“日常の小さな悪事(愚行)”を不特定多数に見せられるウェブ社会と間違った自己顕示欲の現れ

北海道警釧路署の桂交番(釧路町)で、交番の脇に止めてあったミニパトカーの上に乗って騒いでいた三人の男の画像が25日夜に簡易投稿サイト『ツイッター』に投稿された。車体の天井に靴底で擦れたような傷があったため、同署は器物損壊事件の疑いで捜査をして、容疑者の若者たちは逮捕されたようだ。

パトカー上で騒ぐ写真投稿…釧路署が捜査

ウェブ社会の発達やSNS(ソーシャルネットワーキング・サービス)の浸透によって、『自分の日常生活・行動履歴・意見と主張』を写真や映像と共にアップロードして誰かに見てもらいたいという人が増えた。

自分の行動・イベントや人間関係にまつわる『ライフログ』は急増しているが、急増しているがために、『無難な普通の投稿内容』では大勢の人の注目や関心を集めることは困難になっている状況がある。

社会事象や人間心理における『卓越した識見・優れた洞察』などでウェブ上で目立つなら良いのかもしれないが、10~20代前半くらいの若者層の多くは『全世代が参加する公共圏の議論』において自らの主張や見識の積み重ねだけでアクセスを集めて承認されるだけの知的・経験的な基盤や文章力がないことが多い。ため、勢い『証拠写真(証拠映像)を伴う悪目立ちの愚行・ルール違反』でここまでやれる俺たち(私たち)は凄いというような間違ったハイリスクな目立ち方を目指してしまうところがある。

『悪目立ちの方向性での自己顕示欲(とにかく目立って仲間からコメントやイイネを貰いたいという承認欲求)』が強い人たちが、犯罪スレスレの行為やマナー違反の行為を投稿して、炎上したり実生活に悪影響(懲戒処分)が及んだりしているが、これは『現代の若者』特有の問題ではなく『愚行とその自己顕示欲が可視化される時代』になったという現れに過ぎないだろう。

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映画『ワールドウォーZ』の感想

総合評価 77点/100点

車のサイドミラーを暴走する車にへし折られ、状況が全く分からないまま、フィラデルフィアの街は異常な大混乱に巻き込まれ、軍隊まで出動して瞬時に街は厳戒体制に置かれた。同様の現象はアメリカ全土で勃発、世界の他の都市も次々に原因不明の感染症に冒されて機能を停止する。狂犬病にも似たゾンビ化の感染症のパンデミックによって、人類は絶滅の危機に瀕した。

『冒頭の掴み』は非常にスリリングで期待感を煽るし、『大都市のパニック』の映像表現は臨場感のある恐怖と混乱を上手く表現しているが、いわゆる『ゾンビ映画』のグローバルな現代版といったストーリーで使い古された観はある。ゾンビの外観や動きの表現は過去の作品よりも格段に進歩しているし、『バイオハザード』ほどゲームらしい冒険物語に偏ったものではなく、人間に襲いかかる『俊敏で足の速いゾンビ』というのが今までのゾンビとはちょっと違った設定になっている。

しかし、アメリカ人は生者が理性を失って本能(食欲)に支配された『動く死体』になるという『ゾンビ映画』が本当に好きだなと思う。海外ドラマの『ウォーキング・デッド』などもヒットしているが、こちらは『親しい家族がゾンビになる悲哀・理性を失った人間の浅ましさ(尊厳の喪失)』のようなものをテーマにしており、ゾンビになった愛する者を殺さなければならない極限状況の葛藤を描いているので、心情表現の上での新しさはあると思うが。

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映画『ホワイトハウス・ダウン』の感想

総合評価 82点/100点

世界の最高権力者であるアメリカ合衆国大統領の居住地・政治拠点である『ホワイトハウス』がテロ勢力によって陥落させられるという筋書きは、ジェラルド・バトラー主演の『エンド・オブ・ホワイトハウス』とも共通しているが、『ホワイトハウス・ダウン』のほうがライトな作りになっている。

本格的なアクション映画としての銃撃戦の迫力とテロ計画の深刻さでは、『エンド・オブ・ホワイトハウス』のほうが面白いと思うが、『ホワイトハウス・ダウン』は議会警察官のジョン・ケイル(チャニング・テイタム)とジェームズ・ソイヤー大統領(ジェイミー・フォックス)とのコミュニケーション(友情の芽生え)に重点が置かれている。

あちこち転職を繰り返して軍隊でも上官に不遜な態度を取ったりして、キャリアがガタガタなジョン・ケイルだったが、娘のエミリー・ケイル(ジョーイ・キング)の前で良いところを見せたくて、『大統領警護官』に応募するのだが幼馴染みだった面接官の評価は学歴面でも経歴面・素行面でも警護官として採用できる基準に達していないという散々なものだった。

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『昭和の戦争』を生んだ“天皇の中空構造と軍部”3:右翼の君民一体と左翼の労働者救済の理想

一般庶民の貧しく惨めな生活を良くするために既存の腐敗堕落した政治体制を転覆させるという目標を掲げた左翼の共産党勢力も、心情的には農民・労働者の味方として右翼と似通った国家社会主義の革命理念を持ってはいたが、左翼は『天皇制・国民国家・私有財産の否定=共和主義と共産主義・ソ連コミンテルン指導下のインターナショナリズム(祖国を持たないプロレタリアートの国際的連帯による暴力革命)』を掲げていたので、1941年の『治安維持法』によって実質的に壊滅させられた。

