20代男のベビーシッターに預けた2歳児が死亡した事件

“子守り(子供を預かること)”を仕事内容にする個人のベビーシッターには、法規制や業務独占資格などはないが、通常は十分な信用度が担保されない相手や機関、場所に自分の子供を預けること自体が考えにくく、どうして若い男性が単独でやっていて施設的な拠点もないベビーシッターを無条件に信用したのかは不可思議である。

仮にそういった男性個人が請け負っているベビーシッターに預ける場合でも、最低限、どういった場所に子供が預けられるのかどんな人物が実際の面倒を見るのか、他の子供たちもきちんと世話をされているかなど、自分でその場所・部屋にまで実際に出向いてチェックすることくらいはすべきである。

住所が明確な保育所や幼稚園のような施設・組織としての拠点(基盤)がないのだから、『個人と個人の信頼関係以上のもの』がそこにはなく、であればこそ『実際に世話をしてくれる相手』には対面して話してみたり預ける場所を観察したりして、その人間性や信用度(責任感)、託児環境の質を推し量るべきだ。

『子供を受け取る人』と『子供の面倒を見る人』が別であるというのもおかしな話だが、預けられる場所とは別の駅で子供を預けてしまうというやり取りもリスクが高いし、そもそも『子供がどこにいるかも分からないような預け方』はいざという時に迅速な対応ができず、親としては不安なはずである。

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映画『舟を編む』の感想

総合評価 90点/100点

膨大な時間をかけて、見出し語24万の今を生きる辞書『大渡海(だいとかい)』を地道にコツコツと作成・編集し続けた人たちの姿を描く。時代設定は、PHSが発売されて間もない時期ということだから1990年代の前半くらいだろう。如何にも地味で華がないように感じられる『辞書・辞典』の類の作成は、出版社では極めて人気のない部署であり、若手の社員は辞書編集部に配属・転換させることを退屈な仕事やキャリアからの脱落として敬遠している。

辞書編集に精力的に取り組んできたベテラン編集者の荒木公平(小林薫)が定年退職すると聞いた国語学者・監修者の松本朋祐(加藤剛)は、『荒木君の代わりを務められる人がいるとは思えない』と愁眉を寄せるが、軽薄な若手社員の西岡正志(オダギリジョー)が見つけて連れてきた営業部の馬締光也(松田龍平)は辞書作成に対する意外なほどの熱意と適性を見せる。松本の馬締に対する期待と評価は次第に高まっていく。

馬締光也(まじめみつや)はその名前の通りに真面目を絵に描いたようなカチコチの男で、とにかく本が好きだからということで出版社に就職してきたのだが、声が小さくてボソボソとしか喋れず、人付き合い(社交)が苦手という性格が災いし、配属された営業部では全く成果が出せずに使えない社員の位置づけになっていた。

そもそも馬締は『本を読むこと・集めること』が極端に好きなビブリオマニア(書籍蒐集家の読書人)であり、『本を売り込むこと・書店や他者に薦めること』が好きなわけではなかったために営業では成績が伸びる余地がなかったのだが、下宿先の自室が本で全て埋まってしまうほどの本好き・文字好きの性格や嗜好が『辞書作成の仕事』にぴったりとはまるのである。

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人の有限性と宗教・価値判断・ライフスタイル:STAP細胞あるいは神の属性(無限永遠)よりの連想

小保方晴子ユニットリーダーのSTAP細胞の研究論文の不正が指摘されたり追試の不成功が報じられて、STAP細胞の実在そのものが危ぶまれているようだが、そもそもSTAP細胞がiPS細胞以上の魅惑的な相貌を帯びていたのは、小保方氏がやや大風呂敷を広げた形で『細胞・組織レベルの若返りという未来の可能性』に言及したこともあるだろう。

現代では若さの衰え・喪失を嫌う形で、アンチエイジングやセルフマネジメントに励む人が増える一方で、そういった努力を『自然法則に抗う無益な試み・浅ましい美や若さへの執念』として批判的に見る見方もある。だが、人間にとって『若さ・健康の喪失』と老いと病気が行き着く先の『不可避かつ宿命的な生物としての死』は、古代あるいは有史以前の穴居時代から『神頼み・呪術信仰』をしてでも乗り越えたいものであったのもまた確かなのである。

古代エジプト文明の権力者たちは、死後の世界からの『肉体を持った復活』を信じて、自らの遺体を防腐処理させた上でピラミッドに永久保存させようとしたし、古代中国を初めて統一した秦の始皇帝は、本気で世界の果てに当たる蓬莱・神仙の国に『不老長寿の薬』が存在すると信じて、巨額経費と人員を投じて徐福伝説に象徴されるような不老長寿の薬・仙術の探索隊を派遣し続けたという。

