“元少年A(酒鬼薔薇聖斗)”を名乗る人物のサイト開設とこの人物のパーソナリティーのどうしようもなさ

『神戸児童連続殺傷事件』を起こした犯人かどうかの真偽は不明だが、『元少年Aの犯行・心理・嗜好・読書歴』と共通していそうな要素を感じるグロテスクかつナルシスティックなコンテンツが掲載されたサイトではある。

神戸連続殺傷事件「元少年A」名乗るサイト開設 自己紹介やイラストなど掲載

作者が偽物だとしても、相当この事件と加害者の心理・履歴・著作などに興味のある人物なのだろうか。こういった思弁的・言語的な自己陶酔(自己顕示)に耽溺していく型の文章には個人ごとの癖や特徴がでやすいから、元少年Aの『絶歌』を読んだ人であれば(私は未読だが)文書の類似性を何となく判断はできるのかもしれない。

本人だと仮定すると、『存在の耐えられない透明さ』というサイトのタイトルが、少年時代に起こした事件の犯行声明文の自己規定や犯罪の動機と重なってくるが、酒鬼薔薇聖斗と名乗っていた加害者は『他人から自分の存在が透明になっていて見えていない(この世界に自分が実在していないという透明な存在感覚)』によって殺人事件を犯したのだと告白している。

その透明な存在感覚や目立つ騒ぎを起こすことで承認されたい自己顕示欲(人格の演技性)が今もまったく変わっていないのであれば、『精神病理・反社会性パーソナリティーの根本部分』は矯正することができなかったとも言える。

犯行声明文で元少年Aは『ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として、認めて頂きたいのである』と書いているが、元少年Aの自己の存在感や承認欲求の異常な偏りは、『猟奇的・劇場的な犯罪行為を介して“あなた達”と呼ぶ“無関係な第三者(世間一般の仮定的他者)”に自分の存在を押し付けるように見せようとしていること』である。

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中絶は、他者や法から非難されるべき罪悪か?:普遍主義とパーソン論から考える

僕はキリシタン(カトリシズム信奉者)でも生命至上主義でもなく、人工妊娠中絶(堕胎)に関しては『パーソン論に基づく合理的な容認論』の立場を取るので、中絶を社会的・倫理的な罪悪として非難することはなく、そこに至る他人の個人的な経緯や理由にも関心はない。

中絶女性に「許し」を、ローマ法王が全司祭に権限認める

自分が男性であるため、自分が妊娠して中絶をする当事者にはなり得ないこともあるが、自分が養育のお金を出すわけでも子を責任もって育てるわけでもない『他人である女性の妊娠・出産』に関して、何らかの強制力のある規範・善悪(罪悪感)を押し付けたいという感情や判断を初めから持っていないというのに近いかもしれない。

出産するかしないかは、子を宿す母体を持つ女性(結婚して共に子の扶養義務を負う覚悟と能力のある相手の男性の意見も考慮すべきだが)の自己決定権に委ねるべきである。

それは、実際に自分の身体で妊娠して出産する女性本人以上(本人と密接な関係性にある相手・親族など以上)に『産むべきか産まないべきかについて真剣に悩み考えられる主体』はいるはずもないからである。

なぜ中絶を強制的に禁止すべきでないのか、『望まれずに嫌々ながら産みだされる子供』は、その母親の出産時の心理を知ってしまえば自らの出自に相当に重たい否定感情や罪悪感を背負いこむことになるからである。

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