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映画『利休にたずねよ』の感想

総合評価 84点/100点

市川海老蔵演じる千利休の濃い存在感や自負心の強い台詞回しが印象に残る映画。千利休が豊臣秀吉(大森南朋)に切腹を命じられた理由や背景を、当時の人間関係とエピソードの中で多面的に捉えている。

権力ですべてを牛耳る専制君主となった秀吉に対して、唯一分かりやすい形で跪かない男が茶頭の千利休であり、利休は面従腹背してはいたものの、次第に秀吉にとって目障りな存在になってくる。

千利休もまた『自分は美しいもの以外には従わない』という頑なな姿勢を鮮明にし始めるようになり、間接的であるにせよ、『権力・暴力による強制的な支配』に頼っている秀吉を、“権力の通じない茶の湯の境地(芸術的な高み)”から見下しているかのような態度に見られてしまうようになる。

物語を盛り上げるために創作した高麗の王族の娘との色恋沙汰のサイドストーリーはやや蛇足にも見えるが、千利休と妻の宗恩との夫婦関係の深層を解明する要素になっている。また、千利休が秀吉に激高された理由の一つが『朝鮮出兵に対する反対(武力の無闇な行使を美に反する野蛮な行為として指弾したこと)』だとも言われており、高麗の娘との恋愛が、利休が高麗の平和(戦争回避)に思い入れをするようになった伏線になっている。

本作『利休にたずねよ』では、『利休と秀吉の確執』の中心に絶対権力者の秀吉に心から服従することのない芸術家の利休という図式を置いているのだが、上で書いた高麗の娘との悲しい恋愛の思い出(朝鮮出兵に反対する動機づけ)だけではなく、秀吉が利休の娘を側室として所望したが断られたという話も織り込まれている。

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安倍首相の靖国神社参拝と国家に対する絶対的忠誠の道徳2:平泉澄の皇国史観・天皇崇拝のイデオロギーと戦争責任の曖昧化

靖国神社には、戦争指導者・軍の幕僚として徴兵をしたり従軍の命令を出した者、召集令状(赤紙)で徴兵された者の双方が祀られているという矛盾もあるが、これは『国家のために死ぬ国民教育・価値観の誘導・同調圧力の形成』をしておきながら、国体のために戦死した人を肯定的に顕彰し続けるというマッチポンプの構造もある。

安倍首相の靖国神社参拝と国体・天皇に対する絶対的忠誠の道徳1:日本でなぜ本格的に近代史の授業がしづらいのか。

つまり、靖国神社の英霊崇拝の歴史的な仕組みの問題は、これから戦争で死ぬ国民を無くそうとする平和主義(不戦の意志)の目的で建立されたのではなく、むしろ戦争で死ぬ国民がこれからも持続的に生み出される(国体や天皇のために命を捧げるような忠義の国民を育成して生存よりも戦死の価値を強調する)ことが前提になっていたことにあるように思える。

靖国神社の宗教道徳的な働きには『戦没者の慰霊・鎮魂』と『国民の戦意発揚・滅私奉公』の二つの側面があるが、空爆・沖縄戦などで戦争の巻き添えになった一般庶民の死までは慰霊していないのであり、国民の命の犠牲・貢献を一般的に慰安する施設ではない。

戦時中の右翼思想(皇国史観)の最大の唱道者で、近衛文麿・東条英機のみならず昭和天皇に歴史講義までした東大教授の平泉澄(ひらいずみきよし)は、天皇絶対主義の『平泉史学』で当時の日本人の好戦的なマインドと空気を支配した人物として知られる。国家社会主義とも親和した右翼思想家の北一輝・大川周明よりも、天皇中心の国体の至高性を強く主張している点で平泉澄の歴史学やその講義・著作は特殊なものであった。

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安倍首相の靖国神社参拝と国体・天皇に対する絶対的忠誠の道徳1:日本でなぜ本格的に近代史の授業がしづらいのか。

政治家の靖国神社参拝に特別な意味づけが為されやすい理由は、『国家神道・軍国主義・天皇崇拝と忠君愛国・ファシズム(拒絶困難な同調圧力)との密接な歴史的関係』があり、日本人が徴兵されて戦死することを正当化する(忠義の国民か卑怯な非国民かを踏絵のように識別する)『政教一致のイデオロギー装置』として機能した過去の呪縛的な重みがあるからである。

