「社会」カテゴリーアーカイブ

広島県の女性集団暴行死事件と『家庭機能・学校‐就職の経路・共同観念』を喪失した少年少女の集団心理:1

広島県呉市の灰ヶ峰で若い女性の遺体が発見され、16歳無職の女性が自首してきた事件は当初から『車を運転したり遺体遺棄を幇助した共犯者の存在』が疑われていたが、出頭してきた6人の友人知人が逮捕されたことで新たな展開を見せた。報道では、『LINE』を通じて少女が友人たちと殺害事件に関連する情報・意見のやり取りをしており、警察にその情報の履歴を詳しく解析されれば『共犯者(自分たち)の存在』を隠し通すことはできないと観念したのかもしれない。

『殺害の動機』については、少年少女のグループが仲間内で営業していたとされる『違法な接客業・(私営の性風俗業か)』から上がる『利益の配分』を巡って被害者女性と揉めていたとも伝えられる。

加害者の女性が、昔からの友人だった学生の被害者を私営デリヘルに誘ったことが事件の発端ともされる。『ドロップアウト型の不良集団・違法ビジネス』での金銭が絡んだ仲間割れ(信用崩壊)が、『加虐と同調の制裁的な集団心理(仲間を裏切ったのだからこれくらい罰せられても当然とするローカルルール)』によって殺害までエスカレートしてしまったケースのように見える。

価値観や生き方、利害、仲間意識の共通点で結ばれた反社会的・カルト的な小集団が、『集団の規律を破った仲間・集団から離脱しようとした仲間』を殺害(粛清)してしまう事件は、連合赤軍事件(山岳ベース事件)やオウム真理教事件、暴力団・暴走族関連の事件をはじめとして過去に多く起こっている。性風俗やドラッグ、振り込み詐欺などのアングラビジネス(違法ビジネス)で金銭トラブルの仲間割れを起こして、今回と同じような図式で『利益配分に納得しない仲間(役割を果たさなかったり不正に多くの金銭を盗んだ仲間)』を殺害して遺棄するような事件も過去にあったりした。

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広島県の16歳少女が自供した同級生の殺人事件に関する動機の連想:『友情関係の変化・崩れ』が影響した可能性

容疑者とされる16歳の無職の少女は『車で二人で灰ヶ峰の林道付近にまで行って口論となり、殴ったり首を絞めたりして殺害した』という供述をしている。16歳では自動車の運転免許が取得できないことや誰の車を使用したのかが明らかになっていないこと、殺さなければならないほどのどんなトラブルがあったのかなど、客観的な事実関係や口論の原因は曖昧である。

猛暑の影響で遺体の腐乱が激しく死因の特定も困難なようであるが、供述通りに凶器を用いない『素手での加害行為』であったのであれば、本当に16歳少女が相手が死ぬほどの攻撃・絞首を加えられるのかに疑問も残る。16歳の無職少女が単独犯でやったのか、車を準備したり殺人を実行(幇助)したりした共犯者(あるいは主犯格)がいるのか、身代わりになって誰かを庇うために自首してきたのかは不明である。

16歳男性による喧嘩・強盗などの結果としての傷害致死などの事例はあるが、16歳の女性の物理的加害による殺人というのは極めて珍しいように思う。被害者と見られる高等専修学校の女子生徒も加害者として名乗り出た無職の少女も、父親のいない母子家庭であるが、学校を中退した無職少女が『職業選択・人生の進路』といったこれからどうやって生きていくか、今の自分は何をすれば良いのかについて悩んでいた事は容易に想像される。

時代状況・雇用市場の変化も急であり、親もおそらく学校をやめた娘に『真面目に何かの仕事を見つけてしなさい』といった以上の進路の方向性を指し示すことは困難だったのではないかと思う。学校をやめた理由も、本人が学校生活・人間関係に適応できなかったり学業への意欲を失ったからであれば納得がいきやすいだろうが、家庭の事情でやめなければならなかった場合などにはどうして自分だけがという腐った気持ちにもなりやすい。

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公共交通機関(電車・バス)でのベビーカーの利用と『ベビーカー優先マーク』

赤ちゃんや幼児の年齢にもよるが、誰であっても一人だけで『自分で身動きできない0~1歳頃の赤ちゃん』や『次の行動が予測しづらい(十分に言葉の指示が通用するとは限らない)1~3歳頃の幼児』を連れて外で行動するのは不安だし大変なものである。

電車・バスに小さな赤ちゃんを連れて乗るというだけで、力のある男性でも少しげんなりするというか、混み合っている状況では一人だけでスピーディーにベビーカーを移動させたり折りたたんだりすることはしづらいだろう。ベビーカーを折りたたんだり開いたりの動作がもたついたり、子どもの安全確保に不安を感じたりすることもあるだろうし、周囲に迷惑をかけてはいけないということが気になって余計に動作がぎこちなくなる場合もある。

そもそも赤ちゃんがまだ小さくて自分で安定して立てない年齢なら、赤ちゃんを抱っこしながらベビーカーを折りたたむということになるから、相当な腕力がなければ男性でも難しいし、押し合うような感じで車内が混み合っている状態だと、物理的に抱っこ・おんぶなどはできないのではないだろうか。

