日本は『韓国併合・日中戦争(満州国建国・中国大陸への進出)』について反省と謝罪の政府レベルの談話(河野談話・村山談話)を出しているが、それは『過去の経済的・軍事的に膨張した近代日本の戦争や政治判断』を反面教師にして欲しい(中韓が批判している大日本帝国の拡張主義・軍拡の威圧・外国領土の実効支配などの同じような過ちを繰り返すべきではない)という中国・朝鮮半島への要請でもあると見なすべきだ。
故に、『現在の尖閣諸島への中国公船の侵入・韓国の竹島の一方的な占拠(過去の日本漁船の拿捕や漁民殺害)』については、『中国・韓国が批判する大日本帝国時代の日本の既定事実化の方法』を採用しているのではないかという立場から厳しく糾弾する外交戦略を用いるべきだろう。
日本が憲法9条によって実践している『紛争解決手段としての武力行使の放棄』を中国・韓国に対しても鋭く迫り、国際司法裁判の場で堂々と相互の歴史認識(領有権の理由とするもの)を対峙させようという申し出をするのが本筋である。
○メディアやネット(本)を介して拡散するヘイトスピーチと東アジアに残る相互不信の壁
日本が軍国主義に戻ることがないことの根拠として9条を提示し、なぜ中韓が日本の平和主義の憲法理念に倣わないのかの根拠を求めながら、『日本の右傾化』があるとすればそれは中韓の軍事力を背景にした領土外交もその一因であるとの説明を行い、お互いにイタズラな不信感(危害を加えられるかのような恐れ)を抱かせるような政策や外交について抑制していける落しどころを探したい。
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日本と中国・韓国の間で『相手国に対する国民感情』が近年目立って悪化しているという世論調査の結果がでているが、『どうして日本(中国・韓国)に悪いイメージを持つのですか?』という理由については、『個別の日本人(中国人・韓国人)に実際に危害を加えられたから・個人としての日本人(中国人・韓国人)が嫌いだから』という答えは全体の1割にも満たない。
それぞれの国の政治や歴史、デモ、教育、世論、領土問題についての『間接的な知識・情報』によって、それぞれの国における敵対感情や悪印象、嫌悪感が作られている構造がある。
それでも、大半の人は『どちらかというと好ましくないイメージ・国家間の外交関係や歴史認識の調整が上手くいっていないイメージ』という感想に近く、日常的に日中韓の外交・歴史に関する感情的な対立を意識したり表現したりすることはほとんどないわけで、常にいつも『政治的・国家主義的な意識(自分と国家とが一体化したかのような心境)』で毎日を生きている人は少ない。
実際に戦争や憎悪表現、差別意識の応酬をしてでも、相手を屈服させたいというほどの敵対感情を抱えた人はほとんどおらず、マスメディアなどが報じる排外主義・差別意識は『一部の過激なナショナリスト』のデモンストレーションが過度に一般化されて語られている向きが強い。
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一般庶民の貧しく惨めな生活を良くするために既存の腐敗堕落した政治体制を転覆させるという目標を掲げた左翼の共産党勢力も、心情的には農民・労働者の味方として右翼と似通った国家社会主義の革命理念を持ってはいたが、左翼は『天皇制・国民国家・私有財産の否定=共和主義と共産主義・ソ連コミンテルン指導下のインターナショナリズム(祖国を持たないプロレタリアートの国際的連帯による暴力革命)』を掲げていたので、1941年の『治安維持法』によって実質的に壊滅させられた。
日本は歴史的に君主を実力で排除する『市民革命』を経験したことがなく、フランス革命に発する『共和主義政体への憧れ』そのものが無かったこともあるが、天皇制を国体の本質として教育されてきた当時の日本人の多くは、『天皇と民衆の一体化(一君万民・君臣一体)』を理想的な国家の有機体的なあり方と見なす部族的な価値観を持っていた。
○『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の政治不信”2:血盟団事件(1932年)のテロの正義感・天皇崇拝
大日本帝国憲法において天皇は神聖にして侵すべからずと言われるように、天皇は『絶対無謬の存在(自分自身を持たない中空構造の存在)』であるため、天皇主権の日本国において悪政や誤謬が起こるとすればそれは『天皇自身』に問題があるのではなく、天皇の側近くで間違った政策や考え方を吹き込む『君側の奸(天皇権威を騙る不埒な重臣)』が悪いのだというロジックになり、政治を正すには側近を暗殺しろという『血盟団事件(1932年)・5.15事件(1932年)・2.26事件(1936年)のテロリズム』に流れたのである。
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テロ事件を起こした右翼青年が共通して述べる目的は『君側の奸を除く』であり、天皇を擁立して讒謗している巨悪の奸臣(現在の政治中枢を牛耳っている元老・首相・閣僚・そこにカネを流す財界人など)に天誅を加えることで、天皇の下に善良な忠臣が再結集して新生日本の再建計画を進めることができるという武勇と忠誠、滅私の物語を信じていた。