1930年代半ばからの戦時中の一時期の日本は、『軍国主義』であると同時に、記紀神話・天皇制を国体の本質とする宗教国家』であり、天皇は皇祖神(ニニギノミコト)の後胤である『現人神』なのだというフィクションを史実として真剣に信じる国民も少なくなかった。

少なくとも、天皇をただ天皇という歴史的な肩書や身分を持った普通の人間の一人なのだという意識は、多くの国民には無かったはずで、『天皇の意志』を勝手に都合よく忖度することで政治・軍事の判断に権威的な正当性を加えた政治家・軍人(虎の威を借る狐)が多かったのである。天皇陛下の御意志に逆らうのか(天皇陛下の指揮する皇軍に対して統帥権干犯をするつもりか)という一言は、軍部が戦争の決定や軍事予算の増額を行う場合の決め台詞でもあった。

厳密には、主権者である天皇と家臣である全国民という『精神的・象徴的な君臣関係』が生きており、『私は天皇の臣民ではなくその命令に従わない』という自意識・活動が反乱(謀反)と見なされたという意味において、昭和10年代以降の日本の国家観や政治体制は『民主主義・自由主義・権利思想』からは遠かったし、村社会的な厳しい相互監視体制に置かれてもいた。

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映画『清須会議』の感想

総合評価 90点/100点

明智光秀が謀反を起こした『本能寺の変(1582年)』に倒れた織田信長の後継者を誰にするのかを決めるため、織田家の家老と重臣たちが大挙して清洲城に集結して『清須会議』と呼ばれることになる評定を開くことになった。

圧倒的なカリスマと専制権力で織田軍を強力に指揮していた信長の想定外の死、更に信長に続いて明智との戦いに散った長男・織田信忠(中村勘九郎)の死によって、織田家の跡目を継ぐ資格のある子息は次男・織田信孝(坂東巳之助)と三男・織田信雄(妻夫木聡)とに割れることになった。

三谷幸喜の喜劇映画のオールキャストに近い出演陣だが、笑いやユーモアの要素もふんだんに取り入れながら、『列伝的な歴史物語の面白さ』を十分に抽出している。織田信長・豊臣秀吉・柴田勝家などの戦国武将の伝記が好きな人、清須会議に関する大まかな歴史の知識がある人なら、それだけで時代劇映画としての『清須会議』のストーリーを史実との違いも含めて楽しめる。

何より一人一人の歴史上の武将・人物のキャラクター(性格気質・生き方)として知られている特徴を、大げさに強調して演技させているのが『色のついた時代劇』としての滑稽感や納得感を強めている。

猛将として知られる柴田勝家(役所広司)は、織田信長に初期から随従して殆ど全ての戦で先陣を切り、京都平定(将軍の足利義昭追放)・加賀一向一揆鎮圧の数々の戦で勲功を上げた功労者で、元々は織田家中における格付けは羽柴秀吉よりも圧倒的に上だった。

年齢・軍功・激しい気質において家中で抜きんでていた柴田勝家に対し、若年の羽柴秀吉(木下藤吉郎)は『親父殿』という敬称で呼んでぺこぺこ追従していたが、朝倉義景・浅井長政を攻める辺りから秀吉の戦上手の才覚は開花し始め、個人の武力や気迫では勝家に劣るものの、政治家・指揮官・管理者としての才能や先見性では、次第にただ無骨で忠義なだけの勝家は秀吉の足元にも及ばなくなっていく。

映画の終盤、羽柴秀吉(大泉洋)はねね(中谷美紀)と共に、『清須会議』で傀儡の幼児・三法師(織田信秀)を担いだ秀吉にまんまとやられて憤慨する柴田勝家の馬前に進み出て、田んぼの泥道で土下座しながら『今の織田家があるのは親父殿のお蔭でございます。今後とも織田家のためのご尽力をお願いいたします』と殊勝に述べて、自らがいまだ勝家の下位者であり続ける(本気で三法師を主君として敬い続ける)ような演技をする。

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“男が要らないと思う女が増える平和な時代”と“ジェンダーの差異が曖昧化する男女”:2

