明治の廃藩置県に至るまで、島津家が長らく支配した『薩摩藩(現鹿児島県)』は、戦闘(剣術)に強い剛毅な武辺者(薩摩隼人)の集団として恐れられた。島津斉彬・西郷隆盛の軍備近代化と命知らずの薩軍の切り込み部隊(暗殺集団)によって、幕末の薩摩藩は長州藩・土佐藩・肥前藩と結んで『倒幕』の中心勢力となって時代を変革した。
1877年(明治10年)には薩軍は西郷翁を担いで無謀な反政府の『西南戦争』を戦って散ったが、刀剣でぶつかり合って戦う白兵戦では薩軍は官軍(政府軍)を圧倒し、局地戦では薩軍の狂気的な切り込みと血煙にひるんだ官軍の雑兵がぶつからずに逃亡することもあった。薩軍の精鋭兵の大半は、薩摩藩のお家流儀の剣術である『示現流(じげんりゅう)』の使い手であったが、示現流は幕末の京都でも他流派の免許皆伝をすれ違い様に一撃で斬り殺すなど、殺人剣として知られた剣術であった。
ゲリラ的な薩軍の切り込み部隊の決死の突撃によって、近代装備で武装した官軍の兵士は蹴散らされてかなりの死者を出したが、逆説的に薩軍は『銃砲の近代装備が不十分で兵員が少なくても、百姓兵など剣で蹴散らして簡単に勝てる(大半はびびって逃げ出す)とのうぬぼれ・農民軽視の身分意識』から大敗を喫したともいわれる。
西南戦争は客観的に見れば、熊本城などの守備堅固な要衝が西郷隆盛・陸軍大将の権威によって無条件降伏を続けない限り、兵員数の違いによって薩軍に勝目はなかった(結果として明治政府から官職・任務を賜った谷干城中将をはじめとする将軍は西郷大将の恩顧・権威よりも公式の政府命令に従って装備の弱い薩軍を賊軍として打破した)。
薩軍の有力将校である桐野利秋(きりのとしあき)などは竹竿を振って、『このひと振りで熊本城など簡単に落とせる』と現実無視のむなしい大言壮語をしたともいわれるが、この桐野も伝説的な示現流の達人とされる。幕末に『人斬り半次郎(旧名・中村半次郎)』として佐幕派の要人を何人も斬殺した履歴を持っている。中村半次郎はターゲットを定めた場合に、暗殺を失敗することがなかったとされる瞬発力がものをいう抜き打ちの名人で、すれ違いの歩調を変えずに鋭い抜き打ちを複数回放つことができたという。
薩摩の示現流は、敵の太刀捌きを読んで冷静に動くようなテクニカルな剣術ではなく、太刀行きの迅速さと正確さ、決死の覚悟(チェストに代表される絶叫的な気勢)を徹底的に磨いて、先手必勝とばかりに凄まじい一撃で相手を袈裟に切り下げて葬る剣術である。
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タイトルは厳密には、モテない男の『生存戦略』ではなく『生殖戦略』とすべきであるが、生存戦略とは個体の生存確率を上げる方法であり、生殖戦略とは異性を惹きつけて子孫を残す生殖確率を上げる方法である。
自然界の動物を例にして、弱肉強食や優勝劣敗の生殖戦略が成り立つかというと、ヒトでは特に自意識が肥大した近現代のヒトでは『結果重視の生殖(子孫を残す数)の優先度が必ずしも人生の最上位になるとは限らない』という意味で当てはまらない部分が多い。またヒトの男女関係は結婚制度の縛りがなければ『一夫多妻・乱婚との整合性(一夫一婦の平等主義の皆婚が自然ではない要素)』も持つが、『わずかな優越者(支配層)だけが子孫を残すハーレム型』にまではいかないだろう。
そもそも論から言えば、人間の男女の性選択は『男性の財・権力の庇護と女性の性(出産含む)・美の慰撫を交換する非対称的な原理』から始まっており、その基盤には常に『階層・身分・家柄・地域(居住地の周囲)による分相応な相手のカテゴライズ+結婚・出産の社会的強制性』があったわけで、単純な美貌・能力・コミュニケーション効果を比較するような性淘汰が、個人ごとの優勝劣敗の結果としてヒトにかかった時代はほとんどないのである。
