「教育」カテゴリーアーカイブ

LINEの書き込みが原因で、実際に喧嘩(乱闘)・いじめに発展する中学生と不良的な示威文化

LINEはツールに過ぎず数千万人以上が使えば実社会と同じ。暴行事件を起こす集団は元々『因縁のきっかけ』や『武勇伝・悪さの誇示』を行い競合・挑発に乗る相手と衝突を求める所もある。

LINE書き込みめぐり暴行=中学生重傷、少年4人逮捕―傷害容疑・警視庁

『どちらが強いか?どちらが影響力があるか?』のマウンティング(優位性の顕示)を、様々な形で行う類人猿的な序列明示の進化の名残は、人間にも多く認められる。精神的・社会的に未熟な子供は特にマウンティングが『暴力・数の勢力の争い』の形を取る事があり、『示威(脅し)で引かない相手』と危険な衝突も有り得る。

続きを読む LINEの書き込みが原因で、実際に喧嘩(乱闘)・いじめに発展する中学生と不良的な示威文化

学歴は人生や仕事に役に立つのか?:学歴が職業・所得にもたらすメリットとは何か。

近代の学歴・学閥は経済・文化のスクリーニングの役割を果たすが、学歴の実利は大企業・官庁のキャリアのパスポート、医療・法律など高学歴の専門職にある。非大卒者の参入障壁は擬似身分を支える。

社会に出て「学歴関係ない」「学歴が通用しない」と思ったことは? どんな場面でそう思った?

学歴によって職業・所得の分かりやすいメリットを得たいなら、『大企業・公務員・専門職・研究職などのキャリア』を積まなければならないが、高学歴なら楽に良い給与が貰えるというわけではなく(一般にハイエンドな管理職・専門職ほど権限と合わせ負担も大きくなる)、学校後の終わりなき競争に参加するだけでもあるが。

学歴の職業・所得のメリットは『高学歴者・有資格者以外がその競争の場に殆ど参加できない(企業の採用条件・免許の法規制等で大半の人を事前排除する)』ことで担保されることになる。逆に言えば、高学歴者でも『キャリアを問わない誰でも参加できる場でのフラットな競争・現場仕事の実力勝負』をするなら殆ど利益はない。

経済的な実利・昇進などの面だけで学歴の効用を見れば、『高学歴だけで後は楽に高所得を得られ続ける甘い考えを持った者』は学卒後の終わりなき競争・労働のハードさに挫折・落胆のリスクがある。『様々な学歴・経歴・生き方の人が玉石混交で混じる職場で非学力・非資格の実力勝負が求められる者』も学歴の効用は余りない。

続きを読む 学歴は人生や仕事に役に立つのか?:学歴が職業・所得にもたらすメリットとは何か。

就活の後ろ倒しでは軽減されない学生の負担と新卒採用キャリアの人生設計への影響度

就職活動の長期化によって、学生が本業の勉学に専念できなくなったり、長引く就活の精神的ストレスで疲弊したりといった問題が長年指摘されてきた。経団連はそういった就活関連の批判・苦言に対処する方策として、『就活の後ろ倒し』を提案してきた。

経団連加盟の上場企業は、就職説明会を12月から3月に、実際の採用試験・採用面接を4月から8月にずらしたが、これは飽くまで『経団連加盟の大企業』に限定された弥縫策ではある。

特別な専門家・資格職を除いて、新卒一括採用と企業内教育(大学の教育内容の無評価)によって、オーソドックスなキャリアパスを積み上げていく日本企業の雇用慣行は、特に年次主義の残る大企業において顕著である。

なぜ就活がここまで激化するのかの理由は、新卒段階で入社していなければ『非専門職・非即戦力(他社で相応の技能・職責・実績を積んだ者)以外の中途採用の門戸』は非常に狭いか閉ざされているからである。

総合職的な企業の各部門の中枢に近づける昇進・昇給のある働き方を求めている学生の多くは、『就活・新卒採用枠』にこだわらざるを得ない長期的キャリアに影響する慣行があるため、就活時の競争圧力や将来不安も関係するストレスは強くなってくる。

続きを読む 就活の後ろ倒しでは軽減されない学生の負担と新卒採用キャリアの人生設計への影響度

給食費を支払わなければ、子供の給食停止の措置は正しいか?,シエンタのデザインの変更についてなど

給食停止、やり過ぎか 埼玉・北本市「未納なら弁当を」

親が給食費を払わないのは『子供の責任』ではないが、学校が『家庭の所得・資産』の補足までする事は難しいので、払えるのに払わない親への脅しのブラフにはなっているのだろう。

成熟した先進国の学校教育制度として、本来は給食費の全額を税負担できればいいのだろうが、『1人4500円』というのは全員分を公費負担するには財政的に安い金額でもない。

子供に恥をかかせるような制裁をちらつかせないと、給食費を支払ってもらえないというのは情けない状況であるが、『払いたくても払えない』のか『はじめから払うつもりがないだけ(給食費以外の別の娯楽費などに回したいだけ)』なのかの見極めが難しい。

