ヨゼフ・シュンペーターの『経済発展の理論』とイノベーション

経済活動や社会生活、インターネット(IT)の分野で、『イノベーション(innovation)』という言葉が頻繁に使われだして10年以上の歳月が流れたが、現在でも企業や技術者、研究者はイノベーションを巡って鎬を削る競争を繰り返し続ける。

イノベーションという概念を提起したのは、オーストリア出身のヨゼフ・シュンペーターという経済学者で、J.シュンペーターは『経済発展の理論(1912年)』において経済成長の主要原因がイノベーションなのだと定義した。

シュンペーターのいうイノベーションは『技術革新』という風に一義的に翻訳できるものではなく、以下の5つの類型にまたがる『既存の知識・技術・組織の組み合わせの変化による新結合・便益増加・新たな生活文化様式』のすべてを包摂するものだった。

1.消費者にまだ知られていなかった新しい財貨(商品・サービス)の生産と提供。

2.効率的・科学的な競争力のある新しい生産方法の導入。

3.新しい販売先・顧客層の開拓。

4.新しい原料や組立の仕入れ先(委託先)の獲得。

5.新しい機能的な組織の創設(組織の硬直性・官僚主義・守備性の打破による突出)。

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“3Dプリンター・立体的VR”による試作コストの削減

3Dプリンターは『趣味的なモノづくり・サービス』にも応用できるが、樹脂を主体とする素材と大量生産の速度の制限があるため、ビジネス分野のスケールメリットは『実物の試作品製造を代替するコスト削減』にある。

キヤノンは細部まで立体化されたVR(バーチャル・リアリティ)によって試作品を仮想体験できるヘッドマウント・ディスプレイを開発して、3Dプリンターよりも更に低コストな試作品の仮想体験を実現できたとしているが、こういった『モノを伴わない試作・試行錯誤』というものも新たな体験型サービスとしての価値を持ってきている。

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ウェブ社会の進展とスマホ市場の拡大2:サムスンとAppleの世界市場の二強を揺らがすコモディティ化とローカル主義

ここ数年で驚異的な市場成長を遂げたものとしてスマートフォンがあり、スマホ市場は1年で2倍近くにまで拡大し続ける魅力的な市場だが、『スマホの販売単価下落』によって途上国のマイナー企業にも海賊ものも含めてチャンスが生まれているという。サムスンとAppleがスマホの世界市場の二強であるが、スマホ市場は先進国で概ね飽和しつつあり、ハイエンドの高機能・高価格なスマホの売上が鈍化しているため、今以上の成長を続けようとすれば『新興国・途上国で売れる格安端末』に手をつけるしかない。

ウェブ社会の進展とスマホ市場の拡大1:ウェブ社会がもたらした経済社会・ライフスタイル・時間感覚の変化

iPhoneやGalaxySのシリーズは先進国では売れているが、800ドル以上はする価格設定では途上国では買うことのできる層が極めて小さくなってしまい、中国のXiaomi(小米)やインドのマイクロマックスなどに顧客を先に奪われてしまうのである。そういった国ではブランド価値だとか先端的な機能だとかRetinaディスプレイだとかいったものは大した訴求力を持たず、価格が数百ドルもすると聞いただけでもう自分たちには買えない商品だと即座に判断されてしまうため、『100ドル以下』くらいにまで価格を引き下げないと売れない。

100ドル以下の格安スマホを、極端に企業ブランドのイメージを崩さない水準の商品で作ろうとしたら、確実に原価割れを起こして売れば売るほど損をするような格好になってしまうが、サムスンにせよAppleにせよ『ケータイ端末市場のドッグイアー競争』の歴史の上に君臨した企業であるが故に、価格破壊競争を無視すればノキアやRIM、HTCのように斜陽期にはまり込むのではないかという懸念は強い。世界最高の携帯電話メーカーとして10年近くもトップを走ったノキアが、スマホ時代に全く適応できずにわずか数年で世界シェアの大半を喪失した記憶は新しく、ノキアは日本をはじめとするアジア市場でも全く存在感を示せないままである。

サムスンもAppleも最終利益が少しずつ目減りし始めており、市場はその成長限界点を見極めようとして売りの姿勢を見せたりもしているが、『スマートフォン・タブレットのコモディティ化』がより進むことによって、日本の電機メーカーが『液晶テレビのコモディティ化』によって一気に世界市場でその存在感を失ったような出来事が繰り返される可能性もある。コモディティ化とは『メーカーごとの商品の個性や差異の喪失』を前提として、技術的な参入障壁が下がり価格・利益率も下がっていくという汎用品化の現象(特別な商品やブランドではなくなっていくこと)のことである。

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ウェブ社会の進展とスマホ市場の拡大1:ウェブ社会がもたらした経済社会・ライフスタイル・時間感覚の変化

1995年からインターネット時代が到来したとされるが、2010年からはデバイスがパソコンからタブレットやスマートフォンに転換されるようになり、より様々な年代・属性・地域の人がインターネットにアプリを介してアクセスする『本格的なネット時代(ウェブ社会)』が幕を開けた。

