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映画『フューリー』の感想2:戦時下の純愛的な男女関係の幻影・十字路の死守

外国に占領された国・地域の、占領軍の男性(軍人)と占領地の女性との関係というのはいつの時代も似たような構造を持つが、ナチスドイツや大日本帝国の将校・幹部たちも占領した土地の女性を、形式的には合意の上で『愛人・現地妻』のようにして囲い込むことが多かった。

映画『フューリー』の感想1:戦争の現実に適応するために変容するノーマンの人格

ノーマンとエマの関係はそういった戦勝者の庇護による愛人関係・現地妻とは違うように見えるが、エマとノーマンの二人の関係ができあがる前には、占領したばかりのアメリカ兵に媚態を振りまくドイツ人女性とその女の腰を抱き寄せて「心配するな安心しろ。俺が守ってやるからな。こっちに来いよ」とボディガード気取りで語りかけて戦車内の密室に消える米兵が前置きのようにして描かれる。

あるいは、勝者である俺たちは食糧やカネなら持っているぞ(敗れて奪われ殺されたドイツ人の男たちはもうお前らを守れないし食糧もカネも持っていない)という羽振りの良さをアピールして女をベッドに誘う兵隊の姿がある。

露骨な力の原理と男女の性の悲哀(近代中期までの歴史的な女性の庇護・扶養の観念と女性を巡る男性のマッシブな競争原理)が、ノーマンとエマの出会いと結びつきではかろうじて上品に目隠しされているのだが、コリアーの無頼を気取った部下たちがその目隠しを力づくではぎとりにやってくるのだ。

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映画『フューリー』の感想1:戦争の現実に適応するために変容するノーマンの人格

総合評価 91点/100点

ブラッド・ピットやレオナルド・ディカプリオなど、若い頃に端正な容貌でアイドル的な人気を得ていた俳優が、30代後半以降になってから深い人間性を問うテーマや歴史的社会的な問題意識を感じさせる良質で重厚な作品に恵まれ始めた。

第二次世界大戦のナチスドイツとの熾烈な市街戦を題材にした『フューリー』も、戦争もののハリウッド映画の中では出色の出来栄えではないかと思う。

戦闘に参加する意思・覚悟がないままに前線に送られてきた18歳の新兵ノーマン・エリソン(ローガン・ラーマン)の急速な人格の変容を描くことで、自ら人間性と良心を破壊して捨てざるを得ない戦争の倫理的問題が、“生々しい現実への適応(生きるか死ぬかの選択)”として示される。

戦争の前線が人間の心理と行動をどのように変えるか、敵と戦う軍隊とはどのような組織なのか、人を殺せなかった良心的で信仰心の強い臆病な人間がなぜ大量の死体を容赦なく作れるようになるのか、下品で粗野な人間性(獣じみた暴力と性の欲望)を表層に出さずにはいられない戦争の狂気とは何なのか、戦争と人間性の喪失・心理変容を巡るテーマが『フューリー』の全編にわたって通奏低音として流れる。

戦争の倫理的・人道的な脅威だけではなく、ナチスのタイガー戦車(最後の一台として実在するティガー131をレストアして撮影に使用)との戦闘場面もかなり迫力があって面白い。

フューリーをはじめとするアメリカのシャーマン戦車(M4中戦車)は、主砲の火力と装甲の強度、機動性・旋回性のすべてにおいて、ナチスのタイガー戦車より性能が劣っており、米軍は4台でタイガー戦車に立ち向かうがあっけなく2台が破壊される。コリアーが指揮するフューリーは、巨体のタイガー戦車を左右に揺さぶるトリッキーな動きの操縦と装甲の強度が弱いポイントに集中砲撃する作戦で立ち向かうが、戦争のアクション映画としても楽しめる要素が多く散りばめられている。

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寿司を食べる順番と保存食(発酵食)からの鮨の歴史

回転寿司が普及してから、寿司の高級感・特別感がかなり薄れてしまった感じがするが、最近は以前カウンター式の高い店だったところが、回転方式に鞍替えしていたりもする。スシローやくら寿司、かっぱ寿司とかの大手チェーンは、一皿100~200円くらいの画一的な料金の安さを売りにしているが、(十分に美味しいし季節のオリジナル商品の面白さもあるけれど)ネタや味はそれなりといえばそれなりではある。

みんなどうしている?お寿司を食べる順番

回転寿司でも一皿300~500円以上の高い皿があるところは、カウンター式と殆ど変わらないお高い料金になるが、ネタもかなり高級なものや珍しいものが置いてある。

福岡県だと門司港とかトリアス久山とかにある『玄海』という回転寿司チェーン(店舗数は少なそう)がそういったやや高めの回転寿司だが、百円の回転寿司と比べるとマグロや車海老、ウニ、エンガワなどが分かりやすいが(100~200円でもウニは食べられるが種類・質・鮮度は必然的に劣る、季節や仕入れの都合で置いてない場合も多い)、ネタの良さはかなり違う。