自宅で昼御飯を食べても1食150円以上は使うので、給食は金額面だけ見ればかなり割安な価格ではあるのだが、本当の貧困世帯にとっては月5000円は安い金額ではないだろう。

カフェの飲み物が一杯500円くらいすることを考えれば、食事としては安いといえば安いのだが、所得・資産の格差は大きくなっていて、『子供の貧困率』は3割近くにまでなっている。ぎりぎりの生活なら就学援助など然るべき手続きの申請をすべきだ。1日何百円かの節約や収入増加の余地があれば良いのだが、払えるのにケチっても仕方ないとは思うが。

続きを読む 給食費を支払わなければ、子供の給食停止の措置は正しいか?,シエンタのデザインの変更についてなど

学歴とは“個人の能力と意思の指標・社会階層・親の社会資本・教養文化(専門志向)”を想像させるアマルガム(融合)

学歴は『努力の証明書』というのは一面の事実を含むが、学力・学歴を巡る競争は厳密には遺伝(適性)・環境・意思における『機会の平等』を担保していないという意味(生まれてきた時点と育てられている過程においてスタートラインが大きく前後してしまうという意味)では、『本人の自己責任と努力の帰結』として片付ける事が難しいものでもある。

現代でこそ、学歴インフレによって大学の難易度を問わなければ、過半の人が『大卒』になれる可能性には開かれているが、本当の意味で『勉強・知的作業・知的生活(教養文化)・専門家の訓練への適性』のある人というのはかなり限られている。

■「学歴は努力の証明書」で福田萌が炎上 ネットは「安っぽい自慢」「親のおかげと気づけ」と批判

多くの人は名目上は大卒であっても、本当の意味で知的な活動・研究や専門的なトレーニングが好きなわけでもなく、就職に有利であるからとか将来何らかの役に立ちそう(不利益にならなさそう)とかいう理由で進学しているわけだが、一定以上の学力があると推測できる大学の名前は『その場において求められている勉強・資格取得などに取り組める人材』の最低ラインを担保していると見なすことは可能だろう。

近代社会における学歴というか大学教育の主要な機能は『知識と数理の操作活用能力を試す形の社会的・職業的・知的なスクリーニング』であるが、端的には『高級官吏・専門家・研究者・教育者・企業の幹部候補・知識人(文化人)』としての適性が高いとみなせる人材を学生段階で効率的に選別するシステムとして大学教育は国家や企業、学校に利用されてきた歴史を持つ。

そのことが高学歴であるほど、一般に就職に有利(所得が高くなりやすい)と言われることにつながっているが、現代では高学歴ワーキングプアや就職した企業とのミスマッチ(早期離職後の就職難)、本人のメンタルヘルスの脆弱性などの問題もあって、傾向性としての高学歴優位は変わらないが(そのように官庁・企業・専門業種の序列的な階層構造が設計されていて社会上層の高学歴者の人的ネットワークがあるのだから当たり前だが)、個別事例では学歴があっても経済社会への適応性は高くないというケースも少なからずあるだろう。

続きを読む 学歴とは“個人の能力と意思の指標・社会階層・親の社会資本・教養文化(専門志向)”を想像させるアマルガム(融合)

小中学校の『道徳教科化』についてどう考えるか?:主体的に善悪の分別や人倫の本質を考えてもらいたい

義務教育で『善悪の分別の思考力』や『人倫の本質的な理解力』を培う教科を創設したいのであれば、『道徳(moral)』という権威的な教訓や全体への従属義務の意味合いを感じる科目名にするよりも、『倫理学(ethics)』という哲学的かつ主体的な思考プロセスを重視して、善悪と自由の本質を議論する感覚のある科目名にするほうが良いかもしれない。

道徳はリージョナル(個別的)なものではなくユニバーサル(普遍的)なものであるべきだが、日本で『道徳』というと、どうしても教育勅語のような『固定された儒教的な価値判断に基づく記憶と実践』になりやすいし、旧会津藩の『ならぬものはならぬのです』というような理由も根拠も分からないが、上位者から怒られるのでとにかく守るしかないという教条主義に陥りやすい。

道徳教育には賛成も反対も両方あるが、反対する人たちは、戦前の『修身(道徳科)』の君臣秩序・滅私奉公(自己犠牲)を中心軸にした権威主義的な道徳教育のトラウマが深いのだろう。権力や上位者にとって都合の良い個人の権利を押さえつける価値観を、一方的に教えられて同調圧力をかけられるのが道徳といった思い込みが、道徳教育への抵抗感を形成する。

戦後日本の道徳は『自他の生命を大切にすること・権力によっても個人の生命や自由を恣意的に支配することはできないこと』であるが、戦前日本の道徳は『生命に執着せずに全体(国体・天皇)のために潔く散れること・天皇を最高位とする国制上の上位者に絶対忠実であること』という正反対のものであった。

続きを読む 小中学校の『道徳教科化』についてどう考えるか?:主体的に善悪の分別や人倫の本質を考えてもらいたい