「教育」カテゴリーアーカイブ

能力不足の“シュガー社員”は問題かもしれないが、『褒める・叱る育て方』が原因かは分からない。

ハイレベルな能力や好かれる人柄を持つ人には『褒めて育てられた人・親との関係がフレンドリーな人』も多いが、『興味関心・解決力を引き出しつつ褒める』のは甘やかしとは違う。

豊かな社会で、ほめて育てられ… 甘さの抜けない「社2病」「シュガー」な社員たち

怒鳴られてバカにされ否定されて育てば『逆境に耐える根性・理不尽さを諦める現実感覚』は養われるが、『他者を敵視・値踏みする人格形成(劣る相手に冷淡な人柄)』につながる恐れもある。褒める教育は家庭環境(親の態度)や教育効果、知的好奇心、問題解決力とのバランスで、怒るのではなく『対処法』を考えさせる教育になって機能するものではないかと思う。

何が何でも無条件に褒めるというのは違うと思うが、『失敗すれば怒鳴られる・やる気がなければ殴られる』という育てられ方は、『失敗=悪・意欲低下=ダメな自分』という自己否定の認識を植えつけられ、『次に失敗しないためにはどうすれば良いのか、物事のどこから興味を持てばいいかの自発的な試行錯誤』につながらない。

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いじめを根絶させることは不可能に近いが、学校はいじめ被害の兆候に気づいて『子供の生命・安全の確保』に最大限の注意を払う必要はある。

固定メンバーの集団では『好き嫌い・力関係の違い』が必然的に生まれるが、『いじめを許さない影響力のあるリーダー(教師)』か『いじめに関与しないメンバーのみの集団』ならいじめは起こらないが、多くの学校でその条件を満たせずいじめが起こりやすい。

いじめは学校の責任だと思いますか?

『いじめが悪い事』という善悪や常識を知らない子供はまずいないので、いじめをしていても教師・大人の目線から隠されるが、毎日接する教師なら『クラス内の空気・生徒の変化』や『誰が誰に対して強い立場にあるか』くらいは概ね分かる。学校の責任は予防の教育もあるがいじめの兆候に気づいてからの対応・安全確保にある。

大人社会でもいじめがなくならないように、『いじめ(力関係・集団力学を利用した個体の虐待・排除)』は、類人猿やサルの階層序列にも共通するマウンティング・格付けの遺伝要因に本源があるのか。人間の場合はそこに『自我の肥大・劣等コンプレックスや家庭環境・フラストレーション補償』が加わり複雑な動因も生まれる。

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失神ゲームの暴行による中学生のいじめ:『人の嫌がる事を面白がる心性』を越えられない人・社会の問題

仲間内で『理不尽なルール』を作って、それに違反したという理由で痛めつけたり金を強請るのはいじめの類型の一つだが、『人の嫌がる事が面白い心性』は野蛮・卑劣だがある種の人間の業でもあるか。

<失神ゲーム>4少年、中3被害者に度々暴行 東京・東村山

いじめは、悪意・嗜虐性・劣等感を抱えた『影響力のある個人』を中心にした集団力学が生み出すものだが、そこには『人の嫌がる事を面白い娯楽とする心性・笑い』が関係する事が多い。

いじめで得られる『擬似身分制のような格付け』によって劣等感を補償したりサディスティックな優越感(支配欲)を満たす虚しい行為だが、完全になくなることは恐らく有り得ない。

客観的には『人が嫌がる姿・苦しんでいる表情』を見るのは快感よりも不快なものだが、特に思春期で見られやすい『人間の笑いの種類』の一つとして、自分よりも弱い立場の人を虐げたりバカにして笑う『優越感ゲーム』のような事態は起こりやすい。

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子供の非行・学校不適応は、『家庭環境(親子関係の質)・社会格差・階層文化』とどのように関係しているのか?

