「日本史」カテゴリーアーカイブ

石田三成と徳川家康の『関ヶ原の戦い』についての雑感:豊臣秀吉が石田三成を厚遇し過ぎたことの副作用

石田三成は有能な官僚で情に厚い面もあったが、領地・軍勢・名声において徳川家康と対峙できる武将ではなく、『秀吉に寵愛・厚遇され過ぎた事・才覚を認められすぎた事』が武断派に嫌われる原因になった。

石田三成「関ケ原」前年には決戦視野か、武闘派を召し抱え

武断派が追い詰められた朝鮮出兵で、石田三成は『秀吉名代の総奉行』として名だたる武将を上から使ったが(秀吉の任命で拒否できない)、このことが文治派と武断派の埋めがたい感情的な溝を深めた。秀吉本人は間もなく死没、三成ら奉行を『秀吉の威を借る狐』と軽視していた武将らは消極的選択で名将の家康方に与する。

豊臣秀吉も子飼いの能吏である石田三成が、豊臣政権の武断派の強力な武将たちに嫌われていた事(嫉妬されていた事)を薄々知ってか、朝鮮出兵後に秀吉は三成に『筑前・筑後』という九州の石高の多い国を賜おうとしたが、三成は辞退した。筑前・筑後にて構え毛利輝元を前線に立たせ総力戦をさせれば風向きはまた違ったかも。

歴史にもしはないが、石田三成が筑前・筑後から戦を指揮し毛利輝元と島津義弘を前線で手抜きなしで動かせる軍略の才知か人物のカリスマがあれば、戦争の場所が大きく西に動いて(東軍は長距離進軍を強いられ)『関ヶ原の戦い』という戦の名前自体変わり、勝敗も変わった可能性はある。島津や毛利の西軍の強力な大大名は実質戦っていないのと同じであったのだから。

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戦時中の日本の精神と『捕虜・降伏』を避けた村八分の心理:生まれ故郷・両親に対する特別な思い入れと恐怖

戦時中の日本兵の精神について報告した米国のIBでは、田舎者は天皇の為に死に靖国神社に祀られる事を最高の栄誉と信じたが、教育のある都会人ほど虚構と見抜いていたという。兵士としては三流だが降伏せず捕虜にならないのは、生還すると村社会で激しい虐待や排除に遭うからで、敵以上に味方を怖れて決死の突入をした。

米軍のIB(情報公報)では日本兵が降伏せず捕虜にならないのは『祖国』に還っても村八分・虐待で生きられなくなるからと記す。日本兵捕虜の苦悩は、天皇・公共への忠誠云々ではなく『生まれ故郷・ムラ』から排除・虐待される恐怖にあり、祖国に帰ったら父母から殴られ同胞から殺されるかもという考えの者が多かった。

日本軍だけではなく日本の学校においても、体罰・怒声・虐待による恐怖心を利用した絶対忠誠の植え付けが行われていたが、日本人は特に『生まれ故郷で裏切り者と思われること』を特に恐れ、降伏・捕虜になって生還しても『父母さえ生還を喜ばない・自分も家族も恥辱に塗れ人非人のように攻撃される』という思いが強かった。

捕虜の中には『生まれ故郷・本家や両親のある地域』にさえ戻らなければ、何とか死なずに済むと訴えたほど、故郷のムラと両親に自分が米軍に降伏した裏切り者と知られることを異常なほど恐れたという。こういった挫折・失敗して生まれ故郷・親元に絶対に還れないという価値観は、戦後の集団就職の時代頃まで続いていた。

今でこそ、匿名的な都市環境や甘える友達親子も許されているが、戦時中は元より戦後暫くまで『挫折・失敗によって生まれ故郷や親元に還るのは死ぬよりつらいという村八分やイエの名誉が関連した価値観』は生き残った。1970年代頃まで田舎は長男以外の子は一度外に出ると家に逃げ帰るようなことはできない風習は強かった。

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今上天皇退位による改元の時期はいつか?元号と西暦によって生み出される日本人の時代感覚

