人間と動物を隔てるものとして旧石器時代後期(10万年以上前)に生まれたのが『死のタブー』であり、その具体的な現れとして『埋葬(葬儀)の慣習・死者への畏れ』が出現し、太古的な宗教感情の原点となった。自身と他者がいつかは必然に死にゆく存在であるという有限性の自覚、死ぬこと(=現世からの自我の消滅)が恐ろしいという感情は、人以外の動物には見られない。
人間は『死のタブー(死の自覚と禁忌・死の怖れと畏れ)』ゆえに、動物としての本能を薄められて、計画的な人生設計(死後の世界への夢想)を立てなければ不安で堪らないという呪縛に絡め取られた。『有限の生の意味と価値』を少しでも実感したいという儚い執着が、共同体(国家や民族)・宗教祭祀・子孫繁栄・進歩的世界観などの『観念的構想物による救済物語』を産み出していった。
文明社会や科学技術、経済成長が実現してきた快適さと豊かさ、新しさ、官能は『胡蝶の夢』のような刹那の喜びを私たちに与えてくれ、『いつかは無に帰すという宿命性』を忘れさせてくれながら、個人としての力感を回復させてくれる。私の人生や知性、感情はナンセンスなものではないのだというエンカレッジの呼びかけとなって。
『私が滅びた後にも“私の何か(子孫・作品・文明・国家・民族・思想・宗教など)”が永遠に続いていく』という信念によってニヒリズム(虚無)の暗渠を人類は飛び越えていき、本能を抑制する人間的理性によって『労働(生産的協働)』と『社会形成』を可能なものにした。人間の理性は原始・古代から中世、近代から現代にかけて留まる事なく伸長してきたが、理性は人間集団の本質を『本能の禁止』と『労働(生産)の規範』に導いていき、禁止される本能とは直截に『死(暴力)』と『性(生理的快楽)』を意味していた。
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赤ちゃんや幼児の年齢にもよるが、誰であっても一人だけで『自分で身動きできない0~1歳頃の赤ちゃん』や『次の行動が予測しづらい(十分に言葉の指示が通用するとは限らない)1~3歳頃の幼児』を連れて外で行動するのは不安だし大変なものである。
電車・バスに小さな赤ちゃんを連れて乗るというだけで、力のある男性でも少しげんなりするというか、混み合っている状況では一人だけでスピーディーにベビーカーを移動させたり折りたたんだりすることはしづらいだろう。ベビーカーを折りたたんだり開いたりの動作がもたついたり、子どもの安全確保に不安を感じたりすることもあるだろうし、周囲に迷惑をかけてはいけないということが気になって余計に動作がぎこちなくなる場合もある。
そもそも赤ちゃんがまだ小さくて自分で安定して立てない年齢なら、赤ちゃんを抱っこしながらベビーカーを折りたたむということになるから、相当な腕力がなければ男性でも難しいし、押し合うような感じで車内が混み合っている状態だと、物理的に抱っこ・おんぶなどはできないのではないだろうか。
道具を使わず自分の腕だけで抱っこしたまま電車に何十分間も立って乗り続けるのは困難だから(腕の力が足りなくなって落としたりのリスクもあるから)、基本的にはベビーカーに乗せたままのほうが安心・安全だということになる。ベビーカーを使わずに抱っこしなければならない状況なら、母親(父親)が座席に座って膝の上で抱えないと危ない感じはするが。抱っこ紐のようなものとベビーカーを併用して、素早く体勢(持ち方)を切り替えられる人なら良いが、都心部の渋滞状況ではホームでも身体を自由に動かせるスペースが狭い可能性もある。
『極端な混雑が生じる時間帯(朝夕の通勤・帰宅ラッシュ)』にはベビーカー持参(小さな乳幼児連れ)で乗るのは子供の安全確保のために控えたほうが良いというか、保護者自身が通常はそういった時間帯には自分のほうが乗りたくない(スムーズかつ安全に子供を乗り降りさせる自信がない)と思うものだろう。
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『集団の形式的な一体性』と『個人の実際的な多様性』を区別しない典型的な弊害の問題として『一般市民を標的にしたテロリズム』があり、『敵対していると見なす相手国』を攻撃したり政策を転換させるために、『敵対的な思想や差別を持っていない可能性も高いその国の一般市民』を脅したり傷つけたり殺害したりするのである。
