「歴史」カテゴリーアーカイブ

高円宮典子様と出雲国造家の千家国麿さんとの婚約が内定し記者会見を行う。

高円宮典子様と千家国麿さんの結婚は『古事記・日本書紀』の神話時代まで遡る血縁関係や国譲りが引き合いに出される事が予想される結婚だが、皇室と寺社は日本の家柄・格式・信仰の物語的な源泉である。

<高円宮家>次女典子さま婚約内定 記者会見でのやり取り

天皇・皇室・寺社格式・記紀の神話にまったく興味がない日本人も増えてはいるだろうが、それでも科学的世界観や世俗的価値観が普及した現代の日本において、『神々の血統の末裔としての家柄とその権威』が単純なフィクション(作り話)以上の共同幻想として未だに機能していることは驚嘆すべき事かもしれない。

天皇や皇族に『日本人らしさの純粋な模範的な原型(実際は明治維新以降に創られた伝統・格式・道徳・行事も多いが)』を見出したいとする日本国民は現在でも相当な割合に上り、庶民を畏敬させる貴種崇拝願望はなお強い。米を特別視する瑞穂の国の伝統も、天皇家の大嘗祭・新嘗祭の祭祀と切り離しては考えにくかったりする。

続きを読む 高円宮典子様と出雲国造家の千家国麿さんとの婚約が内定し記者会見を行う。

安倍内閣が『竹島は日米安保条約の対象外』と答弁。竹島問題(韓国の李承晩ラインによる不法占拠)の歴史的経緯とその問題解決の模索。

竹島問題は1945年の敗戦でGHQに占領された日本が、領土侵害に対抗する防衛力とその行使権限を持たなかった事で発生した失地問題。マッカーサーラインで竹島を外した米国の不作為の後遺症でもある。

「竹島は日米安保の対象外」 内閣、答弁書を閣議決定

ダグラス・マッカーサーは日本の漁業可能水域をマッカーサーラインによって区画したが、そこに竹島を加えなかった事は意図的な領土削減の政略というよりも、『当時の竹島の領土の重要性』をアメリカも日本も強く認識していなかった事の結果論である。

1952年1月の李承晩ラインの一方的な設定と竹島の実効支配に対して、当時のアメリカが強硬な反対姿勢を示していれば『米軍の軍政統治』から独立したばかりの李承晩軍事政権(経済力も軍事力も未だ弱体である)も譲歩せざるを得なかったが、アメリカはそこまでの介入はしなかった。日本も『敗戦のショック・国民の関心の薄さと厭戦・韓国併合の負い目』で、不法占拠に対する抗議に留まった。

続きを読む 安倍内閣が『竹島は日米安保条約の対象外』と答弁。竹島問題(韓国の李承晩ラインによる不法占拠)の歴史的経緯とその問題解決の模索。

ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)は食べ物を煮炊きして食べていたか?

ネアンデルタール人はホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)と共通祖先を持つホモ属ではあるが、現生人類とは異なる種であり、約3万年前に現生人類との闘争に敗れて絶滅したとされるが、直立二足歩行以外の『言語・感情・道具のレベル』には諸説ある。

ネアンデルタール人も煮炊きしていた?

ネアンデルタール人の感情についても遺跡でまとまった『花の種子』が見つかり、『死者を弔う感情・葬儀の慣習』があったのではないかと推測されたが、古人類の問題は遺跡・史料からだけでは断定的な判断は不可能である。喉頭の骨の形状から現生人類ほどの多様な音声は出せず言語能力は限定されていたと考えられている。

続きを読む ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)は食べ物を煮炊きして食べていたか?

『憲法9条』のノーベル平和賞への推薦とその有効性の考察:日本国内における憲法9条を巡る価値観の対立

『憲法9条』をノーベル平和賞に推薦することは、日本国が政策的・侵略的な戦争(武力による威嚇)を遂行しないと決めた最高法規を持つ立憲主義の国であることを世界に改めて示す効果はあるが、仮にノーベル平和賞を受賞したとしても『日本以外の国』に憲法9条のような平和条項を導入させる働きかけをしなければ、国際平和への貢献にはつながりにくいだろう。

ノーベル平和賞:「憲法9条」が候補に 受賞者は日本国民

憲法9条に対する誤解として、9条の平和主義(戦争放棄)は無抵抗主義で平和ボケだという誤解があり、外国から攻撃されたり侵略されたりしても無抵抗でやられるだけなのかという反論があるが、憲法9条の規定があっても自然権に由来する『個別的自衛権』までは放棄できない。

9条があっても、日本側の交渉・対話・検証の求めをあくまで拒絶する一方的な外国の攻撃・侵略・テロを排除するための自衛目的に限定された反撃は当然に許される。日本の領土を直撃しない北朝鮮の国威発揚のミサイル発射実験に対して、現状でも破壊措置命令は出されているが、9条の規定によって日本の側から『戦争・武力(軍拡・核武装)・集団安保』を盾にした要求・交渉・威嚇はしてはならないという国家権力の歯止めが効かされている。