寿司の食べる順番というのは余り意識したことはないが、僕は『通』でもないので
、マグロ(赤身)・サーモン・エンガワ・ウニ・イクラなど結構好きなものから食べて、最後にあっさりした白身や細巻きを食べるという感じで記事とは逆になっているな。アジやイワシ、サバ、カツオといった光り物(青魚)も好きなので、マグロやサーモンと交互に頼んだりするが、貝類・エビ・イカもアクセントとして一品は食べたくなる。

回転寿司でも、茶碗蒸しとか汁もの(あら汁)とかと合わせて食べて、最後はわらび餅とかアイスとか簡単なデザートも頼んだりする。皿数でいえば12枚以上食べることはまずなくなった(そんなに量を食べられなくなった)ので、食べたいネタをある程度厳選してから食べてはいるが、そうなるとかっぱ巻きや新香巻きといったものが後回しになって食べたいけど食べられなくなりやすいw

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国民・政治家の世代交代の進展、『終戦記念日(不戦の誓い)』の緩やかな変質:米国の戦勝に寄りかかる東アジア諸国の歴史認識とコンプレックス

戦後日本の平和を支えてきたものとして、日本国憲法(9条の平和主義)と日米同盟、米ソ冷戦構造(核抑止力)、経済大国化(暮らしの豊かさの上昇)があるが、それにも増して『日本の重武装・9条改正・右翼性・戦争参加』を抑止してきたのは、『アジア太平洋戦争(大東亜戦争)で家族の死傷・飢餓と貧窮・不自由と国家権力(軍)の横暴を実際に経験してきた人たち』であった。

終戦記念日:69回目の夏、平和誓う 武道館で追悼式

軍隊生活の理不尽な上下関係、兵站を無視した行軍・現地調達の過酷さ、ジャングルや島嶼での伝染病の苦しさ、飢え死にするほどのひもじさ、庶民(部下)を見捨てて戦後に責任逃れをする卑劣な戦争指導者や上官(教員)への怨嗟、権力や軍部からの強制と隣近所の相互監視、嘘で塗り固めていた大本営発表と戦地の現実など……それまで戦争の大義名分・利益強調と天皇崇拝の国民教育(非国民として非難される恐怖)によって目隠しされていた『戦争の本質・大衆の本音・庶民の犠牲』が敗戦によって溢れ出てきた結果が、もう戦争はこりごりだという戦争放棄(国民を徴発して無謀な戦争を遂行した国家権力への不信)であった。

それまで、日本人や大和民族、天皇の赤子(臣民)として『仮想的な一体感・忠君報国の義務』を持つとされてきたが、『日本の政治家・軍部・官僚・財界の上層部』は戦時中にも飢餓や貧困、戦死(戦地での餓死病死)と無縁だった者も多く、無謀で危険な作戦を計画立案した将校がのうのうと生き延びていたりした(戦争末期の現場からかろうじて逃げ出していたりした)。

この現実を見た庶民・兵卒の中には、『同じ日本人(一君万民)という一体感』は実際には幻想であり、無位無官の力を持たない日本人に危険な仕事を愛国心(臣民としての誇り)を理由にして押し付けていたのではないか、政治指導者をはじめとする上層部は『庶民の生命・権利』を軽視していただけではなく、交換可能な部品のように武器・食糧もない戦地に無意味な兵員投入を繰り返したのではないかという不信・憤慨でもあった。

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アメリカの原爆投下は、なぜ日本人の怨恨・屈辱を長引かせなかったのか?:戦後日本の幸運なサクセスストーリーと90年代からの停滞ムードからの国民意識の変化の兆し

こういった疑問を抱く人も近年は特に増えているようだが、この答えは『終戦前後の大日本帝国の支配体制及び生活状況が悲惨であり既に厭戦気分が強かったから・自国の政治家や軍人が統治しているからといって必ずしも日本人の生命及び権利が大切にされていたわけではないから・アメリカの占領統治が日本人の反感を買わないことに腐心したから』ということになるだろうか。

何より、戦後日本の実際の歴史的な歩みには、敗戦のショックや屈辱(暗い見通し)を打ち消すだけの焼け野原からの復興・前進・急成長による明るさがあり、それは大勢の日本人にとって日本がアメリカと同等の豊かさを持つ先進国に成り上がっていくというサクセスストーリー(非軍事的な経済競争・技術開発での勝利)として受け取られた。

