「歴史」カテゴリーアーカイブ

映画『風立ちぬ』の感想

総合評価 76点/100点

悲惨な戦争の時代を題材にしたアニメ映画だが、戦闘機『零戦』を開発する主人公の堀越二郎は、徴兵とも戦死とも不況とも飢餓とも無縁な、財閥三菱に勤務するある種の特権階級のエンジニアである。

庵野秀明の無機的な声の質感とも合わさってどことなく『現実感の薄い人物』になっているが、明るく夢を追い続ける堀越二郎の内面では『戦闘機の設計開発』と『戦闘機が用いられる戦争の現場・現実』は結びつくことはない。この飛行機に機関銃さえ搭載しなければ、もっと理想的な軽い機体になるのにといった航空機設計の情熱にひたすら突き動かされており、最後でも『結局私の作った飛行機は一体も戻ってこなかった』という表面的な現実認識で幕を閉じてしまう。

『風立ちぬ』の主題は『それでも生きる』であり、戦争のような苦境にも負けない生命力・頑張りにあるような売り込みなのだが、『風立ちぬ』で描かれるアンニュイな世界は『戦争に関係しているようで関係していない中空的な人物』によって構成されている。

戦争のリアリティを訴える『つらさ・貧しさ・苦しみ・強制に耐える世界観』は感じられず、イタリア人の著名な飛行機設計士ジャンニ・カプローニと夢の中で戯れるほど飛行機にのめり込んでいる秀才の堀越二郎が、ひたすらその飛行機のエンジニアの夢を突き進んで、『戦争の現実』とは別に『自分のワクワクする夢』を具体化していくという物語である。

メインのように見える美人薄命な結核を患った里見菜穂子との恋愛にしても、堀越二郎の菜穂子に対する思いに具体的な深みや痛み、愛情が見えにくいために、当時の男女関係のジェンダーを加味しても、『堀越二郎の夢(仕事)の付随物』として美しい菜穂子が存在していて付き合って上げているようにも見えてしまう。

続きを読む 映画『風立ちぬ』の感想

映画『終戦のエンペラー』の感想

総合評価 79点/100点

凄惨な沖縄戦、徹底的な本土空爆、壊滅的な広島・長崎への原爆投下を経て、既に制海権・制空権のすべてを失っていた大日本帝国は、8月14日に連合国軍が提示していた『ポツダム宣言』を受諾して無条件降伏した。神洲日本の不敗神話と陛下の御意志を掲げ、狂気的な『一億玉砕・国体護持』を主張していた帝国陸軍も、8月9日の『御前会議』において天皇自らが戦争終結を検討すべしとの意向を述べたことで『徹底抗戦の根拠たる天皇の後ろ盾』を失って降伏に同意せざるを得なくなった。

『終戦のエンペラー』は1945年8月30日に、GHQ(連合国軍最高司令部)の最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥(トミー・リー・ジョーンズ)が神奈川県の厚木基地に上陸する場面から始まる。アメリカが戦争で勝ったとはいえ、数百名の未だ武装した日本兵が整列する飛行場を、わずか数十名の部隊で歩かなければならない米兵たちは緊張している。

部下たちの緊張と不安を押しのけるように、マッカーサーは『まずはアメリカ兵の男ぶりを日本人に見せつけてやれ』と煙管(コーンパイプ)を余裕たっぷりな面持ちでくわえてタラップを歩き、寛容な君主さながらの風格を漂わせて飛行場を歩く。そこには日本の最高権威であり日本人の精神的な支柱であった天皇よりも、戦争に勝利した自分たち(アメリカ全権代理)のほうが上位の存在なのだと徹底して日本人に印象づけなければ、『統治者としての威厳・面目』を保ち得ない(再び天皇を中心として反米の求心力が生まれる)というマッカーサーの気負いも覗くようである。

自分が近づく度にくるりと後ろを向く日本兵を見て、『この奇妙な風習は何なのか?』と問うと、知日派とされるボナー・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)が『日本では最高の貴人の姿を直接見てはならないというマナーがあります。最高権力者である天皇に対しても同じように直接に顔を見ずに接するという対応がなされているのです』と答える。アメリカ人と大きく異なる日本人の礼儀・慣習の一端に触れて苦笑するマッカーサー元帥だったが、彼が迅速かつ効果的な日本占領政策のために講じた手段は、『戦争犯罪人と認定した軍人・政治家・財界人の一斉検挙+徹底的な事情聴取』だった。

アメリカ(連合国)が極東国際軍事裁判で『戦争犯罪人(戦犯)』としたのは、開戦時及び戦時中において戦争を指導・命令したり扇動(宣伝)・支援したりした政官財の中心的な人物(首相や閣僚ポストの経験者・戦時の有力な官僚や軍人・戦争を経済支援した財閥の重鎮)、あるいは現地の戦場で虐殺・略奪・暴行などの非人道的な行動を命令したとされる指揮官などであったが、『日本の戦争責任』を特定の誰かや特定集団に帰結させることは現実的にほとんど不可能であった。