戦後日本の平和と安全は『憲法9条』によってもたらされたものではなく、平和主義と戦争放棄、軍隊の不保持のお題目を唱えているだけでは平和・主権は維持できないという意見もある。

続きを読む 『憲法9条』のノーベル平和賞への推薦とその有効性の考察:日本国内における憲法9条を巡る価値観の対立

松本清張の『啾々吟(しゅうしゅうぎん)』の感想:人に容れられなかった石内嘉門の不条理な運命

肥前佐賀藩(鍋島藩)において、幕末の弘化三年丙午八月十四日に生まれた三人の男。

肥前守・鍋島直正の嫡男である鍋島淳一郎(なべしまじゅんいちろう)

鍋島藩家老の子である松枝慶一郎(まつえだけいいちろう)

二百俵三人扶持御徒衆・石内勘右衛門の子である石内嘉門(いしうちかもん)

同年同月同日に生まれた鍋島藩の三人は、『大名の子・家老の子・軽輩(身分の低い藩士)の子』とそれぞれに境遇が異なるが、封建時代の身分の格差・遺風は三人が成長して明治維新を迎えてからも、どこか宿命的な影を落として消えることがない。

全く同じ日に産まれたという主従関係の因縁によって、松枝慶一郎と石内嘉門は君主となる鍋島淳一郎の近習(お側付きの学友)となり、その中で最も学識の才能を示した頭脳明晰な若者は石内嘉門であった。

三人の先生である藩儒・草場佩川(くさばはいせん)は、学問に熱心で聡明・利発な石内嘉門を初めは評価して、特別に高度な内容の個人授業を施していたのだが、後に『頭脳(あたま)はたしかによいほうです。だが、どことなく、可愛気のない子ですな』と嘉門の人物を気に入らない様子を見せる。そして、この『上の人から好かれない・能力を他人(世の中)に受け容れられない』ということが石内嘉門に時代を超えた呪縛・怨念のようにまとわりついて離れず、次第に嘉門の人間性を腐らせていく。

石内嘉門の人物と才知を最も高く評価していたのは幼馴染の松枝慶一郎であり、松枝は何とかして有能な嘉門を取り立ててやろう推挙してやろうと腐心するのだが、『松枝だけが認める嘉門の人物・能力・才覚』はどうしても他の上の人間には受け入れられず認めてもらえない。同じ日に生まれて長らく側に仕えていたはずの主君・鍋島淳一郎(鍋島直大)からも次第に冷遇されて遠ざけられていく有様である。

続きを読む 松本清張の『啾々吟(しゅうしゅうぎん)』の感想:人に容れられなかった石内嘉門の不条理な運命

松本清張の『梟示抄(きょうじしょう)』の感想:元参議兼司法卿の江藤新平の無残な最期

松本清張が幕末から明治初期の時代を題材に取った最初期の短編集『西郷札』は、歴史小説の読み応えのある秀逸な短編が多く収載されている。ミステリー作家ではない松本清張の歴史的な人物の選定眼や独自の歴史解釈の妙味を味わうことができる一冊だ。

『梟示抄(きょうじしょう)』とは聞き慣れない言葉だが、端的には明治初期の刑法にあった梟首刑(きょうしゅけい)を受けた人物の抄訳という意味である。梟首とは犯罪者が斬首(打ち首)にされた後に、三日間にわたって晒し首にされる見世物(見せしめ)の要素のある公開処刑のことであり、日本でも1879年(明治12年)の太政官布告で非近代的(野蛮)な残虐刑として廃止されるまで存続していた。

江戸時代には、下手人の首を市中で晒し者にする『獄門』と呼ばれる刑罰が梟首に当たるが、死体の埋葬や葬礼を許さない名誉剥奪の刑罰という側面も濃厚に持っている。

明治維新の後、『征韓論』を主張して政争に敗れた西郷隆盛を押しのけ、最高権力の座に上った参議・大久保利通は、この梟首刑を『佐賀の乱(1874年)』を主導した江藤新平に対して容赦なく執行するのだが、元司法卿(元閣僚)の法理を修めたエリートであり維新十傑に数えられる肥前出身の江藤新平を『ただの賊(反政府勢力)』として名誉を奪い晒し首にしたことで、大久保利通は薩長藩閥が要職を悉く牛耳る政府(官軍)の正当性を天下に知らしめることとなった。

江藤新平が司法卿の地位を辞任して故郷に下野した理由の一つは、『征韓論が容れられなかったこと』であるが、その前段階として『裁判所増設・司法権の独立のための司法改革』を長州閥の井上馨と山県有朋に妨害されており、江藤新平の内心では『薩長中心の藩閥政府に対する不満』が兼ねてより鬱積していた。

続きを読む 松本清張の『梟示抄(きょうじしょう)』の感想:元参議兼司法卿の江藤新平の無残な最期