映画『ワイルド・スピード EURO MISSION』の感想

総合評価 80点/100点

パワフルなエンジンを搭載した最新のスポーツカーから往年の名車、大排気量のビッグバイクまで登場して、はちゃめちゃな生きるか死ぬかのカーアクションを展開しながら『お宝の奪取・目的の達成』をしようとするドミニク・ファミリー(ドライビングテクニックを活用する国際的な強盗団)の活躍を描いたワイルド・スピードシリーズ。

『ワイルド・スピード EURO MISSION』ではそのタイトルの通り、イギリスのロンドンをはじめとした欧州が舞台となっているが、本作のミッションは『お宝・現金の獲得』ではなく、FBIのホブスが約束する『当局からの恩赦(今までの犯罪行為の無罪放免)』が目的になっている。ドミニク・ファミリーのリーダーであるドミニク(ヴィン・ディーゼル)と元FBI捜査官で一味に加わったブライアン・オコナー(ポール・ウォーカー)、その他の仲間たちは、前回の大仕事を終わらせて大金を得たことでそれぞれの穏やかな生活を送ろうとしていた。

ブライアンはドミニクの妹ミア(ジョーダナ・ブリュースター)との間に子供も生まれて、ドミニクはブライアンに危険な犯罪の仕事から足を洗って新しい人生を生きるようにと勧めている。使い切れないほどの莫大な財産を手に入れ過去を封印して、南の島でバカンスめいた日々を送るドミニクやその他のメンバーだったが、そこにFBI捜査官ホブスが現れ、『軍用品の強奪を続けるオーエン・ショウ一味の逮捕』に協力して欲しい(協力しなければドミニクファミリーの過去の犯罪で逮捕する)と要請される。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:3

近代のロマンティックラブ・イデオロギーほどの熱烈で狂気的な恋愛は、安定的な結婚・生活の次元にソフトランディングしてずっと良好な関係が続かない限りは、別離や孤独に耐えられないメンタリティのために、『殺人(心中)・自殺・ストーカー・身の持ち崩し(無職化・ホームレス化)』などのラディカルな悲劇・自滅(他害)に結末することになる。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

世界大戦後の後期近代の物語の主軸は『恋愛・結婚・家族』であり、人によっては好きな異性と結ばれて熱烈な恋愛をして安定した結婚をして家族を築いていくというのが『人生における最大の価値(それがなければ生きている価値が殆どなくなってしまうもの)』となり、『パートナーのいない人生(パートナーや家族から切り捨てられて一人で生きていく現実)』に本当に耐えられずに正気を失ったり犯罪行為にまで逸脱していく人(犯罪をしなくても自殺・無気力化・ホームレス化も含め)もある程度は出てくる。

生涯にわたって安定的に帰属できる伝統的共同体を喪失した現代人にとって、『孤独・愛情不足』は大半の人にとってかなりの心理的ダメージとなるのは確かであり、『男女関係・家族関係のトラブル』をそんなことくらいで犯罪や自滅的行為に走るのは心が弱いからだと安直に言い捨てることはできず、『異性・家族・仕事・金銭・地位・意欲を持てる活動(学び)』などの俗世的な価値や承認の要素のすべてを失ったと感じる時には、人間の精神は意外なほどの脆さを持って壊れることもあるからである。

バタイユは恋愛は肉体の結合に加えて精神の結合をも目論む『不可能性の追求(失敗に終わる企て)』だとして、恋愛は必然的に苦悩の原因にもなるとしたが、『完全な孤独を回避したい人間の本性』が、苦悩につながるとしても恋愛的な『自己を特別に承認してくれる他者』を求めずにはいられなくするのだと語った。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:2

暴力と無秩序な性は、今日(今すぐ)ではない明日の収穫(快楽)に期待する生産的労働によって生存を維持する共同体の存続を危うくするが、『労働・協働の時間』は原始の人類の意識と関心を『動物的な暴力・性』から次第に引き離していったのかもしれない。あるいは動物的な暴力・性ばかりに明け暮れて労働に関心を持てなかった原始共同体(非生産的・本能従属的な部族)は、他の生産的で協力的な共同体から討ち滅ぼされて絶滅への道をたどっただろう。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

十分な理性と自己規律(自律性)を備え始めた近代以降の教育を受けた人間は、『労働抜きの暴力の禁止』を受け入れ始めた。だが、近代以前には『小人閑居して不善を為す・働かざる者食うべからず』といった宗教的格言が示すように、『直接的・即時的な欲望を自制できない(教養・倫理・自尊の軛が不十分な教育や哲学的陶冶を受けていない)個人』に対しては、労働(その多くは思考力を奪う単純肉体労働)によって本能の欲望を遷延させたり時間的余裕を制約したりするブレーキ(労働で疲れることにより時間・欲望の余剰を暴力に転換できなくする生活リズム)が必要だったのである。

