AI(人工知能)が人類にとって福音となるか脅威となるかは、AIの知能が人を凌駕するかAIが自我意識・欲求を持つかの視点もあるが、人間がストレスのある人間よりもAI(擬似的ヒューマン・仮想現実)と過ごす時間を優先し始めるか否かも大きそうだ。
AIの未来はどこまで見通せる? 3人のプロが語り合った。
AI(人工知能)はDNAの自己複製能力によって動因を規定される自然の生命体ではないので、AI自体の自律的・主体的な存在意義や行動のモチベーションはないと推測されるが、『人間に影響を与える価値判断・意思決定』まで行うには確かに現在の人類社会において支配的な価値観や常識・感受性をプログラムして自律学習できるようにする必要がある。
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○戦後70年でも日本の社会・技術・文化・価値観は想像を遥かに超えて激変したのに、100年後の人口など正確に予測できない。農業・工業など労働集約産業の自動化が少子化の背景にある。
少子化進行の日本 子どもの数どうなる?100年後は3分の1まで減少するおそれ
農業・工業・土木建築などの労働集約産業が『学歴不問で健康・素直な人材』を大量に雇用して十分な収入も出せる経済構造なら、子供を増やせば増やすほど経済成長して親世代の暮らしが楽になるという多産のモチベーションが働いたが、今は経済構造・親の子育ての意識・子供の学歴や労働適性(進路希望)がかなり変わった。
今より遥かに科学技術・自動化(ロボット・AI)が進歩するであろう100年後の未来は自動生産システムによって、『特別な能力・魅力・適性・気力を持たない個人』が仕事・収入・役割・承認を得る事が難しくなる恐れもある。自動化システムでBIが導入されても、何ができるかの自己の存在意義や承認欲求の問題は残る。
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現代は見た目で露骨な差別・排除をしない倫理観を多くが持ち心ない言葉をぶつける人は少ないが、見た目問題は他者との距離にこだわれば深刻化する。
「見た目問題」息子も当事者…記者として、親として「心ない言葉」への葛藤 それでも「まず知ってもらう」
容貌が大きく変わってしまう先天性・遺伝性の疾患・奇形(本人ではどうしようもない見た目の特徴)について知ってもらい、差別や偏見を無くしていく啓蒙はできるし進めるべきだが、『他者が自分とどのような距離や関係を選択するか』にこだわれば、見た目に大きな変形がない人もある種のコンプレックスを形成しやすい。
結局、他者がどう反応し評価するかにこだわれば、見た目問題の深刻さの程度によっても変わるが、『見た目・美のヒエラルキーの複合感情』に絡め取られる危険性が誰にでも(よほど見た目に自信がある人は別だが)ある。『見た目で差別・侮辱しない』は可能な目標だが、『見た目・私生活で人の好き嫌いがない』は至難だ。
見た目とか容貌とかいうのは骨・皮・凹凸が織り成す『表層的な知覚印象』に過ぎないのだが、人間は本能的に『顔認知(顔の個人識別)』を特別に重視して早くに発達させることが乳幼児期の心理実験からも明らかで、顔(見た目)などどうでもいいという倫理はあっても、本音での分別・欲求・関心がゼロにまではなりにくい。
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近代化による『経済成熟・自由主義・個人主義・市場原理(資本主義)・男女平等』の進展は、個人の幸福追求と他者との比較競争を煽ることによって、動物的な生存・生殖の本能やコミュニティの互助・平等の意識を衰退させ、半ば必然的に高度経済成長期後の少子化トレンドと階層社会の固定化を生み出す。
昭和中期までの人口が増加を続けていた時代というのは、個人やその人生が長期に所属する『家族親族・地域・会社(役所)・社会・国家』の共同体(コミュニティ)にすっぽりと埋め込まれていた時代である。
その時代、人生は『自由意思や自己責任』で個人がそれぞれに選択するものというよりは、『同調圧力・社会規範(所属階層の常識)』によって就職・結婚・出産など『社会や世間でやるべきとされていることをやっていくプロセス(やるべきことをやらない人への偏見・差別が強く大半は道を外れられないし周囲に干渉される)』に近かった。
結婚のかなりの部分は『適齢期・世間体・家格』の関係したお見合いであり、出産は概ね女性の義務に近いもの(女性が一人で自立して結婚も出産もせず生きることは現実的にも差別の圧力的にもほぼ不可能で、生活を庇護してくれる旦那を見つけられるかが生きるか死ぬかに近い問題)だった。
一方、男性はハードな仕事や戦争で死ぬことも少なくない『労働力・兵隊』として社会システムを維持する部品に近く、女性だけが苦労や我慢を強いられていたわけではない。高度経済成長期の会社の働かせ方は、現代のブラック企業を凌駕するものである、炭鉱・港湾・工場・土木建築のハードな肉体労働では頻繁に労災が起こり事故で死人が出たり深刻な身体障害を負うことは珍しくなかった。
続きを読む なぜ現代日本では子供の人口が減るのか?:他者との比較競争とコミュニティを失った個人の自己責任化・孤立化 →
物質的に豊かな成熟社会の幸福実感は個人的・相対的になり、『金銭・自由・人間関係』で他者より恵まれてないと思うと不幸になりやすい。だが絶対的な生活水準・利便性では現代人の中流は近代以前の王侯貴族を超えている。
日本の「幸福度」は155ヵ国中51位。ランキング上位の国々が考える「幸せ」とは?
並みの人間は『個人の贅沢・快楽・自由・保障・異性』などを基準にした幸福追求を目的にすれば、『自分よりも持っている(気楽そう・楽しんでそう・能力がある美形である)他者との比較・劣等』によって相対的幸福感の罠にはまり不遇感に陥る。現代日本の庶民には『学校・家庭・勤め先以外のコミュニティ』が乏しいもある。
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司馬遼太郎が高度成長期前の景気・給料の悪かった(会社勤めが増え始めた)昭和30年代にサラリーマンは『良き伴侶を得て家庭を作る為に働く家庭業』と記したが、旧時代のジェンダー(結婚出産が当然の時代論)と同時に現代にも通ず『勤め人が仕事自体が嫌でも働く意味』を示す。今の若者が勤め人に苦悩し迷う由縁でもあるか。
司馬の語る『サラリーマン』と『芸術家』の価値観や生き方の差異と、いずれの生き方をしても貴賎はなく運命を享受する他ないとする物言いは共感させられる部分も多いが、こういった処世術的なエッセイを書いていた時代の司馬はまだ新聞記者の一介のサラリーマンで、歴史小説家として踏み出すか迷いの時期でもあっただろう。
こういった話とも不思議と重なるが、現代の20?30代のイケイケ風の若い女性が書いたエッセイに『散々やりたいことをやって、結婚・出産でもしないとやることがなくなった(何をしても同じ事の繰り返しに感じた)』と書いていてなるほど確かに多くはそこに行き着く、司馬のいう家庭業としてのサラリーマンとも関連する。
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