この記事は、『保守派(右派)の言論活動の台頭と『失われた20年』を通した日本国民の意識変容:仮想敵と見られ始めた中国・韓国』の続きになっています。
北朝鮮による拉致事件の国家犯罪の最大の問題も、日本を一方的に仮想敵にしている北朝鮮が、『敵対的な思想や差別を持っていない可能性も高い日本の一般人』を暴力的に拉致したことにあり、『国家間の対立問題(敵対国への示威・恫喝)』を理由にして『一般市民の生命・身体・尊厳・財産』に危害(恐怖心)を与えるテロリズムやヘイトスピーチは現代では許されないと考えるべきだろう。現代の巨大化して相互依存性を強めている国民国家は、古代ギリシア・ローマのポリス(都市国家)のように一般市民がすべて戦士となって戦う『戦争共同体』ではないし、思想教育された常備軍を整えて植民地・市場(資源・労働力)の争奪戦に乗り出した近代国家の『世界戦争・思想統制の歴史』は悲惨な反省すべき過去として認識されている。
国家間の外交関係が思わしくなかったり主権・領土・歴史解釈を巡る争いが起こっていたりしても、『その国に帰属している人間』を一まとめにして傷つけたり侮辱したり脅したりして良いわけではない。
現代の先進国であれば『政権・政党政治家の政策』はともかく、過半の一般人は『それほど極端な政治思想・排他的な民族主義を持たない人たち(協調路線・生活優先・平和主義)』なので、『お前は○○人だから俺たちのことを嫌って敵視しているんだろう、俺たちの国から尊厳や主権を奪おうとしているんだろう』と言われて攻撃・罵倒されても、自分の生き方・考え方・思想とは直接関係しないことなので対応のしようがない(国家に影響力も持たず特別その国の人を嫌ってもいない自分を脅かされてもただ迷惑だ)という問題もある。
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ウェブでは在日の多い地域での在日韓国人(在日朝鮮人)に対するヘイトスピーチ(憎悪言論)や排外デモが話題になったり、『朝鮮人(韓国人)・中国人』に対する敵対感情をむき出しにする発言を多く見かける。いわゆる嫌韓・嫌中の思想を広めるきっかけとなった出版物による起点は、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言(国家を軽視する個人主義のリベラルを欺瞞偽善として公共精神・国家主義の称揚を説く一連の本)』や西尾幹二らの『国民の歴史(新しい教科書をつくる会関連の歴史解説書)』、愛国系の雑誌SAPIO(サピオ)、諸君!など民族主義を復興させようとする書籍だったが、これらはウェブの普及以前のものでその影響力は限定的だった。
その後、北朝鮮による拉致事件や国家犯罪、核開発(ミサイル発射実験)が明るみになったり、韓国・中国との歴史認識の対立や靖国神社参拝問題、感情的な反日デモが報じられたり、中韓朝の歴史教育が『日本(日本人)への憎悪・怨恨』を強める内容だったりしたことで、中国・韓国・北朝鮮を『特定アジア(特ア)』と呼んで『不倶戴天の関係改善できない敵』と見なすような民族主義の右翼勢力が台頭し始めた。
ウェブ社会とアナログ社会の端境期には、右翼的勢力の中心は言論人や文化人、歴史学者などであり、彼らは彼らなりの知的誠実さ・学術的根拠を持って『国粋主義・民族主義・国家の自立(9条改正)などの強化』を訴えており、それほど排外主義や個別の外国人(一般人)への怒りを前面に出したヘイト言論を展開することはなかった。
どちらかというと『右派が自虐史観と呼ぶ歴史観の転換(日本の侵略戦争・戦争犯罪を否定して大日本帝国と現代日本との歴史的連続性を肯定的に意味づけること)』に重点が置かれており、そういった自虐史観を乗り越えないと『日本人としての誇り・国民国家を構成する国民の自己アイデンティティ』を再建することはできないといったような主張であった。
1990年代の出版文化・論壇(学会)と結びついていた右翼勢力は、中国・韓国・北朝鮮などの特定の国家を批判することもしていたが、それと同時に『リベラリズムの国際性・無国籍性(自国贔屓でない中立性)』を否定して『民族主義の愛国心・国民意識(自国肯定の帰属感)』を重視することで、消費文明の現代日本で失われていると嘆く『日本精神・公共意識(共同体的な一体感と国家の一員としての義務感)』を取り戻させることに主眼があったようにも思う。
