「社会」カテゴリーアーカイブ

『ゼロリスクの安全・快適・清潔』を追求する現代社会と私たちはどこに向かうのか?

現代は『ゼロリスクの安全・快適・清潔』を追求し、リスクある行動をして失敗すれば『自己責任・社会的コスト(迷惑・税金の無駄)』と批判されるが、本来人生も自然も不確実性との戯れの中に充実や美感がある。

「嫌い」「危ない」で消える学校の風景、過保護の代償

予定調和の決まりきったコースを進むだけの人生、自然の多様性や危険性から文明・科学のバリアで守られきった生活、新たな出会いや挑戦から遠ざけられて安全圏の中に留まる日常…それらは近代社会が理想としてきた『揺籃から墓場までの安全安心』の典型だが、人間が生きる意義・高揚を摩滅させてきたものでもある。

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小中学校の『道徳教科化』についてどう考えるか?:主体的に善悪の分別や人倫の本質を考えてもらいたい

義務教育で『善悪の分別の思考力』や『人倫の本質的な理解力』を培う教科を創設したいのであれば、『道徳(moral)』という権威的な教訓や全体への従属義務の意味合いを感じる科目名にするよりも、『倫理学(ethics)』という哲学的かつ主体的な思考プロセスを重視して、善悪と自由の本質を議論する感覚のある科目名にするほうが良いかもしれない。

道徳はリージョナル(個別的)なものではなくユニバーサル(普遍的)なものであるべきだが、日本で『道徳』というと、どうしても教育勅語のような『固定された儒教的な価値判断に基づく記憶と実践』になりやすいし、旧会津藩の『ならぬものはならぬのです』というような理由も根拠も分からないが、上位者から怒られるのでとにかく守るしかないという教条主義に陥りやすい。

道徳教育には賛成も反対も両方あるが、反対する人たちは、戦前の『修身(道徳科)』の君臣秩序・滅私奉公(自己犠牲)を中心軸にした権威主義的な道徳教育のトラウマが深いのだろう。権力や上位者にとって都合の良い個人の権利を押さえつける価値観を、一方的に教えられて同調圧力をかけられるのが道徳といった思い込みが、道徳教育への抵抗感を形成する。

戦後日本の道徳は『自他の生命を大切にすること・権力によっても個人の生命や自由を恣意的に支配することはできないこと』であるが、戦前日本の道徳は『生命に執着せずに全体(国体・天皇)のために潔く散れること・天皇を最高位とする国制上の上位者に絶対忠実であること』という正反対のものであった。

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マクドナルドの異物混入騒動から考えたこと:グローバル経済環境における食の安全性と衛生管理

日本マクドナルドの異物混入騒動が収まらない。経営陣の責任転嫁的な記者会見も火に油を注いだ。元々ジャンクフード業界に対しては、食の健康・安全の立場から非常に強い反感や否定もあり、衛生管理の危険を感じる異物混入は『痛烈なバッシング機会』を提供する。マスメディアがどこまで時間を取って放送するかも影響する。

朝のニュースに昼のワイドショー、マスメディアは日本マクドナルドの食の衛生安全管理体制の問題や原因究明の遅れを強い口調で非難したが、株式市場の反応はマクドナルドを暴落させるほどではなく抑え気味な反応になった。ブランドイメージの連続的な毀損と衛生管理の悪印象で、中長期的な売上は落ち込む恐れもあるだろう。

サンデーへのプラスチック片の混入は『アイス製造機械の部品の割れによる欠落・混入』、ナゲットへのビニール片の混入は『食肉製造過程で使用した青色ビニールの欠片の混入・チェック時の見落とし』という結論が概ね出ているが、最もイメージの悪い『人の歯』については混入の場所も経緯も故意か否かも明らかになってない。

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男兄弟は女姉妹より共同生活が難しくて仲が悪いのか?:埼玉県富士見市の兄弟間の事件

男兄弟は仲が良いか悪いか分かれる。男女のきょうだいより『価値観・生き方・親の接し方の違い』による亀裂は深く、乱暴な干渉・非難からトラブルになる。気に入らない相手を変えようという強制力のでやすさも。

<殺人>兄が帰省中の弟を包丁で刺す 埼玉・富士見

中高年になっても持続的な付き合いをして、仲良く一緒に買い物・娯楽に出かけるのも、男兄弟より女姉妹のほうが多いイメージはある。男は親子・兄弟でも『長期の共同生活』は難しいイメージ、男女なら『差異・負担についての折り合い』もつけやすいが、男は『損得・負担の差異』を修正する言動が直接の衝突要因に。

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餅を喉に詰まらせて死ぬば、餅を規制すべきか?:伝統食も否定されるゼロリスク欲求と古代から続く不老不死の理想

餅はこんにゃくゼリーよりも窒息死の原因になるのになぜ規制されないのかの声もあるが、こんにゃくゼリー含め『食べ方・推奨年齢の一定の注意喚起』があれば何を食べるかは自己責任の範疇であるべき。

餅つまらせ3人死亡、12人搬送 1・2日、東京都内

嚥下能力が未成熟な乳幼児に餅は食べさせないが、高齢者の場合は『伝統食の餅』を正月に食べるのが慣習化している(餅のない正月は想定しづらい)ので、『自分の嚥下能力の低下』を自覚・自粛して貰うのがなかなか難しい。去年まで食べられていたのだから、今年も食べられるはずという老化否定の正常化バイアスは強い。

高齢者は餅を喉につまらせるリスクが有意に高く、年間に数十人規模で死者も出ているという情報を周知しても、それでも自分は大丈夫だと思い、餅が好きだから食べたいという人に絶対に餅を食べてはいけないという権限は誰にもないだろう。餅以外の米・パン・肉だって咀嚼・嚥下能力が低下すれば、詰まらせて死ぬ人はいる。

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東京一極集中と地方の農漁村の人口減少と衰退の問題:どうして地方から都心に人口が移動するのか?

『東京一極集中・地方中核都市への集中・地方衰退』は都市型の消費文明社会と学校教育と連携した職業の階層的な価値観がある限り、決定的な流れの是正は困難だろう。一次産業と公務員以外の雇用に乏しい。

<地方移住>4年で2.9倍 「首都・近畿圏から」3割

都市から地方への移住が増加しても約8000人、東京都心への移住は10万人以上の規模で、差し引きの地方の農村漁村からの人口流出と高齢化は止まらない。敢えて田園・漁村の風景が広がる田舎に移住する人は大きく分ければ、都市型の消費文明・企業労働・育児環境に嫌気がさした若年夫婦か、リタイヤした老夫婦である。

地方自治体が移住を歓迎するのは、既に小さな子供がいるかこれから出産予定があり、就農する体力もある若年層(20~40代前半)の夫婦だが、逆に言えばこの『移住歓迎の対象層の狭さ』も人口増の制約要因だ。10万人以上の東京移住者の多くは仕事を探している単身者か若年者だが地方ではこの層の受け容れは困難である。

過疎化が進む地方自治体は人口減少・高齢化で、このままだと半世紀後には大半の自治体が消滅の危機に直面するが、それでも『来てくれるなら誰でも歓迎』の東京を筆頭とする匿名的で自由な大都市とは『移住者の求め方』がそもそも違う。働くための移住ではなく、地域共同体の一員となる協力姿勢を持つ移住者を求めている。

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