美人やイケメンばかりが大量の子孫を残してきた時代はないし、権力者や富裕層だけしか子孫を残さなかった時代(権力・財力のある男の子孫の数は多かったかもしれないが、強い権力のある天皇家・将軍家・大名家でも生物学的原因などで子の少なさが問題になった例は多い)、労働者・庶民階層・貧者が子供をまったく作らなかった時代もない。
ここ数十年間の身近な状況を見るだけでもそれは明らかであり、結果としての子孫の有無や人数には、『安定所得層(公務員・大企業社員など)ほど婚姻率・有子率が高い統計的な偏り』はあっても、『厳格な意味での個体ごとの弱肉強食・優勝劣敗の原理』は強くは働いていない。
貧困層・犯罪者・病者・非美形の者でも子孫は残し得るし、実際に残しているわけで、単純に『不特定多数にモテる要素や条件を持たない個人が生殖戦略に失敗する』というのは人間社会には当てはまらない。
そもそも大多数の男性は外見・性の魅力がそれほど強くないので(進化のプロセスにおいて男性の外見・性の魅力が財力・権力・労働といった生活力よりも軽視されてきたので)、何もしなければ若い時期でも不特定多数の女性(特に大勢がいいなと感じる競争のある好みのタイプ)からはモテないのが普通である。
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李斯(りし)は情状を関与させない『法律』によって厳格に賞罰を規定する『法治主義』を、秦の始皇帝が支配する絶対君主制の下で初めて実現した法家の英才だが、後世の人物評では始皇帝死後の変節・醜態、哀れな末路によって士としては余り評価されない人でもある。
李斯は楚の庶民・微賎の官吏から秦の宰相にまで上り詰めた立身出世の人でもあるが、若い頃に『便所にいるネズミ』と『穀倉の中にいるネズミ』を比較して、同じネズミであってもいる場所によって飽食か飢えるかの境遇に天地の開きがあるとして、人間の賢愚の区別・境遇の良否も『能力・才覚』以上に『環境・コネ』で規定されるとして、楚を離れ大国の秦に赴いたという。
李斯の原点は、大国の権力者に取り入ることによる貧困・卑賤からの上昇志向であり、そのためには軍事的・法的な手段を選ばないというリアリズムに強みがあった。歴史・地理・帝王学に明るく弁論術において、諸子百家の遊説家の中でも一段抜けた才覚の持ち主であった。秦王(後の始皇帝)に対して『古い周王室の権威など無視して諸侯の国の降伏も許さず、一気に武力で滅ぼして秦に併合すべき(息の根を止めなければ再び諸侯が連合して秦に抵抗してくる)』と進言して、始皇帝の全国統一への道筋をつけた。
破格の出世街道を驀進する李斯は、他の重臣や将軍からのやっかみや怨恨を受けて誹謗讒言もされるが、始皇帝の全国統一後にその身分は人臣最高の宰相に任じられ、『始皇帝と自分以外のすべての諸侯・重臣の実権』を法律によって剥奪しようとした。李斯は秦の全国統一を永続化させる計略として、日本の豊臣秀吉の刀狩りや徳川家康の改易・お家取り潰しのような政策を行って、秦内部の郡県の城壁をすべて破壊し軍隊を解散させ、刀剣を溶かして武器を大幅に削減した。
李斯は王族・功臣に大きな封土と権限を与えて忠誠を誓わせる『封建制度・諸侯制度』も否定して、天下のすべての土地と人民は皇帝一人に帰属し、皇帝の子弟・血族・重臣といえども一国の主に等しい諸侯のような地位につければ謀反の危険(皇帝の実権喪失の恐れ)が高まるとした。
李斯の封建制度廃止に反対する臣下からは、『古代の殷・周の王朝は恩義と領土を与えた王室尊重の子弟・功臣によって千年以上も存続した(忠誠を誓う諸侯は王室の守りとなる藩屏である)』との意見も出たが、始皇帝は李斯の提言を採用して自らの子弟・功臣にも諸侯封領を与えなかった。皇帝が子弟・功臣をも奴隷同然として粗略に扱い、恩義と忠誠心を軽んじたことは、秦王朝がわずか二代で虚しく崩壊する原因(亡国の危機にも誰も立ち上がる重臣・将軍がいない)にもなった。
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