寸断されない分散ネットワークの軍事技術から転用されたインターネット(WWW)は、産業革命クラスのイノベーションであり、人々のライフスタイルや情報環境、価値観に非常に大きな影響を与えたが、産業革命との最大の違いは『経済成長・雇用増大・所得増加のインパクトが弱い情報革命(コミュニケーションと情報を巡る精神活動・人間関係に影響が大きくでた革命)』という点にあった。

インターネットは効率化・合理化を急速に推し進めて生産性・利益率を高めたが、その多くは『人的労働力を必要としない生産性の向上』であり、ITSの技術革新はそれに追いつくことのできない大多数の潜在的な労働力を置き去りにしてしまっただけでなく、『従来の仕事の単価』をアウトソーシングとクラウドソーシング(ウェブ上におけるタスクごとの個別契約)が大きく引き下げた。

更には、ウェブ上にアップされ続ける『膨大無数なコンテンツ+物理的制約を超えたコミュニケーション機会』が、お金のかからない“フリー経済”の領域を拡大して、プロバイダ(キャリア)の固定費さえ払えば終わりなく情報・コミュニケーション・ゲームの娯楽を享受し続けられる特殊な非物理的環境を整えた。

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映画『かぐや姫の物語』の感想

総合評価 90点/100点

誰もが知る竹取物語の冒頭は、“今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山に交じりて竹を取りつつ、万のことに使ひけり。名をば讃岐造(さぬきのみやつこ)となむ言ひける”より始まる。アニメ映画の『かぐや姫の物語』でも、竹取の翁(おじいさん)が竹林で光り輝く竹を見つけて、その手前に伸びてきた竹の子の中から“小さな美しい姫”を拾い上げる場面から始まる。ストーリーは『かぐや姫と捨丸(すてまる)の輪廻転生を思わせる恋愛・かぐや姫の都嫌いと自然回帰願望』を除いては、ほぼ原作を忠実になぞっている。

着物をまとった小さな姫はするりと媼(おばあさん)の手をすり落ちると、瞬く間に赤ちゃんへとその姿を変え、姫を『天からの授かり物』と信じる翁と媼の手によって目に入れても痛くないほどに大切に育てられていく。自然の野山を自由に駆け回って、まるで雨後の竹の子のように急速に成長していく女の子は、山に生きる子供達から“たけのこ”と呼ばれて可愛がられ、あっという間に美しい少女へとその姿を変えていった。

アニメーションは画用紙に書き殴ったラフなスケッチ画のような線質を意図的に出しているが、『人物の表情の複雑さ・墨水画風に色を加えたような色彩・ダイナミックかつ独自性のある動き』に新しさは感じる。

かぐや姫にしても絶世の美女であることを分かりやすい『アニメキャラ(美人だったり可愛い子だったりが一目で分かるキャラ)』の形で創作しておらず、キャラクターとしての存在感はもののけ姫やナウシカ、千と千尋のヒロインなどと比べるとやや落ちるだろうし、『古典世界の住人』としての輪郭の曖昧さ、実在感の弱さをわざと残しているのではないかと思われる。

翁は姫の神通力のおかげなのか、竹林に行く度に砂金の黄金がぎっしりと詰まった竹を見つけて、次第に財力を蓄えていく。美少女へと成長してきた姫を見ている翁は、このまま辺鄙な山奥に埋もれていたのでは、姫に幸福で華やかな人生を歩んでもらうことは不可能だと悟り、蓄財した膨大な砂金を使って『京の都(みやこ)』に出ることを計画する。

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冬山登山もBC(バックカントリー)のスキーも自己責任が前提だが、

遭難したり死亡したりすれば何らかの非難は免れない。またどれだけ身体を鍛えて装備を整えていようがどれだけ注意深くしていようが、『気象遭難・雪崩事故・落石や落雷・体調急変』などの確率的リスクをゼロにすることまではできない。

アウトドアに限らず、人間は確率的に病気になったり事故に遭ったり死んだりするものだが、アウトドアの事故は特にメディアが大きく取り上げやすく、遭難事故には人間関係や物語性も絡むので詳細な報道がされやすい。

富山雪崩:地鳴りのようなごう音 「残念でならない」

『生活のためにしなくてもいいことを敢えてして救助の手間・コストがかかったり死んで迷惑をかけた(間接的な迷惑行為に当たったり税金の負担になる)』というロジックで非難する人は当然いるが、それはその人の『リスク回避・公費負担の最小化』を善(正義)とする価値観であって否定されるべきものでもない。

自分の好きな趣味や活動を全否定(バカに)されると、それに対して『そうではないとする材料・根拠・経験・事例・主張者側の問題点(他の迷惑やコスト負担)』などを言いたくなるものだが(そのための労力を惜しまずに膨大な論点や事例を集める人もいたりするが)、各種の趣味の分野に限らず、生き方・性格にしろ価値観・視点にしろすべての人に認められる必要はないし、認められることはおよそ不可能である。

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