続きを読む 映画『終戦のエンペラー』の感想

麻生太郎副総理の『ナチス関連発言』にしても安倍首相の『戦後レジーム脱却』にしても、

国家・政府(政治家)の全体的な方針や命令、流れに従わない『国民の基本的人権』が邪魔になっていて、段階的な憲法改正によって『個人の尊厳原理』よりも『国家の統治原理(全体利益・国民の義務とされるものの強要)』を優先させたいという本音が透けて見えるようにも感じられる。こういった本音の部分の復古的な国家観や歴史認識が、自民党が主導する憲法改正やその原案に賛成できない最大のネックにもなっていると思うのだが。

麻生財務相、ナチス発言を撤回=「誤解招き遺憾」

麻生副総理のナチス擁護(ナチスの方法論に自民党も学びたい)と受け取られても仕方ない発言は、『第二次世界大戦後の国際秩序』に再び日本が(正確には日本の右派の政治指導者が)、軍備強化(平和主義の逸脱)・権利制限・国家主義教育を前提にして再挑戦しようとしているのではないかという国際社会の疑念を招きかねない。

『ナチスの手口に学ぶべき』というのは、端的には『立憲主義・議会政治・自由民主主義を脱法的に短期間で破壊してしまう手口に学ぶべき(政権党が民定憲法と議会政治を停止させて憲法・法律・人権に縛られずに何でもできるようにすべき)』ということを意味するわけで、ナチス擁護ではなくナチス非難のつもりだったという弁明を受け入れるとしても、現代の議会政治・民主主義の常識からはかけ離れた権謀術数主義をイメージさせてしまう危うい発言だ。

麻生副総理のこの発言は『憲法の最高法規性(下位の法律・条例・命令のすべての有効性を担保する機能=違憲な法律は無効とする前提)』をどう考えているのかという基本的な憲政の認識に関わることである。

続きを読む 麻生太郎副総理の『ナチス関連発言』にしても安倍首相の『戦後レジーム脱却』にしても、

改憲賛成の議員が多数派を形成。“96条の先行改憲・9条の平和主義・13条の基本的人権”をどう考えるか:2

この記事は、前回の記事の続きになっています。

そもそも現時点においても、国連憲章・国際法で自衛戦争以外の侵略戦争(利益獲得のための戦争)は禁止されているのだから、自由民主主義国である日本が対話・交渉による解決を提案しているのに『大義名分のない一方的なミサイル攻撃・本土侵略攻撃』を行うこと自体が戦争犯罪であり、その行為を支持する大国は存在せず国連安保理の地位を外されて拒否権を失う可能性(一方的な侵略攻撃を続ければ事後的に国際軍事法廷の処罰に掛けられる可能性)も高い。いったん戦争に勝って侵略すればやりたい放題できるという価値観を、一般国民が持っていることそのものが危ういのだが、『戦争の勝利=敵方の継続的な奴隷化・使役化』というような認識を現代で持っている人がどれくらいいるのだろうか。

中国に侵略されたチベットやウイグルと日本を同一視するような極論もあるが、チベットや回教徒の自治区は清朝時代に中華帝国の一部に組み込まれていた歴史が長く、独立国としての歴史・実力の要件を初めから兼ね備えている民族国家とは異なるわけで、チベットと日本のような国際的地位を固めている大国(人口も領土も経済力も防衛力も格段に異なる集団)を同列のものとして考える事自体が非現実的である。

逆に考えれば、『軍事的な対抗措置・先制攻撃』をほのめかすほうが、相手国に脅されたからやられる前に攻撃したという『自衛戦争の口実』を与える恐れがあり、『自衛権の範囲を越える示威行為・集団的自衛権の積極的行使=国民の生命財産を守る抑止力』という等式は必ずしも成り立たないように思う。

9条に対する誤解として、攻撃されても何も反撃できない無抵抗主義であるかのような誤解もあるが、9条の平和主義は『自然権としての自衛権・反撃権』までも否定するものではなく、自衛隊のような非戦争目的の『専守防衛の実力組織』によって、外国からの不正な攻撃・侵略に対して自衛措置(痛撃を与えて自国領土内から追い出す措置)を講じることは可能であるとするのが通説である。

続きを読む 改憲賛成の議員が多数派を形成。“96条の先行改憲・9条の平和主義・13条の基本的人権”をどう考えるか:2

改憲賛成の議員が多数派を形成。“96条の先行改憲・9条の平和主義・13条の基本的人権”をどう考えるか:1

現行日本国憲法の価値は、『国家権力の支配的な強制や統制(抑圧)からの自由=個人の人権』を近代啓蒙主義のエッセンスによって、ほぼ完璧に保護する条文の構成を持っていることにある。膨大な犠牲・被害を出した大東亜戦争の敗戦時に、憲法9条の平和主義・戦争放棄、憲法13条の基本的人権の尊重をはじめとする条文は、日本国民を再び戦争の惨禍に引きずり込まない立憲主義(全体に対する個人の尊重原理)の防波堤として、大多数の国民から歓迎された。

