ドラマ『明日、ママがいない』に対するクレーム:“人間の悪・差別・本音”を誇張したフィクションと当事者性を持つ人への影響

ドラマ『明日、ママがいない』には、母親から赤ちゃんポストに遺棄された子供や親から虐待を受けたり養育を放棄されたりした子供たちが登場する。そういった親に愛してもらえない子供たちの『不幸な境遇・弱りきった気持ち』に、更に追い討ちをかける過酷ないじめ・差別・職員による暴言が過激に表現される。

この親のいない子供を更に虐待したり差別したりする人間がいるという表現に対して、関係者から『児童擁護施設で生活している(生活していた過去のある)子供たちの心が傷ついたり、ドラマを真似したいじめを誘発する恐れがある』というクレームが寄せられ一部で物議を醸しているという。

野島伸司の脚本には『101回目のプロポーズ』『ひとつ屋根の下』のような王道のトレンディドラマ(恋愛・家族もの)もあるのだが、教師と生徒の禁断の愛をテーマとした1993年の『高校教師』以降の作品ではかなり色彩が異なってきた。

『家なき子』『聖者の行進』を代表として、『暴力と虐待・貧困(無能)と差別・いじめと自殺・障害者差別・倫理と建前の崩壊(偽善性の暴露)』などの豊かな明るい現代社会の表層から隠蔽(排除)されている暗い問題を扱うことが増えた。

そういった暗くて貧しくて誰も守ってくれない悲惨な境遇、理性も倫理も救いもない世界に閉じ込められて生きている人が、この日本のどこかにも確かにいるのだという現実を知らしめるような重たい作品を野島は好んで書くが、『悲惨さ・不幸さの強調(フィクションではあるが一部ではリアルとも接合する表現)』がどぎついので、ドラマのいじめられる者の設定との共通性が僅かでもあれば気分が悪くなるような人がいても不思議ではない。

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オウム真理教の平田信の裁判開始:風化していく地下鉄サリン事件の記憶とカルト宗教の脅威

宗教団体が一般市民を対象とする無差別テロを仕掛けた『地下鉄サリン事件』が起こったのは1995年3月、阪神淡路大震災が発生してから僅か2ヶ月後の大惨事だった。世紀末が近づきバブル崩壊後の不況に喘ぐ日本の世相を更に陰鬱なものとしたが、それだけではなく当時のマスメディアはお祭り騒ぎのようにオウム真理教の長時間の特集番組を組み続け、麻原彰晃逮捕の当日までメディアの多くの時間がオウム関連にジャックされているような異常な状況であった。

当時の僕は高校生だったが、連日のようにワイドショーや特番にオウム真理教の幹部が出演しており、上祐史浩広報部長や青山吉伸弁護士が『尊師(麻原)の無実』と『教団の安全性』を饒舌なまくしたてるような口調で訴えかけ続け、オウム糾弾の報道に対しては名誉毀損罪をはじめとする法的な措置を取ることを辞さない姿勢を示していた。

教団側がむしろ国家権力や米軍から弾圧されているという被害妄想を中心にした弁明だけではなく、オウム真理教の教義と目的、不気味な修行方法と霊感商法、麻原を頂点に置くヒエラルキー・幹部のホーリーネームや高学歴などがあまりに詳しく報道され過ぎ、オウム批判なのかオウム宣伝なのか分からなくなる有様であった。

最初はオウム真理教の名前くらいしか知らなかった人までが、教団の主要な幹部の顔・名前が識別できるようになったり、教団内の特殊な教義、女を使った勧誘法や麻原の煩悩まみれの生活ぶり(最終解脱者は何をやっても精神が汚れず欲望が逆に清めになるらしいがw)を知るようになったりした。上祐史浩にファンがついたりグッズが販売されたりなどの、事件・騒動に便乗した悪ふざけの動きも出たりしたが、こういった動きは海外の凶悪犯罪者や日本で英国人女性を殺した市橋達也の事件でも起こったりはした。

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学校・職場のいじめは、どうして根本的解決が難しいのか?:社会的動物としての本能に倫理・理性の火は灯せるか。

いじめと聞くと記事にあるような『学校環境におけるいじめ』がイメージされやすいが、実際には『大人同士の社会関係(仕事・社交)』においても直接の暴力を振るわないいじめは無数にあり、各種のハラスメント(パワハラ・モラハラ・セクハラ・アカハラ・マタハラ等)が社会問題になって久しい。

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有史以来どころか類人猿の段階から、ホモ属の構成する社会にはおそらく集団内における弱者(ネガティブな特徴が目立つ異質な他者)を差別して攻撃・排除する『いじめ』はあったと想定されるが、『いじめの根本原因』は何かというと以下の4つに絞り込まれる。このいじめの根本原因は、社会的差別(排除力学)の根本要因でもある。

1.人間が社会的動物であり、特定の集団組織に所属する状況が多く、集団内でのポジショニング(優劣・居心地の良さ)を巡る『明示的・暗黙的な競争』があること。

2.人間の個人の外見・能力・意志(動機づけ)に多様性があり、『自己と他者との差異』によって自己価値の確認(あいつよりは俺・私のほうがマシだという自己保証)をする人が多いこと。

3.社会を共同体として維持するための『価値観の均質化・集団内の秩序形成・言動の同調圧力』が働き、共同体に所属しようとする個人である限り、その種の集団力学の影響(個人の倫理・意志を押さえつけてくる力学)から完全には抜け出せないこと。

4.家庭環境・親子関係・友人関係・学校教育を通して、『自尊心の傷つき・存在価値の不安定化』に脅かされるトラウマを負うリスクがあり、そのトラウマを解消するための『スケープゴート』を求める個人が絶対にゼロにはならないこと。

