「政治」カテゴリーアーカイブ

日本をはじめとする先進国の投票率の低さとシステマティックに運営される民主主義国家の疲弊

自由民主主義で運営される国家は成熟期を迎えると、『国家による国民の権利侵害のリスク』が低下することによって、国民の国家・政治に対する興味関心は落ちる傾向がある。あれほど大統領選挙がフィーバーしているように見えるアメリカ合衆国でさえ、『大統領選と同時開催の国政選挙』で60%の投票率に行くか行かないかであり、単発の中間選挙では40%台にまで低下するのである。

ドイツやフランス、イギリスといったEUの大国が、概ね日本と同じ程度の投票率で40~60%台を行き来しているわけだが、『民主主義の成熟・国家権力の無害化』によって起こる投票率の低下を防止するために、イタリアやオーストラリア、シンガポールのように『投票の義務化』を行っている国もある。北朝鮮・旧イラクのような独裁国家も国際社会に民主主義をアピールするため、『選択肢のない信任選挙(武装警官に監視された投票所での実質的な一党独裁体制・独裁者肯定の追認選挙)』を行っているが、これは結果ありきの形式的な投票で意味はない。

罰則・罰金つきの義務化を行った国であれば90%以上の投票率にはなるが、『イタリアの財政内政・国際的影響力』が低迷しているように、投票率が高くなればなるほど国民生活が良くなったり国家の基盤が強くなったりするわけではないので、単純に投票率が上がれば政治の諸問題が片付くとは言い切れない面は残る。イタリアでは積極的に投票する『フリーライダー層』の増大が問題視されているが、フリーライダーというのは公共投資や福祉政策といった税の再配分を求めつつも、自分自身の負担増加には強く反対する層である。

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参院選の演説中に民主党の鈴木寛元文科副大臣が殴られたということだが。

参院選の選挙運動は衆院選と比較すると格段に静かであり、住宅街まで選挙カーが頻繁に回って大声で候補者名を連呼するようなことも少ない。

政党支持による固定票・組織票はほとんど動かないので、日本の選挙運動は『候補者名・政党名の連呼による刷り込み』と『対立候補(政党)が政権を取った場合の危険性・負担増加の訴え』に尽力することになるのだが、演説を聞いてみてその人に投票してみようという変化を起こしてくれる有権者層もやはり一定の割合でいるのだろう。

『政治・政党のことは良く分からない』や『党利や私欲に走らずにとにかく国民の生活が良くなる政治をして貰いたい』という無党派層・(選挙時以外の政治に対する)無関心層に対しては、たまたま聞いてみた街頭演説の効果はゼロではないのだろう。

しかし一般的には、初めからある程度支持している政党や候補者の演説を意識的に聞いて、『自分の支持する感情・基準の再確認』をしている層のほうが多いだろうから、『初めから支持していない政党・候補者』の演説を聞いてみて投票先を変えるという有権者は相当に少ない気もする。

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攻撃的なウェブ情報(まとめサイト)で強まる『ラディカルな政治思想・排外主義(嫌韓嫌中)』:国家間問題と個人の属性・主張(言論の自由)を切り分けるということ。

『集団の形式的な一体性』と『個人の実際的な多様性』を区別しない典型的な弊害の問題として『一般市民を標的にしたテロリズム』があり、『敵対していると見なす相手国』を攻撃したり政策を転換させるために、『敵対的な思想や差別を持っていない可能性も高いその国の一般市民』を脅したり傷つけたり殺害したりするのである。

この記事は、『保守派(右派)の言論活動の台頭と『失われた20年』を通した日本国民の意識変容:仮想敵と見られ始めた中国・韓国』の続きになっています。

北朝鮮による拉致事件の国家犯罪の最大の問題も、日本を一方的に仮想敵にしている北朝鮮が、『敵対的な思想や差別を持っていない可能性も高い日本の一般人』を暴力的に拉致したことにあり、『国家間の対立問題(敵対国への示威・恫喝)』を理由にして『一般市民の生命・身体・尊厳・財産』に危害(恐怖心)を与えるテロリズムやヘイトスピーチは現代では許されないと考えるべきだろう。現代の巨大化して相互依存性を強めている国民国家は、古代ギリシア・ローマのポリス(都市国家)のように一般市民がすべて戦士となって戦う『戦争共同体』ではないし、思想教育された常備軍を整えて植民地・市場(資源・労働力)の争奪戦に乗り出した近代国家の『世界戦争・思想統制の歴史』は悲惨な反省すべき過去として認識されている。