1970~1990年代にも『ビーバップハイスクール』や『ろくでなしブルース』など不良漫画に影響されたヤンキーブーム(不良文化)はあったが、手加減なしの喧嘩で大怪我をさせたり犯罪を辞さない不良グループを組織したり、教師に本気で暴行を加えたり、暴走族(暴力団の予備軍)に参加したりする生徒は、多かれ少なかれ家庭環境(親子関係)に何らかの問題を抱えるか強い不満を持っていたように思われる。

日本全体が貧しさから突き抜けようとした高度経済成長期の1970年代にまで遡ると、『貧困・社会階層の明確な格差(中学卒業後の進路の悲観・意欲低下による授業についていけない学力低迷)』が暴力的な衝動の根源になっていることも多かったのではないかと思うが、1980年代以降はマスメディアや漫画・コミック・先輩との関係などに影響された『ファッションやスタイルから入る不良文化』が主軸だっただろう。

子供の問題行動(学校不適応)や暴力的傾向に影響を与える家庭環境(親子関係)の要因としては、大きく以下に分類できる。

1.親自身が反社会的な価値観や学校否定(勉強は無意味・教師はみんなダメ)の考え方を持っていたり、暴力・非行に対してそれを認める親和的な生活態度を持っているようなケース。

親世代から子世代への『反社会性・学校や教師の否定・暴力性』が伝達されていて、『学校にはいかなくても良い・勉強はしなくても良い・気に入らない奴は脅して痛めつけろ・仕事は何でもいい』といった価値観を学んでいく。

2.親が『自分が認める学力・進路・生活態度』などを教条的に事細かく決めていて、『親の思い通りの成績・生き方・進路選択』ができないのであれば子供には価値がない(勉強・進路などのステータス性以外の子供の人間性・楽しみ・人間関係・話題などには無関心)というような査定的な態度で一貫しているようなケース。
親が子供を所有物や自慢のネタのような形で扱い、子供が親の期待に応えているうちはその存在価値を認めて褒めたり欲しいものを買い与えるが、子供が親の求める学力や生き方、考え方から逸れると子供に無関心になったり切り捨てるような態度を示すことで、子供が反動的に『親の求める失敗・逸脱のない生き方とは正反対の生き方』をわざとするようになる。

3.親が子供の学校生活や友達関係、興味関心に対してほとんど『無関心・無干渉』であり、まだ未成年であるにも関わらず『親は親・子は子の境界線』をきっちりと引いて、親がまるで子供がいないかのような自由気ままな生活・交遊をして『子供のネグレクト(情緒的な育児放棄)』に陥っているケース。

親は子供の生活に必要なお金は出して、自由にやりたいことをやらせていると思っているが、早い段階から子供の学校生活や気持ち(悩み)に対して無関心な態度でいるため、子供が『自分は親にとって必要ではない存在』という自覚を強めていき、親の興味関心(心配・愛情・悪事の制止)を求める形で段階的に過激な非行・暴力行為へと逸脱していく。

4.親が持つ社会資本(知識や情報・社会的な興味の広さ・学習に親和的なライフスタイル・人的コネクション)が極端に少なく経済的にも余裕がないため、子供の学習・教養や進路選択に対して『効果的なロールモデル』の提示ができなかったり、『子供の希望する進路を後押しする経済的・情報的な支援』ができなかったりするケース。

所得・職業・教養(社会を見渡す情報量)の格差に裏付けられた家庭の階級化のマイナス影響がでてくるが、現代では特に『学力競争による社会階層の流動化(シャッフル)』がかつてよりも機能しにくくなっていて、勉強の効用を疑う親が増えた。親の学歴・所得(職業)・財産などが子供世代の将来格差に影響する割合が増えている。そのため、義務教育の早い段階から『子供の学力・進学をベースにした進路選択』から下りてしまう親世代が増加し、国立大学の親世代の平均所得・職業的威信は一般よりも高くなるなど統計的偏差が出てきた。

