○中世以後の天皇軍を示す「錦の御旗」の記述は、「太平記」の南北朝時代の護良親王くらいしかないが、「太平記」は現代人で小説的な作品(吉川英治など)はまだしも原文で通読した人はほぼいないだろう。江戸時代にはそれなりの知識人・武家公家の古典好きなら読んでいて当然の書物で、徳川慶喜も読んでいたと推測される。
「徳川御三家」は、徳川家康が徳川家永続のために打った布石とされるが、水戸光圀以降、勤王主義者が多い水戸徳川家は一説に「内乱で将軍家の大義名分が奪われた時の保険」とも言われた。故に水戸徳川家出身の人物が征夷大将軍になったことは、15代慶喜まで一度もなく、朱子学的な尊皇の大義名分論を家風としていた。
徳川慶喜は個人としては歴代将軍の中でも智謀に優れた類ともされるが、戊辰戦争で徳川家が敗れたのは慶喜の軍略・胆力が西郷隆盛らの維新派の豪傑に及ばなかった面も大きい。鳥羽・伏見の戦いの初戦で敗れた時点で、幕府軍は兵力で約3倍、近代化でもわずかに薩長に遅れた程度で、慶喜が前に出れば勝敗は分からなかった。
徳川慶喜が戊辰戦争の早い時点で戦意を失った理由については諸説あるが、水戸徳川家が「尊皇主義の家(本家・将軍家のバックアップ)」であった事がやはり大きかったように思う。天皇・朝廷の臣下であることを自覚させる朱子学的な教育・名分が、水戸徳川家では特に効いていたため、錦の御旗への抵抗を躊躇した。
徳川慶喜が前線に出て親幕勢力を糾合すれば、錦の御旗を奪還できる可能性はあり、天皇・公家は所詮は強い者になびくので、幕府優勢となれば討幕の勅許撤回で、逆に薩長に脅されたとして討伐を命じた。
だが兵力に優っていたのに初戦大敗した事で「対薩長の武力の自信」を失い「朝敵として死ぬ」を強く恐れた可能性が高い。
○先進国では武力による領土争奪戦はWW2で実質的に終わった。北方領土を自分が死んでも取り戻す自己と国家を一体化させたアイデンティティー形成は、洗脳的な国民教育と社会風土がないと無理である。
維新・丸山氏、北方領「戦争で奪還」に言及=執行部は撤回指示 (時事通信社 – 05月13日 19:01) http://mixi.at/a8hlsGg
戦争によって領土や外交の問題を解決するには、個人の権利が国家・政治の為に強く制限されなければならない。個人の幸福を基準にする先進国では、自分が死んでも領土奪還したい人は極めて稀になる。自発的に戦争に参加・協力させる滅私奉公システムが先進国では作りにくく、自分は死なない権力者の指示的立場も批判される。
○かつて天皇は現人神の最高司令官とされ、天皇陛下のために本気で死んでも良いと思える国民が、政策的・教育的に生み出されていた。戦争を実行するには「社会共同体の大半が武力戦争に賛成する空気・戦争反対を言えば非国民とされ村八分される規範」が必要で昔も本音では嫌な人もいたが、集団心理で逃げる事は不可能だった。
孝明天皇が天然痘で崩御してから、明治天皇が皇位について、薩長は徳川慶喜を外す小御所会議のすぐ後から、「錦の御旗」を立て始めた。だが錦の御旗のデザインは、長期にわたって天皇が軍隊を指揮する事がなかったため、幕末時には決まった意匠は無かった。最後の記録は「護良親王」が吉野山の山城に翻した日月旗だという。
後醍醐天皇の子の護良親王は、南朝の正統性の証として、金銀の糸で縫い付けた「日月旗」をはためかせたが、当時は相手も天皇を抱える南北朝時代であるため、錦の御旗の効力はなかった。だが幕末は知識人・攘夷派を中心として「尊皇攘夷・天皇軍の旗印」があれば、その軍に弓を引きづらい心理効果をもたらした。
ただ南北朝時代の「金銀の日月旗」は、「太平記」を知っている公家や知識層にしか知られていなかったため、岩倉具視のブレーン玉松操が「16花弁の菊紋」という天皇家の分かりやすい家紋を金糸で豪華に縫い上げる案を出したという。この天皇軍のシンボル化の影響は大きく、三つ葉葵の徳川家は「逆賊視」の不利を負った。
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