国家間の外交関係が思わしくなかったり主権・領土・歴史解釈を巡る争いが起こっていたりしても、『その国に帰属している人間』を一まとめにして傷つけたり侮辱したり脅したりして良いわけではない。

現代の先進国であれば『政権・政党政治家の政策』はともかく、過半の一般人は『それほど極端な政治思想・排他的な民族主義を持たない人たち(協調路線・生活優先・平和主義)』なので、『お前は○○人だから俺たちのことを嫌って敵視しているんだろう、俺たちの国から尊厳や主権を奪おうとしているんだろう』と言われて攻撃・罵倒されても、自分の生き方・考え方・思想とは直接関係しないことなので対応のしようがない(国家に影響力も持たず特別その国の人を嫌ってもいない自分を脅かされてもただ迷惑だ)という問題もある。

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保守派(右派)の言論活動の台頭と『失われた20年』を通した日本国民の意識変容:仮想敵と見られ始めた中国・韓国

ウェブでは在日の多い地域での在日韓国人(在日朝鮮人)に対するヘイトスピーチ(憎悪言論)や排外デモが話題になったり、『朝鮮人(韓国人)・中国人』に対する敵対感情をむき出しにする発言を多く見かける。いわゆる嫌韓・嫌中の思想を広めるきっかけとなった出版物による起点は、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言(国家を軽視する個人主義のリベラルを欺瞞偽善として公共精神・国家主義の称揚を説く一連の本)』や西尾幹二らの『国民の歴史(新しい教科書をつくる会関連の歴史解説書)』、愛国系の雑誌SAPIO(サピオ)、諸君!など民族主義を復興させようとする書籍だったが、これらはウェブの普及以前のものでその影響力は限定的だった。

その後、北朝鮮による拉致事件や国家犯罪、核開発(ミサイル発射実験)が明るみになったり、韓国・中国との歴史認識の対立や靖国神社参拝問題、感情的な反日デモが報じられたり、中韓朝の歴史教育が『日本(日本人)への憎悪・怨恨』を強める内容だったりしたことで、中国・韓国・北朝鮮を『特定アジア(特ア)』と呼んで『不倶戴天の関係改善できない敵』と見なすような民族主義の右翼勢力が台頭し始めた。

ウェブ社会とアナログ社会の端境期には、右翼的勢力の中心は言論人や文化人、歴史学者などであり、彼らは彼らなりの知的誠実さ・学術的根拠を持って『国粋主義・民族主義・国家の自立(9条改正)などの強化』を訴えており、それほど排外主義や個別の外国人(一般人)への怒りを前面に出したヘイト言論を展開することはなかった。

どちらかというと『右派が自虐史観と呼ぶ歴史観の転換(日本の侵略戦争・戦争犯罪を否定して大日本帝国と現代日本との歴史的連続性を肯定的に意味づけること)』に重点が置かれており、そういった自虐史観を乗り越えないと『日本人としての誇り・国民国家を構成する国民の自己アイデンティティ』を再建することはできないといったような主張であった。

1990年代の出版文化・論壇(学会)と結びついていた右翼勢力は、中国・韓国・北朝鮮などの特定の国家を批判することもしていたが、それと同時に『リベラリズムの国際性・無国籍性(自国贔屓でない中立性)』を否定して『民族主義の愛国心・国民意識(自国肯定の帰属感)』を重視することで、消費文明の現代日本で失われていると嘆く『日本精神・公共意識(共同体的な一体感と国家の一員としての義務感)』を取り戻させることに主眼があったようにも思う。

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生活保護の政策的な減額に対する集団訴訟2:生活保護給付水準が高いと思われはじめた背景

憲法25条は国民主権と最低労働条件、社会保障をハイブリッドした条文であり、その本来的意味は『生活に困ったら国に助けてもらう』という依存的・受動的な国民規定の趣旨ではなく、『生存権の実現のために国・企業の不正な構造や貧困に導く制度設計を是正していく(貧困に押しつぶされずに労働・政治・連帯を通して生存権の権利維持を訴える)』という自立的・能動的な規定として読まれるべきだろう。

