っていないというのに近いかもしれない。

出産するかしないかは、子を宿す母体を持つ女性(結婚して共に子の扶養義務を負う覚悟と能力のある相手の男性の意見も考慮すべきだが)の自己決定権に委ねるべきである。

それは、実際に自分の身体で妊娠して出産する女性本人以上(本人と密接な関係性にある相手・親族など以上)に『産むべきか産まないべきかについて真剣に悩み考えられる主体』はいるはずもないからである。

なぜ中絶を強制的に禁止すべきでないのか、『望まれずに嫌々ながら産みだされる子供』は、その母親の出産時の心理を知ってしまえば自らの出自に相当に重たい否定感情や罪悪感を背負いこむことになるからである。

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IS(イスラム国)はなぜ“火あぶりの処刑・世界文化遺産パルミラ遺跡の爆破”を行うのか?:反欧米の宗教原理主義

イスラム国(IS)は欧米の進歩主義的歴史観に由来する『近代の個人主義的なヒューマニズム(人権・自由・民主)+資本主義(市場・産業の競争)』を否定することで、復古主義の自集団をアイデンティファイしている。

「イスラム国」が新たな火あぶり処刑動画。イラク兵捕虜4名が生きたまま…。

なぜイスラム国(IS)は人の生命・人権や男女の平等、平和主義、世界遺産(文化的歴史的価値)を尊重せず、日米欧のヒューマンな近代国家の価値全般を野蛮に見える方法・思想で蹂躙するのか。『反欧米勢力』でありながら経済・文明・人道の水準で劣る立場を、それを目指さない思想的宣言で逆転させる作為的演出でもある。

イスラム国(IS)は『経済がどれだけ豊かか・技術がどれだけ進んでいるか・人権がどれだけ守られているか・男女がどれだけ平等か・個人がどれくらい幸福か』という、欧米諸国にはじめから及ばないと分かっている『近代的なヒューマニズムの価値基準』を頭から否定し『勝てない近代的進歩主義の土俵』から下りているのだ。

『物質文明・人権思想・技術主義の近代化』を競う土俵(フィールド)で戦う限り、ISは欧米諸国よりも『人権・男女平等が守られていない貧しい後進国』であるという欧米が作った価値基準から指弾され欧米を追いかけたり支援を受けたりする立ち位置に立たされる。反欧米を徹底すれば進歩より昔が良かったの復古主義が勝る。

『イスラームの原点の教えや聖典にどれだけ忠実な国・社会であるか(IS指導層が考える原理主義・復古主義への接近度)』という欧米とは異なる価値基準を敢えて打ち出す事で、ISは『背教・物質主義(堕落)の欧米諸国』より優位な位置に自己をアイデンティファイできる。中世的な火あぶりの処刑も『応報の正義』となる。

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ムスリム(イスラム教徒)はなぜ豚肉を食べてはいけないのか?:生活規範・帰依の乏しい日本の宗教文化

ムスリムがなぜ豚肉を食べてはいけないのかに『合理的な理由』はない。ムハンマドが天使ジブリールから聞いた神の言葉に『神が豚肉を食べてはならない』という規範があるから守るというだけである。

誤ってムスリム男性に豚肉 横浜入管が謝罪、男性は抗議

イスラームの文化・生活規範の強度というのは、日本人の宗教感覚で最も分かりにくいものの一つであり、日本人は反射的に宗教の聖典にあるような物語を『人間が作った話』という風に解釈するので心から信じることができないというのがある。イスラームが意味する『帰依』も殆どの日本人には感覚的に分からない信仰心である。

日本は世界でも有数の『帰依しないという意味での無神論者の国』であり、日本人の多くは『科学的世界観あるいは人間中心主義から離れない人々』である。帰依というのは神中心の世界観に我が身を委ねる、神が本当に存在するものとしてその言葉・命令を至上のものとする生活を受け容れるという事だが、日本人は一般に『帰依』まではしない。

確かに日本人も神社に初詣をしてお賽銭を投げるし、寺院で法要を営み墓を立て説法を聞いたりするのだけれど、神様仏様を中心とした世界観に帰依し戒律を守るという信仰のあり方ではない。寺社にお参りして『お願い事をどうか聞いてください・助けてください』と神仏に頼むが、神仏側が人間に命令する事はまず意識されない。

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“ミニマリスト・ノームコア”と現代の経済・仕事・文化のモード:“資本主義(カネの縛り)・ムラ社会(他者の目)”から自由になりたい意識

■“没個性”上等 自分らしさは中身 「ミニマリスト」で「ノームコア」な若者たち

生活必需品や家電製品さえまともに普及していなかった資本主義の初期には、『モノを多く持っていること・過去になかった家電や車を所有すること・高級高額あるいは希少(生産限定的)なモノを持っていること』が豊かさや地位の象徴であった。

人々は必死に人生の大部分の時間を企業労働に捧げて、経済主体である自らの能力と他人から見た場合の分かりやすい価値を証明するために、今まで持っていなかった沢山のモノを買って所有することに、非常に大きな効用(満足)を感じることができた。

資本主義が成熟段階に近づいてくると、家事労働の負担を軽減して日常生活を便利にしてくれる『洗濯機・冷蔵庫・テレビ・掃除機』のような家電製品はほとんどすべての家庭に普及するようになり、『自家用車・持ち家』といった高額な耐久消費財の普及率も次第に高まっていった。

生活必需品も含むモノに囲まれた生活水準を引き上げるために、全力で働く企業戦士が大多数を占めていた時代には、明らかに『個人の時間・自由度』などよりも『カネ(仕事)+モノ+それらを評価してくれる家族・異性・他人』の価値が圧倒的に高かった。高度経済成長期には、企業社会の労働とモノの経済価値のほうがいわゆる『ノーム・コア(普通さの核)』を形成しており、モノの経済価値に対する異論反論はマイノリティ(新製品に溢れる時代をフォローできない持てない少数派)の声としてかき消されるだけだった。

ミニマリストやノームコアといった哲学的・解釈的な理屈に基づくライフスタイルが通用する余地が生まれたのは、早くてもバブル崩壊以後、現実的にはゼロ年代後期以後だろう。

この時期には、部屋の内装・インテリアなどにおいても、『豪華さ・高級感・ゴテゴテ感を重視したデコレイティブなデザイン性』に対置される『シンプルさ・機能性・さっぱり感を重視したモダンなデザイン性』のほうが優位になってくる。

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