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他人に自分がどう思われているかに囚われ過ぎると、『自分が決めて楽しむ人生』を生きられず『他人が評価(規定)する人生』に埋没してしまうだろう。他人の意見や評価に真摯に耳を傾けることは大切なことだが、他人の言葉や態度をあたかも『自分が従うべき命令・指示』のように受け止めて、『自分のやりたいこと・考え方の自由度』の多くを投げ捨ててしまうことには慎重にありたい。
自分にとって本当に大切な相手あるいは自分のことを本当に思ってくれている相手であれば、その人の意見や注意、評価に最大限の敬意を払って内容をしっかりと聞くべきである。反対に、自分にとって本来どうでもいい相手、人生において重要な位置づけにあるわけでもない相手の、『自分を不愉快にさせるがための意見・批判・小言』などに真面目に付き合ってあれこれ思い悩む(相手から吹っかけてきたトラブルに巻き込まれて、自分のほうが相手の悪意を和らげようとして逆に気を遣ってしまう)のは時間と気力の無駄である。
大切な相手は、あなたの人生・時間・感情の大部分を恣意的に支配(操作)しようとする態度を取ることはなく人格・価値観に対しても相互的な尊重を期待することができる。悪意のある相手は、あなたの人生・時間・感情の大部分を恣意的に支配(操作)しようとする態度を取ることで、貴重な時間や精神力のリソースを奪っていく。
『他人を否定したり落胆させるための優越感ゲーム』に付き合うのはそれが好きな人以外にとっては有害無益だし、『他人の心理的問題』に取り組むカウンセリング的対応は、よほど自分にとって大事な相手でもない限りは(専門家として請け負っているのでもない限りは)あなたがやらなければならない仕事ではない。
意図的にわざと、相手を怒らせたり困らせたり落ち込ませたりすることばかり言っているような常に不愉快・不機嫌(意地悪)な人も稀にいるが、そういった人は自分自身でも解決が困難な心理的問題を抱えている事が多く、その苦しみや怒りの間接的な発散法としての優越感ゲーム(相手をやり込めるような会話)を求めているところがあり、付き合い続けるのは骨が折れる。
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10万円を2週間で貯める、5万円を1週間で貯めるには、最低でもそれ以上の収入がなければならず、『家賃・光熱費・食費・交通費』などの絶対にゼロにはできない固定費を差し引いてもなお、それだけのお金が手元に残されていなければならない。月収が20万円前後であればどんなに節約しても、2週間で10万円を貯めることは不可能であり、必要最低限の食費などが不足して健康を崩すことにも成りかねない。
10万円を2週間で貯めたければ、○○は使うな。
『使っても使わなくても良い選択の余地のある出費』をどれだけ削れるかによって貯蓄率は変わるが、『お金を使うストレス解消の頻度・服飾や車、家など社会経済的なステータスの満足』を減らせば減らすほどお金は貯まる。だが、『やりたいこと・欲しいもの・消費と相関する自意識』のすべてを我慢してとにかくお金を貯めるという価値観もそれはそれで偏っているかもしれない。
着るものもボロボロで食べるものも食べずといった極端な貧乏生活をしていた高齢者の部屋から、死後に親族の誰も知らなかったような『数千万円以上の古びた現金』が発見されたりすることもあるが、『市場(他者)に循環させないカネ』はデッドストックであり本人にとっても経済社会にとっても効用がゼロに近いものである。
一般庶民がお金を貯めることの効用は『不確定な将来不安の緩和(高齢・病気・不況で自力で稼げなくなってもまとまった貯金があればなんとか急場を凌げるという考え方)』であり、数千万、数億円以上の現金があってもまだ足りないと思って落ち着かない人には『自己不確実感に基づく貧困妄想(お金があっても自分は貧乏だと思い込む妄想)』が見られることもある。
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