道具を使わず自分の腕だけで抱っこしたまま電車に何十分間も立って乗り続けるのは困難だから(腕の力が足りなくなって落としたりのリスクもあるから)、基本的にはベビーカーに乗せたままのほうが安心・安全だということになる。ベビーカーを使わずに抱っこしなければならない状況なら、母親(父親)が座席に座って膝の上で抱えないと危ない感じはするが。抱っこ紐のようなものとベビーカーを併用して、素早く体勢(持ち方)を切り替えられる人なら良いが、都心部の渋滞状況ではホームでも身体を自由に動かせるスペースが狭い可能性もある。

『極端な混雑が生じる時間帯(朝夕の通勤・帰宅ラッシュ)』にはベビーカー持参(小さな乳幼児連れ)で乗るのは子供の安全確保のために控えたほうが良いというか、保護者自身が通常はそういった時間帯には自分のほうが乗りたくない(スムーズかつ安全に子供を乗り降りさせる自信がない)と思うものだろう。

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スマートフォンの就寝前の使用と居眠りの頻度(睡眠の質)についての研究

昔は夜寝る前にテレビを見たりゲームをしたりすると睡眠の質が悪化すると言われていたが、その対象がゲームやパソコンからスマートフォンに移ってきただけという感じもする。

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仕事の一部も映像も娯楽(コンテンツ)もコミュニケーションも読書も、スマートフォン一台でこなせるようになってきているため、『スマートフォンの使用時間』が増加していく傾向性は変わらないし、『就寝前の使用頻度』も増えるだろう。

スマホではなくテレビやパソコンなら寝る前に見てもいいだろうという話でもなく、パソコンを長時間使っていたらやはり日中は眠くなる。また、『寝る前まで娯楽的・コミュニケーション的なウェブへの興味関心』が強いということは、それだけ『他の事柄に集中しにくい心理状態』になりやすいということでもある。

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“他人とのコミュニケーション”の面白さ・煩わしさ:共通点がなさそうな相手との雑談の苦手意識

職場で上司や同僚、取引先と『直接の業務以外の雑談(おしゃべり)』をする若者が減っているというが、関係性に合わせてやり取りをする『儀礼的なコミュニケーション機会』が社会から減ってきていることも関係しているだろう。

現代社会は『親密なコミュニケーションを取る範囲』を地域社会の顔見知りからご近所の隣人、近しい血縁者、同居の家族、親しい友人知人、付き合っている恋人などへと縮小するゲゼルシャフト化(利害共同体化)の傾向を示してきた。

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それは『煩わしいムラ社会・儀礼的な人付き合い・噂話が生み出す世間体』から逃れたいという欲望と経済・技術の進歩がシンクロした必然の結果でもある。

ウェブ社会の発達やソーシャルメディアの浸透は、『自分の好きな人とだけコミュニケーションしたい(自分の好みや相性で選んだ相手とだけつながっていたい)』という個人の欲望を技術的に充足させやすくした。『好きでも嫌いでもない相手とのコミュニケーション機会』は限定的となり、『不快で嫌いな相手』はアクセスそのものが禁止(表示そのものがブロック)されたりもする。

お互いの状況や考え、気持ちについて頻繁に会話をする『プライベートな人間関係の範囲』はかなり狭くなり、携帯電話の普及によって『話したい相手』と『話したくない相手』との主観的(好き嫌い)な選別もより技術的に簡単になった。

自分にとって感情的なメリットや関係維持の必要性がないと思える他人と、なぜ話さなければならないのか(なぜ話題をあれこれ考えてあげなければならないのか)、自分がまったく興味のない話題や同意できない旧世代の考え方などをなぜ聞かされなければならないのかという価値観を持つ人もおそらく増えていると思う。

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日本文化の基底にある義理人情・任侠精神とヤクザの相関:権力や法の支配の及ばない領域が広かった時代

そもそも、日本において理性的な法治主義や司法に訴える非暴力主義が本当の意味で根付いてきたのは昭和末期から平成期にかけてであり、それ以前の日本人が『どんな時にも暴力を振るってはいけないという価値観』を共有していたわけではない。

『仲間を裏切った者には暴力的な制裁があっても当たり前・帰属集団に迷惑や危害を加えた者は暴力で多少痛めつけられても良い・言葉で言ってもどうしても分からない奴は暴力で無理矢理に従わせるべきだ』というのはヤクザの仁義・道理であるが、こういった価値観・倫理観はヤクザに特有のものだとばかりは言えず、一般の日本人の中にも形を変えて存在することがあるものである。

友達のグループから離脱する時にいじめられたり嫌な思いをさせられる人もいれば、暴走族などの不良集団から抜けようとして集団リンチを受けた人もいて、個人経営の土木建設業の会社を辞めようとして社長含む荒くれの古参社員からリンチを受けるという事件が起こったこともある。事業規模としては大企業といって良いユニクロやワタミや日本マクドナルドでさえも、『辞職する自由』はあるが従業員を酷使したり暴言で恫喝したり過労死させたりする『ブラック企業』としての側面が批判されていたりもするが、政府は経済的利益や雇用のボリュームを優先して現状以上の指導監督をしようとはせずに労基法違反を放任している。

言葉で言っても不健全な生活態度やひきこもりの問題が変わらないからという理由で、戸塚ヨットスクール・長田塾などに代表される『暴力的な強制・脅し』も辞さないスパルタ教育の私塾を肯定する日本人も少なからずいる。『言ってもわからない奴』には暴力を振るって言うことを聞かせても良いとする、ヤクザの仁義とも親和する価値観(法治主義・人権規定の例外も必要だとする考え方)は意外に日本社会に根強くあるように思う。

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