学校のいじめを減少させるための決定的な方法であればむしろ理屈としては簡単である。学校やクラスを『固定メンバーで構成され続ける共同体的な学校環境(いわゆるスクールカーストの秩序形成を促す環境)』ではないようにすればいいだけである。

小中学校のメンバー固定のクラス制を廃止して『学科ごとの講義制』にしたり、どこの学区の学校にも飛び入りできるようにしたり、校舎に通わなくて良いネット配信教育との併用を認めればおそらくいじめは相当減るだろう。毎日、同じメンバーで顔を合わせて学校に通えば、『親しい友人間のグループ(派閥)』もできるが『親しくない知人との区別』も生まれ、『気に入らない奴・合わないグループに対する認識や対立』も生まれるリスクがある。

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映画『ジャッジ!』の感想

総合評価 78点/100点

国際広告祭の何でもありの票取り合戦と“できない男+できる女”のツンデレ系の恋愛をテーマにしたコメディ映画で、妻夫木聡のカマキリのポーズや丸暗記の英会話戦術を初めとした馬鹿らしい演技が記憶に残る。北川景子は『謎解きはディナーの後で』とかぶるような攻撃系のキャラだが、何でもありが前提の投票合戦で不正をしようとしない妻夫木演じる太田喜一郎の糞真面目さに、いらつきながらもバックアップする。

大手広告代理店に勤めるCMプランナーの太田喜一郎(妻夫木聡)は、要領が悪くてお人好し。クリエイティブな仕事に憧れて広告業界に入ったものの、いまいち仕事も上手くいかない、調子が良くて女好きなノリノリの上司・大滝一郎(豊川悦司)からはいつも良いように使われている。

大滝一郎が自信満々で制作したエースコックのきつねうどんのCMは、エースコックの責任者から不評できつねをネコにしてくれという無茶なダメだしを食らう。大滝は太田にきつねをネコに見せかけるという無意味な仕事を丸投げし、自分の名前を制作のクレジットから外すように指示する。

仕事も私生活も思い通りに行かず落ち込んでいる太田喜一郎は、空気が読めずに一人だけ除け者にされた合コンの帰りに、地元の初恋の相手と偶然遭遇するが、その子は既に昔馴染みの友人と結婚しており、更に自分だけ同じ場所で停滞しているような疎外感を味わう。太田はその子から貰ったぬいぐるみのキーホルダーを未だにつけ続けていたりする。

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日本の医療費と高齢化社会のコスト、難病(特定疾患)支援のあり方

日本の医療費は『高齢化社会・医療技術の進歩・慢性疾患の増加・軽症受診者の多さ』などの要因によって、今後も継続的に上がり続けると予測される。現時点の医療費総額(公費負担はそのうち14兆8079億円,38.4%)は約38.5兆円であり、65歳以上の医療費が21兆4497億円で全体の55.6%、。75歳以上に絞ると13兆1226億円で34.0%であり、高齢化社会では高齢者の医療費が全体の過半を占める。

今年から来年にかけての10%への消費税増税は、高齢化社会に耐え得る社会保障制度の財源強化のためというのが表の理由であるが、10%に増税しても増収分の約12~13兆円は補正予算・経済対策(企業支援策)・国土強靭化に使われるので、医療・介護・年金の社会保障負担増に『現行制度』のまま持ちこたえられる見通しは、10%の消費増税でも依然立たない。

先進国においては医療は誰もが必要な時に利用できる社会インフラであるべきで、日本的な『国民皆保険制度』もアメリカなど一部の市場主義国を除いては、先進国にあったほうが良いとされる保険制度であったが、高齢化率が20~25%を超えてくる『超高齢化社会の医療費』では若年層と高齢層の医療負担格差(保険の負担と受給のバランス)が著しく崩れてくる問題が深刻化している。

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AKB48やEXILEは『反知性主義・反教養主義』の象徴であるという主張

が『内田樹&名越康文の辺境ラジオ』というラジオ番組で語られたらしいが、芸能・スポーツをはじめとする大衆文化というのは歴史的にも心情的にも『反知性主義・反学歴主義』であるのが普通である。

http://blogos.com/article/77754/

国民総員が知性・教養・文化主義(分かりやすい物理的・性的な価値の否定と非職業的な文化教養への耽溺)に傾けば、おそらく産業経済の生産力・雇用は維持しづらくなるし、『難解なロジックや意味づけ、専門的訓練が不要な直感的かつ本能的な魅力』は人間の社会再生産や労働意欲にとってはむしろプラスに作用することも多いかもしれない。

端的には、学校・官庁・企業の積み上げ型のキャリアが形成する『学力・勤勉・職能職歴・人脈などをプラス要素とするピラミッド型の階層構造』とは異なるフレームワークを作り出すのが、近代以降の芸能・スポーツの領域の役割である。

歴史哲学的に言えば、芸能・スポーツは『中心に対する周縁の価値体系』を構築することで、社会構成員の大多数を占める『大衆層の夢・娯楽・憧れ』を作り出す。華やかさや面白み、魅力に乏しく見える政治経済エリートのカウンターカルチャーとして、芸能・スポーツは『現代のサーカス』として喝采されると同時に、政治経済システム中枢の動向に対して国民の無関心を強めるバリアにもなる。

それらは、マーケティング・宣伝戦略を典型として経済活動の促進にも当然応用されるのだが、芸能・スポーツの一線級のタレント(選手)は、誰もが心のどこかに持つ『文明化・管理化・家畜化されたくないという人間の本能(=身体性・生物学的感受性)』にダイレクトに作用することで支持・人気を集める力(カリスマ性)を持つ。

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