昭和64年(1989年)はまだ一般にPCも携帯電話・PHSも普及してない時代だったから、コンピューター上の改元の影響を考慮しなくて良かったが、デジタル化が進んだ平成の後は元日がやりやすいのはある。

改元の時期、「元日」支持が70% 朝日新聞世論調査

近代日本の元号の元年(初め)の西暦は『1868年・1912年・1926年・1989年・2019年(予定)』だが、こう見ると64年も続いた昭和が如何に長かったか、昭和の前半と後半(1945年以降)で如何に日本の雰囲気や価値観が変わったかを思わせられる。昭和天皇も戦争の時代には30~40代で若かった。

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沖縄戦終結72年、沖縄県の戦争被害・基地負担の歴史を考える:戦争が起こるメカニズムと戦争を支持する大衆心理・時代意識とは何なのか?

沖縄の悲劇は戦争と戦陣訓で多大な犠牲を出した地域でありながら、戦中は二級国民扱いされ、戦後の反戦運動・基地反対さえ非国民的(親中・利敵)と指弾されている事だろう。軍事関連の犠牲と負担と非難が、沖縄県に長年にわたってのしかかり続けている。

沖縄戦終結72年=語り継ぐ体験、妹亡くした83歳女性

戦争を繰り返さないためにどうすれば良いか。軍事力を強化すれば戦争を回避できるは誤りで、『軍産複合体の巨大化+軍人の発言権の強化・軍人閣僚の承認』があると、アメリカのように軍事費・軍隊の自己正当化(必要性の自己証明)のために戦争の大義名分がつくられる。軍事関連の雇用が増えると簡単に削減できない。

必要限度の防衛力(軍事力)は必要だが、『軍事費・軍事関連の雇用の拡大』を抑えられる仕組みを担保し、『軍事ビジネス化(国の軍事予算を当てにする企業・軍隊・勢力の増大)』と『軍人の権威権限・発言力の強化(軍人が内閣に入って閣議に影響を及ぼす)』と『国民の軍事・軍人の熱狂的支持』は抑止しなければならない。

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近代日本の竹島の領有権獲得と韓国の独島の実効支配:なぜ日韓のナショナリズムは竹島(独島)問題で燃えるのか?

竹島は客観的には岩礁に過ぎず、大半の日本人・韓国人は実際に上陸しないという意味で『認識上の固有の領土+民族意識のぶつかる焦点』だが、国家観念が希薄な19世紀まで日韓共に無関心ではあった。

竹島教育批判の手紙、56中学校に 韓国の中学生名乗る

竹島の領有権は国際法上は日本にあるが結局、明治維新でアジアで最も早く近代化した日本が衰退期の李氏朝鮮を圧倒しており、国家間競争における領土拡張の重要性を認識していたからこそ、日露戦争に勝った勢いもあって1905年に竹島を日本領に編入したのである。当時の大日本帝国と李氏朝鮮の力の差も大きかった。

竹島問題の原点は、韓国が朝鮮半島の侵略過程で竹島を日本が一方的に編入したというように、アジアの小国でロシアに一矢報いて自我肥大していた大日本帝国はそもそも『李氏朝鮮を対等な独立国家と見ていなかった事』が前提にある。ロシアの南下政策のために朝鮮を防波堤にしようする征韓論以来の一貫した覇権主義はあった。

近代化推進の日本は李氏朝鮮よりも圧倒的に軍事力・経済力・文化水準が高かったからこそ、当時衰退していた李氏朝鮮は『竹島含む海洋島嶼群の一方的な領土編入』に物申せなかったのであり、20世紀初頭の段階においては強者である日本が弱者である朝鮮半島を巡って、強者であるロシア(その後のソ連)と睨み合っていた。

竹島が固有の領土であるかは、20世紀初頭でも『過去の文献史料・領有権の議論・発見の歴史の先後』で決めたわけではなく、帝国主義の苛烈な領土争いの中で『日本領であると宣言しても他が競合できない国力の強さ』を日本が持っていたという事情が大きい。日本と朝鮮の近代の国力差と併合が感情的不満の根にある。