人間社会の歴史的推移を見渡せば、戦乱が多くて貧しい時代(理屈・正論を言っていられない力と勝ち負けの時代)には『男性原理』が強まり、平和が続いて豊かな時代(理屈・正論が検証されやすい知と倫理の時代)には『女性原理』が強まる傾向がある。古代ローマ帝国でもその成熟期には女性原理が強まって少子化が進んだという記録があるが、女性の発言力や自由意思、稼得能力が強まると『性別役割としての出産・育児の義務』が弱まるので、一般に男性社会よりも出生率は低く推移しやすい。

『広義の暴力(戦争)・暴言』が法律と倫理、自尊心で禁圧される現代という特殊な時代環境においては、他者を暴力あるいは実力で打ち倒そうとしたり、勇ましい自分を誇示したりする『男性性・男らしさ』を発揮できる場面は、経済競争や見せかけの肉体(筋力)に限られてくる。

そのため、男性主義的な過去の共同体原理や男女の役割分担に郷愁を寄せる人たちは、常に『戦うべき外敵の存在や侵略の危機(女子供を守る男らしさとしての腕力を発揮できる場)』を求め続けていたりもするが、これは裏返して考えれば『物理的な暴力の危険性』が十分に低ければ、伝統的な男性ジェンダーの中核にあった勇ましさ・逞しさ(いざという時の暴力による防衛)の必要性も弱まってしまうことを意味する。

暴力(武力)によってしか解決や防衛ができない種類の問題がなくなれば、男性原理は女性原理にその場を譲る他はなくなるし、『男らしさに特有とされてきた正義・防衛のための暴力(これも自分・自民族以外の男の暴力であって男同士の争いになりがちだが)』を専売特許とするような政策や文化、価値観の形成も難しくなっていくだろう。

暴力・武力が時に正義や武徳として賞賛されてきたのは、『自分たち以外の不当な暴力・武力の存在』を想定することができるからであり、軍事力強化の必要性を情緒的に説く文句には『外国から侵略されると自国の女性が性的に蹂躙されてしまう』といった外部の男の暴力性・強姦性をことさらに強調するものも多い。どう間違っても、『外国から侵略されると自国の男性が性的に蹂躙されてしまう(労働力として奴隷化されるなどの主張はあるが)』といった文句にはならないところが、本質的な男女のジェンダーの差異というか教育・文明・倫理によって制御されている『潜在的な男性の暴力性(性の衝動性)』を暗示しているのだろう。

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“男が要らないと思う女が増える平和な時代”と“ジェンダーの差異が曖昧化する男女”:1

福岡伸一氏の『できそこないの男たち』では、生物学的に見た男性(オス)は、女性(メス)をベースとする個体に対して、『遺伝子情報の複雑性(環境変化に対する生存適応度の上昇率)』を与える触媒に過ぎない事を看破していたが、ヒトの男女関係は『恋愛(性と文化)・結婚(制度と育児)・経済(扶養)・権力(暴力)』が絡むことで非常に個別的で複雑な様相を呈することになった。

生命進化の歴史としては、『無性生殖』の段階ではメスの遺伝子情報の単純なコピーのみによって自己を複製していた生物が、メスの基本フレームからオスという別の性を分岐させて『有性生殖』ができるようになり、『環境変化に対する適応能力(遺伝子情報の多様性・選択性・突然変異率)』を格段に高めることになった。

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しかし、生命の基本フレームはメスの身体構造に起源があり、人間も受精卵からの生命の発生・細胞分裂のプロセスでは『女性的な身体構造』が先に形成されて、そこに男性ホルモンが作用することで『男性的な身体構造』へと分化していく。そのため、変異体であるオスは一般に基本型であるメスよりも平均寿命が短くて病気に対する抵抗力も低い、特に発生プロセスでの負荷や免疫能に対する影響がある乳幼児期には男の子ほうが病気に罹りやすい。

昆虫のような単純な構造の生物になればなるほど、メスはオスよりも優位な地位・立場を持っていることが多いが、これは『遺伝子多様性を増すための役割』という生物学的なオスの意味づけがより直接的であるためだ。カマキリのオスは交尾後に、メスの産卵のエネルギー源となるために自らの身体を食料として差し出して儚い一生を終えるが、食べられないにしても虫には授精後にオスが(メスも)死んでしまう種がいて、これは『育児の不要性(人間的視点からの親子関係の不在)』という昆虫の生態に見合ったものなのだろう。

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