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道徳の教科の格上げ:『権威主義+綺麗事(徳目主義)+点数評価』に陥らない工夫を。

道徳とは何か。道徳とは、人として踏み行うべき道、善と悪の判断基準であり、徳を身につけた人物の行動理念である。『道徳』を授業で正解のある知識として教えたり、覚えさせた正しい振る舞いや意見を先生の前で再現させたり、ペーパーテストで確認することに意味があるかといえば恐らくない。

道徳の教科格上げ、「公平」「正義」指導へ 心配の声も

道徳は、『知識として知ること・語ること』は極めて簡単だが、『行動として行い続けること』が極めて難しいという性格を持つ。古代ギリシアの哲学者や古代中国の儒家たちが、『知徳合一(正しいと知っていることと実際に行うことを一致させよ)』を道徳の根本とした所以でもある。

道徳の本質は、社会生活を営む人間が他者とお互いを尊重して共生できるようにすること、あるいは人間が他者からその人格的価値を認められて慕われるようなヴァーチュー(美点・卓越)としての徳を高めていこうとすることである。

道徳教育について、教育勅語を懐かしむような復古的な意見もあるが、教育勅語の最大の欠点は『人間一般としての徳』ではなく『天皇・国体を支える臣民としての徳』であるため、ローカルな忠孝の規範性が優位に立っており、ローカルな規範の外部にある国・異民族に対しての共感的な徳性に配慮されていないこと(人間より国家を優先する道徳の道具化)である。

近世以前の日本の道徳の淵源としてある孔子の儒教でさえ、義・忠・孝にも優越する普遍的な徳目として『仁(他人に対する愛・思いやり)』を掲げ、仁はあらゆる望ましい人間関係(他者を自分と同じように大切にしようとする心がけ)の根本にあるものだとした。

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教師の体罰禁止を逆手にとる『生徒の挑発行為』にどう対応するか?

学校教育の現場以外でも、自分から因縁をつけて距離を詰めて凄んでくるチンピラが、少し肩がぶつかったり手を掴まれたりしただけで、『あ~痛い痛い、お前、暴力を振るったな。腕が上がらなくなった、骨が折れたかもしれない、どうしてくれるんだよ(間接的に慰謝料・治療費を請求する)』と自分が極端な弱者(被害者)であるかのように大げさな反応をして、『常識人の側の加害者性(違法性)』を強調しようとする古典的な絡み方がある。

体罰逆手に挑発する生徒続出、どう対応すべき?

どういった状況において生徒が教師を挑発しているかにも拠るが、教師が初めに激しい体罰(暴力)を振るっていないのであれば、『体罰をするつもりはないが、注意・指導している内容について理解できたかだけを教えて欲しい』と興奮せずに普通の口調でまず聞いてみれば良い。

生徒が『理解できない・聞くつもりがない・うるせえ』というのであれば、本人だけに関わる問題なら『俺は力づくで無理矢理にでもお前にそれをさせるほど親切でも暇でもないが、○○の内申書の評価が下がったりして自分が損することにはなる。それでもいいなら仕方ないが、そんなに難しいことでもないんだから最低限の学校のルールは守ってくれ』と通告して、後は本人の判断に任せればいい。

他の生徒や授業の進行の妨害になる問題なら『他の生徒や授業の進行を妨害する行為は許されないので、邪魔になる行為をするならそれをやめるまで教室の外に出ておいてくれ、嫌なら授業中は騒がずに静かにしておくように(話し続けたいことがあれば授業が終わってからなら聞く)』と指導すれば良いかもしれない。

『やれるものならやってみろよ』『体罰で訴えるぞ』という生徒側の挑発は、『教師側が体罰・暴力を振るってくるかもしれないシチュエーション』において為されると推測されるが、正当な指導・注意をする時には『体罰をするつもりはない旨』を伝えて、言葉・対話・説得による注意(注意や指導に対する生徒の理解・納得がどれくらい進んでいるか)に徹するようにすれば良い。

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