無知蒙昧な迷信まみれの古代人、私欲の深い権力者だから、『死後の復活・不老不死の方法』などという馬鹿げた夢想(死にたくない執着の夢)に取り付かれていただけで、啓蒙的理性が切り開いた文明社会・客観科学・進歩主義の中ではそういった不可能な夢想はもう消え去ったはずだと思うかもしれない。

だが、『宗教』という世界規模では9割以上の人を包摂する、人類に特異な信仰・信念・倫理性というものも『人間の死・有限性の想像力による克服』の結果であり、現在でもイスラム教やキリスト教の『最後の審判・死後の復活』といった教義を真剣に信じていて、俗世・現世の生活を『仮りそめのもの(来るべき神の世で審判される徳を積むためのもの)』と認識している人は少なくない。

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所得税の個人課税から世帯課税への転換・配偶者控除の廃止の検討

安倍政権が所得税の税制改革で、課税単位を『個人』から『世帯(夫婦+働いている子など)』に転換したり、『子の扶養控除の積み増し』を検討しているという。女性の社会進出や就労率の向上が目的とされているが、累進課税制の所得税では『夫婦の所得合算に対する課税』は個人で納税する時の税率よりも税率が上がり、『実質の増税』になる可能性が高い。

195万円以下の所得に対する所得税は5%であり、個人単位なら課税所得が180万円同士の夫婦なら各自5%の所得税(合計18万円)だけで済むが、世帯単位で合算するなら年収360万となり20%の税率が適用されること(72万‐控除の427500=合計292500円)にまで増税されてしまう恐れがある。

また、従来は主婦や学生が単発のアルバイト(お小遣い稼ぎ)を繰り返しても年収38万円以下なら申告義務がなく無税であるが、世帯単位になると38万円以下(給与所得者の20万円以下)の小さな収入でも合算されて課税され税率が上がる可能性も出てくる。夫が年収400万だとしたら、世帯収入が438万とみなされるかどうかは分からないが(納税義務が生じる最低所得金額は個別に38万円で据え置かれる可能性もある)。

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予算(お金)はあっても使い切れない、仕事はあっても雇い切れない。

更に、モノはあっても売り切れない。これらは日本が直面している『豊かさの中の貧困・近未来の人材不足(人口減少)・価格競争(ダンピング)と平均所得の下落(中流崩壊)・仕事と消費の選好(選り好み)の強さ』を予見する現象である。

行政は収税と公的事業に『一切の無駄がないという建前・予算を減額する余地がないという組織の論理』によって、予算を使い切ることに対する半ば強迫的な義務感を持つことが常であり、予算が余って積み上がっていくことはなかなかなく何らかの公的事業・インフラ整備・備品購入などで調整される。

使い切れぬ復興予算 事業進まず基金化3兆円 被災3県

だが、岩手、宮城、福島の3県と各市町村の『震災復興事業』では市町村の復興ビジョンやそのための具体的な工程表・仕事の割り当ては描けていても、その実務を担って必要な予算を使う職員と労働者の絶対数が不足しているため、復興基金のお金だけが積み上がっていく。

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STAP細胞の追試不調と科学的研究の再現性:小保方晴子さんの論文の不備とは別に“STAP細胞”は本当に作製されたのだろうか?

STAP細胞(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency cells:刺激惹起性多能性獲得細胞)は、その作製方法と多能化が実証されれば、細胞生物学の既存の前提を覆して、iPS細胞よりも作製効率が良く応用範囲の広い万能細胞につながる世紀の発見となる。

だが、『Nature』掲載後に、他の科学者が同じ手順で実施した追試では、STAP細胞の作製に成功する実証事例がまだでていない。そのことから、STAP細胞の実在を疑う声が出始め、論文に掲載されたSTAP細胞の分化の瞬間の写真が、過去の小保方氏の博士論文に使われていた写真の使い回しだったことも明らかとなった。

過去に書かれた論文についても、写真の使い回しについては、ハーバード大の共同研究者であるチャールズ・バカンティ氏は、注意不足による単純ミスで研究の結果そのものに影響はないと自己弁護したが、その後も『過去の写真』に変わるべき『現在のSTAP細胞の分化の写真』は再提示はされていない。

共同研究者の若山照彦氏(山梨大学)が『小保方氏のいない実験室ではSTAP細胞の作製が一度も再現できない(細かな作製手順のコツの指導は小保方氏から十分に受けている)・STAP細胞の存在に確信が持てなくなったため論文の撤回をすべきではないか』といった自らの研究結果に対する自信を喪失したような発言をしだしたことから、STAP細胞作製の研究計画そのものの杜撰さや結果の確認の不手際(本当にSTAP細胞へと変質したのかの確認の不十分さ)、科学論文の構成・証拠の不備が強調される形となった。

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