普通自動車免許はAT限定とMTのどちらを取得したほうが良いか?

免許取得の費用は大して変わらないので、MTの普通免許を取得しておいたほうがどちらも乗れて便利だが、実際、会社のMT車に乗る必要が皆無なら、自分で購入したりレンタルしたりする車でMT車に乗る機会は殆どないかもしれない。

普通自動車免許はATかMTかどちらを取得するべきですか?

MTのスポーツカーなどが好きな人は初めからMTの普通免許を取得するだろうが、免許取得だけでその後10年以上など長期にわたってMT車を運転していなければ、いずれにせよスムーズな運転のために練習は必要。自分も何年ぶりかにMTの軽トラを運転した時、ハンドルの軽さもあるが乗りづらかった経験がある。

MTとATの最大の違いは、クラッチ操作やエンスト(ぎこちない動き)の有無と発進・微速・バックの手間。ATのようなクリープ現象がない事を、安全と取るか便利と取るかがMT好きかどうかの違いでもある。車ごとのクラッチ感覚の馴れがない人は、クラッチのつなぎと安全確認に注意が分散するのでATより危険な事がある。

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エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学と他者の『顔』からの呼びかけが生む倫理・意味・限界:3

レヴィナスは他者との対峙や対話が生み出す倫理の起点を『汝、殺すなかれ』の根本規範に求めており、『他者の顔』と向き合って語り合おうとするものは決してその人を殺せないが、『他者のカテゴライズされた観念(敵対者・犯罪者・異民族・異常者として分類された実際に顔を見ないままの他者)』だけを頭の中で考え続ける人は、戦争・虐殺・殺人(重犯罪)・処刑・監禁拷問・放置(見殺し)などあらゆる残酷な行為を他者に対して行うことが潜在的に可能であるとした。

能力的には殺せるのに殺さない(『顔(相手の人格・背景)』と向き合った相手を殺したくないと思う)のが人倫の基盤であり、現実的には見捨てていっても良いのに見捨てずに援助するのが人間性の発露なのだというのがレヴィナスの倫理学的思考であるが、その根底には原始的時代における『カニバリズム(人肉食)の禁忌』という文明的・人倫的な感受性の芽生えが置かれている。

その人倫・人間性を信頼できなくなった人間は、類似した価値観や生き方を持つ仲間集団から外れた異質な他者を排除しようとする『全体主義の暴力機構(管理・支配・懲罰のシステム)』を自ら作り上げていくとした。更に現代では『機会の平等の前提・結果から類推される能力や努力の高低』によってすべてが自己責任(自業自得)として帰結されたり、かなりの人が『他者を助ける余裕がない存在としての弱者意識(被害者意識)』を持つようになったことで、他者の顔と向き合うことにある種の恐れとプレッシャー、煩わしさを感じやすくなった。

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エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学とエゴイズム・逃走の欲求:2

自由で豊かな人間は自らの有限の運命・能力を否定しようとして『逃走の欲求』を抱き、倦怠・怠惰に陥りやすくなるが、それでも人間存在(動物としての人間)を根底的に束縛している自然法則や生存本能や摂理・運命といっても良い『契約』を破棄することはできない。

確かに、自殺を選んでしまう人(身体的精神的な苦痛に打ち負かされる人)もいるが、自殺は『自意識を持った人間に科せられた契約』への回答にはならず、自意識や認識世界そのものも消滅させてしまう『ルール自体の違反』であり、私が私であるという自意識の元で『生の持つ意味・価値』の葛藤を解消することとは何の関係もない。

この世界に生み出されて投企された人間は、いくら自由で豊かになろうとも、『否定したはずの運命』に本能・自然・有限性・倦怠(実存的疲労)によって再び捕捉される運命の下にある。

無限性の神を科学と理性で否定したからといって、人間が傲慢にも無限性を帯びるわけではないというレヴィナスの洞察があるわけだが、レヴィナスは人間の人生は倦怠や疲労を感じていても、自分には生きるのが億劫でつらいといっていても、それでも幸福であることに変わりがないと断言する。

享受とは仏教的な『知足』と言い換えても良いが、自分が太陽光を始原とするエネルギーを享受すること、自分と自分以外の他者の労働・行為などを享受して生きていること、何もしなくてだらけていても何もしない状態を享受していることそのものが、何ものも享受できなくなる強制的な生の終了よりは幸福だと合理的に考えられるからである。

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エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学と現代の生きづらさの要因:1