血も涙もない『鬼畜米英』と教育されていた日本人は、戦争に敗れれば男はみんな殺害されたり奴隷にされ、女は強姦でもされるものと思って決死の総力戦に奮戦したが、いざ実際の占領統治が始まるとアメリカ軍は暴力的・虐待的な支配や使役を行わず、むしろ日本人の飢餓・貧困・不自由に配慮する焦土からの復興支援プランを示したことで、日本人の大多数は肩透かしを食らった。

日本政府は配給を滞らせて飯を食わせてくれず、逆に食糧をすべて軍のために徴発していったが、メリケンは庶民でも飯(パン)が食えるような食糧支援プランを講じてくれた、戦後すぐの荒廃し尽くした焦土における飢えと不安、そこに与えられた米軍からの配給食糧の恩恵は、長年の教育で刷り込まれた日本人の欧米憎悪(白人の鬼畜視)を緩やかに崩すに十分な効果を持っただろう。

アメリカから流入する華やかな文化文物・娯楽・映画・ファッション・進んだ機械は、『日本の後進性』を第二の黒船ショックのように刺激して、大日本帝国時代に持っていた、日本はアメリカやイギリス以上に先進的な素晴らしい国(日本人はアメリカ人やイギリス人よりも皇国・天皇から赤子として大切に処遇されている)という幻想があっという間にかき消されてしまった。

軍事的な総力戦で敗れただけではなく、国民の自由や幸福、娯楽、政府の社会福祉や人権保護、男女平等の領域においても、日本はアメリカやイギリスに及んでいなかった現実を突きつけられる格好になり、『明治維新以降の殖産興業・自由民権・物質文化の向上』が昭和初期に頓挫してしまったことで、日本人は『国・天皇のために全てを捧げなければならない臣民(命・身体さえも拘束され得る非自由民)』にとどまっていたことに気づかされるのである。

結果、日本人は『初めから勝てない戦争(圧倒的に経済・物量も軍事も文化娯楽も進んでいる米国との無謀極まる戦争)』に政府や軍から騙されて駆り出されたという被害感を持つことにもなった。これは半分真実、半分捏造とでもいうべき被害感である。

当時は戦争(外国嫌悪)や国家主義(天皇崇拝)に賛同して貢献するような国民になるように教育されていたのだから、『戦争反対・個人主義・平和主義』などの価値観を持つ国民は殆どいなかった。

満州事変や国連脱退、三国軍事同盟、真珠湾奇襲など、英米との軍事的緊張が高まり衝突していくイベントに際して、日本人の大多数が興奮して拍手喝采したというのも事実である。日本の帝国主義や国体思想は『国民教育の前提』なので、日本の支配圏の拡大やアジアでの軍事的プレゼンスを押さえ込もうとする英米が嫌いな国民が多いのは当然といえば当然であった。

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映画『300 ~帝国の進撃~』の感想

総合評価 90点/100点

前作『300』では、100万以上の大軍で押し寄せるクセルクセス大王のアケメネス朝ペルシア帝国を、レオニダス王率いるわずか300人の精強なスパルタ兵が迎え撃った。幼少期から過酷なトレーニングで最強の戦士を育て上げる都市国家スパルタが、玉砕覚悟の戦闘を挑んだ伝説的な『テルモピュライの戦い(紀元前480年)』を題材にしてアレンジした映画である。

ポリスの自由と独立を守るために勇猛果敢なスパルタ兵たちは、ペルシア帝国の圧倒的な大軍に恐れを知らぬ突撃を繰り返す。わずか300名の精兵のみで100万に近い大軍を3日間にわたり足止めし、スパルタの武力の強さとレオニダスの名を伝説にまで昇華させたが、“神王”を自称するクセルクセス大王(ロドリゴ・サントロ)の『ギリシア征服の野心』まで吹き消すことはできなかった。

都市国家アテナイは、ペルシア戦争序盤の『マラトンの戦い(紀元前490年)』で勝利を収めたことで軍事防衛の自信を深め、親ペルシア派を陶片追放して対ペルシアの敵対的な外交姿勢を固めた。

映画では紀元前480年、テルモピュライの戦いと並行する形で行われた『アルテミシオンの海戦』で、アテナイの将軍テミストクレス(サリヴァン・ステイプルトン)がペルシアのダレイオス1世を弓矢の奇跡の一撃で落命させたという創作のエピソードを盛り込むことで、クセルクセス大王のギリシアへの支配欲・復讐心に説得力を持たせている。ギリシアへの復讐心に燃えてペルシア海軍を指揮する女剣士のアルテミシアもまた、原作・映画のために創作された個性的な人物である。

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