日本は歴史的に君主を実力で排除する『市民革命』を経験したことがなく、フランス革命に発する『共和主義政体への憧れ』そのものが無かったこともあるが、天皇制を国体の本質として教育されてきた当時の日本人の多くは、『天皇と民衆の一体化(一君万民・君臣一体)』を理想的な国家の有機体的なあり方と見なす部族的な価値観を持っていた。

○『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の政治不信”2:血盟団事件(1932年)のテロの正義感・天皇崇拝

大日本帝国憲法において天皇は神聖にして侵すべからずと言われるように、天皇は『絶対無謬の存在(自分自身を持たない中空構造の存在)』であるため、天皇主権の日本国において悪政や誤謬が起こるとすればそれは『天皇自身』に問題があるのではなく、天皇の側近くで間違った政策や考え方を吹き込む『君側の奸(天皇権威を騙る不埒な重臣)』が悪いのだというロジックになり、政治を正すには側近を暗殺しろという『血盟団事件(1932年)・5.15事件(1932年)・2.26事件(1936年)のテロリズム』に流れたのである。

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『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の政治不信”2:血盟団事件(1932年)の破滅の哲学と自己犠牲の倫理

テロ事件を起こした右翼青年が共通して述べる目的は『君側の奸を除く』であり、天皇を擁立して讒謗している巨悪の奸臣(現在の政治中枢を牛耳っている元老・首相・閣僚・そこにカネを流す財界人など)に天誅を加えることで、天皇の下に善良な忠臣が再結集して新生日本の再建計画を進めることができるという武勇と忠誠、滅私の物語を信じていた。

戦争を推進しようとする右翼が唱えた『昭和維新』というのは、明治維新の王政復古の原点に帰ることだけが日本を救う道だという信仰を持った集団が、天皇中心主義の革命のために『捨石』になるという国家改造運動であり、こういった自分が死ぬことで国運が好転する(自分の利益や安全を考えないすぐに死んでも良いと自分を捨てることこそが正義なのだ)というメンタリティは後の『神風特攻隊』などにも継承されていく。

○『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の経済的困窮”1:右翼の国家改造・左翼の共産革命

とにかく自分の生命と利益を捨てて行動せよという『捨石主義』は、その後の日本軍の行動理念をも間接的に規定していく。『自分が死ぬことこそが国の勝利・繁栄につながる』という道徳観念は一般に共有されるものになったのだが、こういった道徳観念は人類に普遍的なところがあるのかもしれない。

洋の東西を問わず、『自分を大切にする人・お金や豊かさに価値を置く欲望の強い人』よりも『自分を捨てられる人・お金も安楽も要らないというストイックな人』のほうが利他的で道徳的な人間性を持っていると思う庶民はやはり多く、『西郷隆盛信仰』などもそういった無私の印象に根ざしていた。特に日本においてはその道徳観念が、滅私奉公や武士道精神、日本男児の行動理念として自発的な努力と強制的な教育によって植え込まれていったが、当時の右翼の捨石主義(自己犠牲主義)はそういった意味でも道徳的に承認されやすい素地があった。

血盟団を扇動した日蓮宗の過激な僧侶である井上日召や藤井斎空軍大尉(上海事件で戦死)は、自ら進んで破滅に向かう自己犠牲の大馬鹿者が日本を救う(実際には日本を破滅させる軍国主義の口火を切るが)とし、建設・安寧のことなどは後世に任せて、我々はひたすらに不正な既存の権力者・財界人(奸物)を抹殺しさえすれば良いとの短絡的な『破滅の哲学(後の一人一殺のテロ思想)』を吹聴した。強欲な腐敗した政治家ではなく潔癖な命を惜しまない軍人に、天皇の大命を降下させて、政党政治を否定する『超然内閣』を樹立することが国家改造運動を目論む右翼勢力の目標であった。昭和初期の大不況と政治家の相次ぐ疑獄事件がその前提にあった。

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『昭和の戦争』を生んだ“国民(庶民)の経済的困窮”1:右翼の国家改造・左翼の共産革命

関東軍の野心が暴発した“満州事変(柳条湖事件)”から始まった泥沼の『日中戦争』、経済包囲網に耐え兼ねた日本の“真珠湾攻撃”から始まった『日米戦争(太平洋戦争)』、現代の日本の歴史認識と国民アイデンティティに根深い影を落とし続けるこの二つの戦争のそもそもの原因はどこにあったのか。

今から思えば開戦そのものをしない選択もあったように思えるし、『一億玉砕・総動員体制』の狂気に国家全体が駆り立てられる前に戦争のどこかの段階で引き返しておけば良かったようにも思える。だが、当時の日本国民、特に貧しい農民・労働者・兵士の多くは圧倒的に天皇制(皇国思想)の下の戦争を支持する右翼的なメンタリティを持っており、昭和初期の右翼国家社会主義運動(国家改造運動)に突き動かされる形で『政党政治の民主主義』よりも『軍部主導(軍人内閣)の軍国主義』を望んだのである。

日本の戦争を理解するためには、現代とは全く意味合いと影響力が異なる『右翼』と『左翼』と『軍』を知らなければならないが、まず途上国・新興国の多くでは現代のエジプトやミャンマー、トルコなどを見ても分かるように一般大衆のレベルで『軍に対する親近感・信頼感』が『政治家に対する親近感・信頼感』よりも強いということを抑えておかなければならない。

端的に言えば、かつての大日本帝国時代に『昭和恐慌の経済破綻・スタグフレーション・失業』に喘いでいた国民は、大衆の貧窮・飢え・苦境を放置して私腹を肥やしている政治家と財界人の腐敗を憎んでおり、軍部に『政治とカネの結びつき』を断ち切る正義・天誅の役割を強く期待していた。

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