平和で豊かな現代社会において『生きづらさ・生きる大変さ』を訴える人は多いが、その事に対して『貧しくて自由のない昔の時代のほうがもっと大変だった・世界にはもっと悲惨で貧困な地域が多くある』という反論が出される事も多い。

実存哲学の系譜につらなるユダヤ人のエマニュエル・レヴィナス(1906-1995)は、この第二次世界大戦後の先進国の人間が陥りやすい精神的危機を表現して、『逃走の欲求』と『無数の人生の欲求』という二つの概念を提起した。

自由な人間によって構成される物質的な豊かさと情報的な娯楽で溢れた現代社会は、過去に死んだ人間が甦れば、その外観は(社会適応・稼得能力や資産などの問題はあるが)概ねユートピアの様相を呈している。

だがレヴィナスは飢餓や束縛、運命による強制的な死(不自由)の鎖から解き放たれた人間は、『倦怠・怠惰・疲労』という実存の三重苦と戦わなければならなくなったという。必死に働いたり動いたり考えているから疲れているのではない、何もしなくても初めから疲れている、存在そのものに倦怠するのが現代人という独特の発想である。

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安倍政権の経済成長戦略(法人税引下げ)と集団的自衛権の議論

経済成長戦略としての『規制緩和・法人税率の引下げ』は、日本企業のグローバリゼーションへの適応力と競争力(それを反映した株価)を高める側面と、外資・外国企業を日本市場に引き付ける側面とがあるが、基本的には上場企業の内部留保の余裕による賃金のベースアップと株式市場へのインパクトとして効果が現れるだろう。

また、規制緩和と法人税率の引き下げは、『TPP(環太平洋経済連携協定)』を前提としてグローバリゼーションへの適応力を最大化しようとする政策であり、必ずしも日本国内の労働者の所得・生活の改善を目的にしているわけではなく、国内資本と海外資本の相乗作用と競争強化による市場活性化(最終的には各国の人材間の相乗作用・競争環境構築も考えられるが)に主眼がある。

業績の上向いている上場企業(輸出産業)を中心にして確かに賃金は上昇しつつあるが、『物価上昇率・消費税増税』と『企業規模・雇用形態による賃金格差』との兼ね合いによって、日本の労働者の生活実感が全体的に上がってきているという楽観はできない。

人口減少社会や若者のバイト敬遠(正社員志向)、仕事の選別性などによって、飲食・販売などのアルバイトでは賃上げをしても人材不足が深刻化している。今後もアルバイト応募者が急激に増大する見込みが立たず、単純なマンパワーの量的な不足が経済成長要件を阻害する恐れも強いが、『女性・高齢者の労働力活用』という労働供給問題の改善策に効果が見えるかどうかも鍵となる。

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映画『悪夢ちゃん The夢ovie』の感想

総合評価 84点/100点

これから起こる事件や出来事を夢で見ることができる『予知夢の能力』を持つ引っ込み思案な小学生の古藤結衣子(木村真那月)と、サイコパスっぽい部分もある先生の武戸井彩未(北川景子)を中心にしたコメディサスペンス。

ドラマシリーズからのスピンオフだが、個人的無意識が夢に投影されるとしたジークムント・フロイトや集合無意識(普遍的無意識)が夢のイメージや元型になって現れるとしたカール・グスタフ・ユングの『夢分析の理論』を前提にしながら、コミカルタッチの推理小説のような面白さを持つような展開が考えられている。

クラスにやってきた転校生の渋井完司(マリウス葉)を、みんなが転校してくる前から夢で見たことがあるといって騒ぎになる。大人びた雰囲気の渋井完司はすぐにクラスでリーダー的な役割を果たすようになり、父親(六角精児)が路上の屋台でほそぼそとハム巻を作っている女子生徒の井上さんをみんなで応援して、そのハム巻を大ヒットさせ店舗を持てるまでに発展させていく。だが、そこには『成功させてから突き落とす(個人の努力で運命を変えることなどできない)』という渋井の自己理論の証明のための策略があった。

クールなイケメンの渋井は、“悪夢ちゃん”こと古藤結衣子の夢に、理想の男の子の象徴である『夢王子』として登場してくるが、この『夢王子』の原型は武戸井先生の夢にでてきていたGacktが演じる夢王子である。夢を研究する心理学教授である古藤の祖父の下で、野心的な助手を勤めていたGacktは、ドラマ版で古藤結衣子の父親であることが明らかにされている。そして映画版ではそれ以前のクールなキャラから転じて、結衣子との父子関係を自然に認めてふれあいを楽しんでいたりする。

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