参院選:改憲賛成派、当選者の74%…民主、公明にも

満州事変勃発・治安維持法成立の後の大日本帝国は『国体思想(天皇制)』に基づく言論・思想が統制される全体主義国家であり、『個人の尊厳・自由』などはなく個人はあくまで全体国家を構成する『兵力・労働力の部品(天皇陛下に全てを捧げる赤子)』であって、自分自身・家族を大切にして生命を惜しみ戦争を避けることは『臆病な非国民の精神・裏切り物の思想』として侮蔑され懲罰された。

戦争が激化するにつれて議会政治が翼賛体制で停止され、軍部と右翼勢力(北一輝・大川周明・井上日召・西田税など)の連携、それを支持する素朴な大衆によって戦争に反対する意見を表明したり徴兵を拒否したりすることがほぼ不可能となる。

太平洋戦争の主戦力を喪失したミッドウェー海戦以降は、『全滅すると分かっている南洋諸島の防衛戦』に残っていた師団を投入して兵力をいたずらに損耗させ続けた。軍隊も警察も世論もマスメディアも、戦勝・快進撃・撃破の連続を伝える大本営発表を捏造して賞賛し、『絶対国防圏』を突破されてから敗戦濃厚となり犠牲者が増え続けても、日本はどれだけ戦死者を出しても最後には勝つ(天皇御座所の本土決戦で迎撃して神風を吹かせる)という幻想を決して捨てなかった。

続きを読む 改憲賛成の議員が多数派を形成。“96条の先行改憲・9条の平和主義・13条の基本的人権”をどう考えるか:1

参院選の論点:第96条・第9条からの自民党の憲法改正の姿勢をどう見るか。

日本国憲法はアジア太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦と総力戦の甚大な被害を受けて制定された国民主権の憲法であり、『天皇主権・国体思想』によって教育した国民(臣民)を皆兵化・道具化したり思想・言論の統制をしていた時代の終焉を宣言する役割を果たした。

無条件降伏を要求するポツダム宣言には、軍事的・統制的(人権抑圧的)な政体の変革、そのための民主的な憲法制定の義務が含まれていたため、GHQの啓蒙主義的・社会契約論的な憲法改正草案を下敷きにして、日本政府が改正草案を完成させ帝国議会で審議し可決した。

戦争被害によって家族や家屋、財産を失って悲惨な状況にあった当時の国民、満州国や戦地からの引き上げの過程で途端の苦しみを味わった人たちの大半は、敗戦によるそれまでの信念・目的の挫折(大本営発表の虚構性への憤り)を味わいながらも、憲法9条の『平和主義・戦争放棄』を好意的に受け容れた。

戦争の被害や危険は、『外国からの攻撃・侵略・謀略』だけによってもたらされるものではなく、むしろそういった仮想敵の危機や難局打開の好戦意識を煽る『自国の支配体制・貪欲な権益追求・教育内容・軍国主義・国民の兵士化(近代国家の戦争機械としての側面)』からもたらされることが多いことを、敗戦時の日本国民は自らの実体験を踏まえて感じ取っていたからである。

国家権力が国策としての戦争を遂行できない、国民が強制的に徴兵されない、勇敢な兵士・忠実な臣民を理想とする軍国主義(戦時動員体制)が再燃しないという憲法9条は、現在では当たり前のものとして恩恵が感じられにくくなったどころか、逆に『平和主義が無抵抗主義のように受け取られて外国に舐められる・憲法9条が国防を危うくして外国に侵略される・軍事力には同等以上の軍事力を持つことで抑止力を形成すべきだ・軍事的威圧を与えられない憲法9条が日本を骨抜きにしている』といった改憲派の批判の標的にさえなっている。

グローバル経済の進展による『国家間の貿易・資源・市場の相互依存性』や『文化交流(民間交流)・トップ会談・普遍的人道的な理念による相互理解』によって、日本・アメリカと中国が全面的に軍事衝突する可能性はまずない。だが、『経済・文化・生活のレベル』よりも『軍事・暴力(喧嘩)・理念のレベル』だけで国際情勢や外交を考える人は、仮想敵に設定する中国・北朝鮮が憲法9条があるために(すべての経済利益・国際社会の信任・国民生活の維持・事後の体制の持続性を捨てて)核ミサイルで不意討ちしてくるかのような恐怖心に囚われることもある。

憲法9条に関する根本的な誤解として、現状の解釈改憲でさえも『集団的自衛権』が行使できるという識者がいる状況なのに、9条が外国からの先制攻撃に対して防衛して反撃する『個別的自衛権』までも放棄しているという誤解がある。攻撃されても一切反撃できないとか、無抵抗主義で殺戮されるとかいう間違った条文解釈が為されていることも少なくない。

続きを読む 参院選の論点:第96条・第9条からの自民党の憲法改正の姿勢をどう見るか。