この記事は、『生活保護の政策的な減額に対する集団訴訟1:労働者層と生活保護層の境界線の揺らぎ』の続きになっています。

国家権力から完全に保護された国民は、逆に国家からその生活行動を完全に管理されて支配されるような弱い客体(統治される存在)にならざるを得ない。その意味でも憲法25条の生存権は、『全面的な依存・無条件の社会保障』ではなく『不正な構造改革や個人の尊厳を背景とする生存権の要求(身体・精神・雇用が不可逆的に損傷されていない限りは自立心を放棄しきらない上での生存権の要求)』としてあるべきなのかもしれない。

生活保護の給付水準が高いのか低いのかの判断は簡単にはできないが、一般的に生活保護給付水準は『基準世帯の平均所得の約50%前後』に設定されている。しかし、この社会全体の平均的な所得世帯とされる『基準世帯』というのが、大体月額30万円程度の収入を得ている正規雇用層なので、現状では『平均以上の収入を得ている世帯』と見なされやすく、働いていても30万円までは稼げていないという人が多いのも確かである。単身世帯の生活扶助の金額は東京でも10万円未満であり、生活保護が特別に高い水準にあるかというと微妙だとは思うが。

基準世帯の50%の給付水準となると、ちょうど非正規雇用やアルバイトと同程度の収入になり、若年層を中心にして非正規雇用層が増大したり、正規雇用の労働条件や負担感がきつくなっている中で、『生活保護層が不当に優遇されていて、労働に対する報酬(実利)は減っている』という被害者意識や不公正感に結びつきやすくなっている。一般的な労働者の所得が減少傾向を示し、デフレ経済で物価も安くなっていることが、『生活保護給付水準』を相対的に高くしている構造問題がある。

生活保護世帯数と保護率の推移

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2950.html

働いている人の『真の平均所得』が、生活保護層の生活扶助の2倍以上の所得がある時に、『労働に対する報酬』に納得がいきやすいという風に見ることもできるかもしれない。生活保護には医療費免除の『医療扶助』もあり、『生活扶助』と『医療扶助』を区別しているところも、『生活扶助と同程度の収入』から医療費もやりくりしなければならない労働者の不満を買いやすい。

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生活保護の政策的な減額に対する集団訴訟1:労働者層と生活保護層の境界線の揺らぎ

高所得者であるお笑い芸人の母親が生活保護を辞退せずに受給し続けていたというニュースが報道され、自民党の片山さつき議員らがTwitterなどで『生活保護不正受給者のバッシング・生活保護者増加(210万人以上)への財政的懸念の訴え』を始めた辺りから、労働者低層よりも不当に厚遇されている、保護水準が高くて働くのがバカらしくなるというロジックで生活保護受給者に対する風当たりが強くなった。

生活保護減額で集団提訴へ=「憲法違反」主張、支援者ら

一部のマスメディアの報道姿勢もあって、実際には1%未満である不正受給率であるにも関わらず、生活保護者の多くが本当は働けるのに働かないだけの不正受給者(あるいは反社会的勢力の絡む不正受給)であるというような誤解も広まりを見せ、約3.8兆円の予算規模が国家財政(将来の福祉政策の持続性)を逼迫しているという批判も多くなった。

1990年代までは、生活保護・貧困層に対する憐憫や軽視を伴う差別意識は残っていたものの、それは『自分は生活保護を受けたくないから頑張ろうという意識』に転換されることが多く、また現実的にも生活をあれこれ監視されながら生活保護を受け取るよりも(昔は仕事用の車も体調管理のためのクーラーも保有できなかった)、何らかの仕事を頑張ってしたほうが身入り(実収入)が良いことが自明であった。

『生活保護を受けている人のほうが恵まれているように見えるから(あくまで主観としてそう見えるであって本当に良い生活をしているかは甚だ疑問である)イライラする』や『自分はやりたくない仕事をしても少ない収入しか得られない。だから、働いていない生活保護者はもっと給付水準を引き下げられるべきだ』という感覚が広まっている背景には、『中流社会の崩壊・雇用環境と給与水準の悪化』がある。

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