女は「若さ・顔」、男は「カネ・地位」は一般論だが、現実の選択では「自分の持つモノに見合った相手」なら大半の人は何度かは機会があるものだ。自分を受け容れてくれた相手に専心して感謝できるかどうかの違いが大きい。
女って結局顔なの…?見た目の重要性について男性に意見を聞いてみた http://mixi.at/agBmRw1 10月30日)
顔か性格かの二元論ではなく、現実的に選択可能な好みの異性で、「一緒にいて楽しいか・相手も自分に興味や好意を持ってくれるか」によって8割方は異性選択は決まってくるわけで、性格の良し悪しも相手が自分をどのような存在として受け容れてくれているか、お互いにどのような影響を与え合っているかに多くが左右される。
確かに、女性全体や男性全体をフラットに見渡せば、芸能人並の美人や可愛い人で尽くしてくれるようなタイプの人がいるかもしれないし、イケメンで資産数億円以上の高所得者で奥さん一筋の誠実な人もいるかもしれないが、そういった人でなければ絶対にダメな人はまずいない。自分側に見合うものが無いと分かっているものだ。
そういった諸条件において己を知り、相手を知った上で「縁・機会」が生まれるわけだが、「自己に対する過大評価・過小評価」や「相手のニーズや自己評価の読み間違え」によって多少のバランスのズレは出てくる。「美」というのは哲学のサブジャンルで美学があるように、深く考察すれば終わりがないものだが。
なぜ現代で「見た目・顔の造形」が重視されるようになってきたのか、端的には「身分制度の崩壊(食べるだけで精一杯の貧困層の減少)+経済発展による生存淘汰圧の低下+視覚メディアの普及」によって、一般大衆のセンスや美の快的刺激が貴族化したからだと考えられる。
美人やイケメンというのは、前近代では王侯貴族の恋愛や性、観賞の楽しみ・慰めにはなったが、一般大衆や農民にとっては直接的な生産性をもたらすものではなかったから、それほど極端に評価されるわけではなかっただろう。土に塗れて働くわけで、おしゃれや化粧もないから着飾って上品ぶって美観を競う文化そのものがない。
芸能界や風俗業界、アニメなどに代表される不特定多数の美人・イケメンを対象にしてあれもいいこれもいい、見ているだけで癒される云々は、お金持ちの芸術趣味や愛人文化と同じで「労働者的」ではなく「貴族的」で、地道な生活に根を下ろしていない。その意味で現代の若者の大半は貴族的センスに近づき、実力が伴わず悩む。
極論すれば、現代のメディア文化や芸能・風俗のビジネス、インターネット文化(インスタなどの写真メインのSNS)は、裕福であろうが貧乏であろうが、美貌があろうがなかろうが、ビジュアリズムや快的刺激の精神的貴族文化・趣味に巻き込んでしまうところがある。若者であれば一度は必ず洗礼を受けるモードとなった。
プロレタリア階級の労働者という実態は、現代の格差社会でも残っているのだが、現代人は相当に貧乏でブラック企業に圧迫されていても、「私はプロレタリア階級であり、企業・資本家の持つ資本による支配に抵抗してやる」といった自意識はない。階級分化や資本の暴力はあるが、「階級対立を生む自意識・抵抗」は消えた。
美人・イケメンなどが商業主義や恋愛市場でもてはやされるという現代のモードは、昔の左翼からすれば「ブルジョア的(僕がいう精神的貴族趣味)」かもしれないが、現代社会には経済格差はあっても「ブルジョアかプロレタリアートかの自意識の分裂・階級意識」はない。美と能力と資本の競争モードはフラットで個人帰属的だ。
○ユングが「中年期の危機」を語った20世紀前半の時代より、平均寿命が延びて雇用所得と老後の格差が広がり、家族の数が減った(単身高齢者増加)。その変化・個人差を踏まえ、人生の正午を過ぎた緩やかな下り坂をどう歩き抜けるか。
中年世代が陥る! 「ミドルエイジ・クライシス」の乗り切り方 http://mixi.at/agASPS4)