戦争を推進しようとする右翼が唱えた『昭和維新』というのは、明治維新の王政復古の原点に帰ることだけが日本を救う道だという信仰を持った集団が、天皇中心主義の革命のために『捨石』になるという国家改造運動であり、こういった自分が死ぬことで国運が好転する(自分の利益や安全を考えないすぐに死んでも良いと自分を捨てることこそが正義なのだ)というメンタリティは後の『神風特攻隊』などにも継承されていく。
○『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の経済的困窮”1:右翼の国家改造・左翼の共産革命
とにかく自分の生命と利益を捨てて行動せよという『捨石主義』は、その後の日本軍の行動理念をも間接的に規定していく。『自分が死ぬことこそが国の勝利・繁栄につながる』という道徳観念は一般に共有されるものになったのだが、こういった道徳観念は人類に普遍的なところがあるのかもしれない。
洋の東西を問わず、『自分を大切にする人・お金や豊かさに価値を置く欲望の強い人』よりも『自分を捨てられる人・お金も安楽も要らないというストイックな人』のほうが利他的で道徳的な人間性を持っていると思う庶民はやはり多く、『西郷隆盛信仰』などもそういった無私の印象に根ざしていた。特に日本においてはその道徳観念が、滅私奉公や武士道精神、日本男児の行動理念として自発的な努力と強制的な教育によって植え込まれていったが、当時の右翼の捨石主義(自己犠牲主義)はそういった意味でも道徳的に承認されやすい素地があった。
血盟団を扇動した日蓮宗の過激な僧侶である井上日召や藤井斎空軍大尉(上海事件で戦死)は、自ら進んで破滅に向かう自己犠牲の大馬鹿者が日本を救う(実際には日本を破滅させる軍国主義の口火を切るが)とし、建設・安寧のことなどは後世に任せて、我々はひたすらに不正な既存の権力者・財界人(奸物)を抹殺しさえすれば良いとの短絡的な『破滅の哲学(後の一人一殺のテロ思想)』を吹聴した。強欲な腐敗した政治家ではなく潔癖な命を惜しまない軍人に、天皇の大命を降下させて、政党政治を否定する『超然内閣』を樹立することが国家改造運動を目論む右翼勢力の目標であった。昭和初期の大不況と政治家の相次ぐ疑獄事件がその前提にあった。
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関東軍の野心が暴発した“満州事変(柳条湖事件)”から始まった泥沼の『日中戦争』、経済包囲網に耐え兼ねた日本の“真珠湾攻撃”から始まった『日米戦争(太平洋戦争)』、現代の日本の歴史認識と国民アイデンティティに根深い影を落とし続けるこの二つの戦争のそもそもの原因はどこにあったのか。
今から思えば開戦そのものをしない選択もあったように思えるし、『一億玉砕・総動員体制』の狂気に国家全体が駆り立てられる前に戦争のどこかの段階で引き返しておけば良かったようにも思える。だが、当時の日本国民、特に貧しい農民・労働者・兵士の多くは圧倒的に天皇制(皇国思想)の下の戦争を支持する右翼的なメンタリティを持っており、昭和初期の右翼国家社会主義運動(国家改造運動)に突き動かされる形で『政党政治の民主主義』よりも『軍部主導(軍人内閣)の軍国主義』を望んだのである。
日本の戦争を理解するためには、現代とは全く意味合いと影響力が異なる『右翼』と『左翼』と『軍』を知らなければならないが、まず途上国・新興国の多くでは現代のエジプトやミャンマー、トルコなどを見ても分かるように一般大衆のレベルで『軍に対する親近感・信頼感』が『政治家に対する親近感・信頼感』よりも強いということを抑えておかなければならない。
端的に言えば、かつての大日本帝国時代に『昭和恐慌の経済破綻・スタグフレーション・失業』に喘いでいた国民は、大衆の貧窮・飢え・苦境を放置して私腹を肥やしている政治家と財界人の腐敗を憎んでおり、軍部に『政治とカネの結びつき』を断ち切る正義・天誅の役割を強く期待していた。
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自分の国を自分で守るのは当たり前であるという『個別的自衛権』の問題領域を、日本の領土・日本人の人権の保護と直接に関わらないアメリカとの共同軍事行動に発展する恐れがある『集団的自衛権』の問題に擦り替えてしまったり、『外交的努力・国際協調よりも国軍化と軍拡(攻撃能力増強)の威嚇の抑止力が有効だ』という現在の国際情勢を読み間違えた主張をするのであれば、現在の与党が打ち出している改憲の方向性には同意しがたい。
安倍首相の歴史的使命としての『憲法改正』と『歴史認識・国家観』について、庶民として考えておきたいこと:1
『誰もが平和を望んでいても戦争は回避できない』という運命論的なエクスキューズは、『統制主義国家(権利抑圧社会・洗脳教育原理)における一般庶民の流されやすさ・同調圧力への無力さ・権威や報道への従順さの言い換え』にしか過ぎず、『戦争・軍拡・武力有効論に誘導される世論』を生み出している本体を無視した論であり、人道的に間違った支配・教育をしている権力や体制を補完する主張につながる。
『国家内において殺人が禁止される法律』のように『国際社会において戦争が禁止される法律(ケロッグ・ブリアンの不戦条約から国連憲章への流れ)』が機能しづらいこと、あるいは国際的な平和志向(個々人の平和主義)が機能すると困ったり儲からなかったりする支配的勢力が、マッチポンプで国家間の感情や政策、国民教育(国民・宗教・民族のアイデンティティ)を調整していることが問題の本質である。
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