国家の独立や王朝の存続さえもが危ぶまれていた李氏朝鮮が、大量の犠牲を出しながらも白人国家ロシアを打ち破って勢いに乗る大日本帝国に対して『領有権争い』を仕掛けられるはずもなく、段階的に保護国化されていく過程で朝鮮は竹島どころか外交・内政含む国家主権の大半を日本に委譲する条約にサインしたわけである。

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戦国時代から江戸時代にかけての『兵法家(剣客)・軍学者・儒学者』の虚実と実用性の喪失:『戦術・剣術・政治学』は商売・士官の処世術に。

現代における日本刀(真剣)は芸術品・骨董品であり実用の武器として使われないが、刀はその実用性が弱くなり床の間に飾られるような存在になってから高価な芸術品となり、『武士の魂の象徴』として観念的に神聖視されるようにもなっていった。

江戸以前の武士・剣客には、刀に対する過度の精神性の投影(神聖視)はなかったとされ、宮本武蔵も佐々木小次郎との巌流島の決戦では刀の使用にはこだわらず、(脇差で削った)櫂を木剣として使い、勝つためには何でもする姿勢で勝利した。
古代日本には青銅器時代はないので『銅剣・銅矛』は実用の武器として人を殺すために使われたことはほとんどないが、実用性のない輸入(模造)された銅剣・銅矛は祖先祭祀の道具や政治権力・富裕の象徴として神聖視されていた。

現役で実用性の高い武器は、機関銃・拳銃・ミサイルなどがそうであるように神聖視されることは少なく(北朝鮮の核兵器崇拝などの例外はあるが)、実用性を失ってからの武器のほうが権力者に神聖視(権威権力の象徴化)されることになる。

『鉄砲伝来以後の弓矢・槍』なども、天下泰平の江戸時代以降に『有力な武門一族の象徴』として盛んに『弓矢・弓馬の道、槍一筋の家柄』などが(実際に戦もしたことがなく武術の腕も落ちているサラリーマン化した武士の口から)喧伝されていた。

徳川家康も自分が敵を射殺す弓の名手などではないが、『海道一の弓取り』として武士の中で突出した武芸・指導力の持ち主として象徴的な呼び方をされた。

戦の仕方を忘れた江戸時代の大名に流行した『軍学』という戦術戦法・軍備・布陣・築城・軍編成の学問というのも、基本的には『実戦に応用できない権威的・仮想的な虚学』だったが、藩を治める大名は形式的には『常に有事の戦に即応できる軍事体制(徳川幕府の救援に駆けつけて戦える軍事体制)』を敷いておかなければならないとされていたから、もっともらしい軍学を理路を通して説く弁舌家は徴用されやすかった。

軍学者は、武田信玄の戦術継承を『甲州流』として自称した小幡勘兵衛景憲を先駆けとするが、軍学者の多くは軍学を『出世・俸禄獲得の道具』とした勉強・読書・演説が得意な人たちであり、軍学の根拠となっているのは『太平記』『甲陽軍艦』などの物語的な軍記文学だったのである。

不満分子の浪人を動員して幕府に弓を引いた『由井正雪の乱』で知られる由井正雪も、『楠流』を称する大軍学者として当時求心力を高めていた人物だが、読書人の架空の戦術・軍事の限界(弁論は立つが実戦では勝てない)をあっさり露呈した。
とはいえ、江戸時代の軍学者は、普通は藩主や上級武士に講義をするだけでやるかやられるかの実戦の機会は皆無なのだから、本当に実戦で通用するかしないかはわからないまま終わっていたのである。

国学者の荻生徂徠などは軍学ははったりに過ぎずまともな軍学は古来の『孫子』くらいしかないだろうと語り、実戦で強かった薩摩藩の島津氏も『当家には当家に伝来する戦のやり方あり』という理由で持論で説得してくる弁舌家の装いがある軍学者は重用しなかったという。

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