相手と醜い言い争いをしているとき、相手にされたことを自分も同じようにやり返したいという復讐心を示したときに、『相手と同じ低いレベルに落ちてしまうという認識』からそれをやめようとする人がいる。
自らに相応の知性・教養が備わっていると自負する者が、『酒・女・博打・あぶく銭のみが共通の話題のカルチャー』になっている集団社会や人間関係に投げ込まれたとき、『自分はこんな場所にいるべき存在じゃない・自分の内面や知性が認めてもらえない環境は苦しい』などと悲嘆することもあるだろう。
一般的な人間関係でも異性関係でも、いくら内面(人間性・知性)を磨いても、その内面を正しく評価できるだけの認識や感受性を持った相手に見てもらえなければ、自分が思うような評価は受けられないのが常である。
結果、世の大勢の人は『置かれた環境・周囲の人間・共通の話題・支配的なカルチャー』によって自分自身の知性・世界観を錬磨するモチベーションを失っていき、ある種の階層分化の中で自分を曲げないもの(場や相手に見合ったレベルの自己像を提示して打ち解けないもの)は適応を失っていくことにもなる。
人間の人間に対する評価の仕方(ある人の知性と認識の器の上限を越えて他者を見ることができないこと)について、人生哲学のアフォリズムを多く残したアルトゥール・ショーペンハウアーは次のように言う。
“誰でも己を越えて他人を見ることができない。すなわち人は誰しも自分自身と同じ大きさで他人を見ているのだ。それというのも人は自分の知性の尺度に従って他人を捉え、理解することができるだけだからである。ある人の知性が劣っていれば、他人のどんなに素晴らしい精神的素養、それが最高に優れている素質であっても、その人には何の働きかけもできないで終わるだろう。そんな人は優れた素質の持ち主にあってもその優れた人の個性の中の最も程度の低いもの、すなわち弱点や性格、気質上の欠陥以上のものを見ようとはしない。優れた人といえども、こんな連中にとっては単なる欠陥の寄せ集めに過ぎないということになる。”
続きを読む アルトゥール・ショーペンハウアーの言葉から見る“人間に対する人間の評価+世俗のカルチャー(俗悪の欲望系)に合わない自己像との向き合い方”