暴力と性の本能のすべてがなくなったわけではないが、ホモ・サピエンス・サピエンスとは『本能を部分的に破壊した特殊な動物』としての側面を持っている。ジョルジュ・バタイユや日本文化(個人体験)に対応する精神分析を研究した岸田秀は、妊娠出産を目的としない性行為のほうが主流となった人間を『本能が壊れた動物』として再定義し、エロティシズムについても『動物的・本能的な子作りにつながる性』から遠ざかれば遠ざかるほどに、人間は性的に興奮する特殊な性癖を獲得したという持論を展開した。

バタイユはエロティシズムの本質は『禁止と侵犯』にあるとして、『性(誕生)と死の類縁性』を指摘した。『禁止・禁忌』はそれを破った後にある背徳的な快楽や社会超越的(全能的)な栄光と裏表の関係にある。人間にとっての性行為も『禁止(わいせつ・羞恥・性道徳・動物的堕落の嫌悪など)に対する侵犯』によって興奮する仕組みを持ち、『あからさまな解放・制限や選り好みのない性(いつでも自由に行為ができるという日常性・秩序性)』はエロティシズムの魔術的な魅力を失わせてしまうという。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:1

人間と動物を隔てるものとして旧石器時代後期(10万年以上前)に生まれたのが『死のタブー』であり、その具体的な現れとして『埋葬(葬儀)の慣習・死者への畏れ』が出現し、太古的な宗教感情の原点となった。自身と他者がいつかは必然に死にゆく存在であるという有限性の自覚、死ぬこと(=現世からの自我の消滅)が恐ろしいという感情は、人以外の動物には見られない。

人間は『死のタブー(死の自覚と禁忌・死の怖れと畏れ)』ゆえに、動物としての本能を薄められて、計画的な人生設計(死後の世界への夢想)を立てなければ不安で堪らないという呪縛に絡め取られた。『有限の生の意味と価値』を少しでも実感したいという儚い執着が、共同体(国家や民族)・宗教祭祀・子孫繁栄・進歩的世界観などの『観念的構想物による救済物語』を産み出していった。

文明社会や科学技術、経済成長が実現してきた快適さと豊かさ、新しさ、官能は『胡蝶の夢』のような刹那の喜びを私たちに与えてくれ、『いつかは無に帰すという宿命性』を忘れさせてくれながら、個人としての力感を回復させてくれる。私の人生や知性、感情はナンセンスなものではないのだというエンカレッジの呼びかけとなって。

『私が滅びた後にも“私の何か(子孫・作品・文明・国家・民族・思想・宗教など)”が永遠に続いていく』という信念によってニヒリズム(虚無)の暗渠を人類は飛び越えていき、本能を抑制する人間的理性によって『労働(生産的協働)』と『社会形成』を可能なものにした。人間の理性は原始・古代から中世、近代から現代にかけて留まる事なく伸長してきたが、理性は人間集団の本質を『本能の禁止』と『労働(生産)の規範』に導いていき、禁止される本能とは直截に『死(暴力)』と『性(生理的快楽)』を意味していた。

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公共交通機関(電車・バス)でのベビーカーの利用と『ベビーカー優先マーク』

赤ちゃんや幼児の年齢にもよるが、誰であっても一人だけで『自分で身動きできない0~1歳頃の赤ちゃん』や『次の行動が予測しづらい(十分に言葉の指示が通用するとは限らない)1~3歳頃の幼児』を連れて外で行動するのは不安だし大変なものである。

電車・バスに小さな赤ちゃんを連れて乗るというだけで、力のある男性でも少しげんなりするというか、混み合っている状況では一人だけでスピーディーにベビーカーを移動させたり折りたたんだりすることはしづらいだろう。ベビーカーを折りたたんだり開いたりの動作がもたついたり、子どもの安全確保に不安を感じたりすることもあるだろうし、周囲に迷惑をかけてはいけないということが気になって余計に動作がぎこちなくなる場合もある。

そもそも赤ちゃんがまだ小さくて自分で安定して立てない年齢なら、赤ちゃんを抱っこしながらベビーカーを折りたたむということになるから、相当な腕力がなければ男性でも難しいし、押し合うような感じで車内が混み合っている状態だと、物理的に抱っこ・おんぶなどはできないのではないだろうか。

道具を使わず自分の腕だけで抱っこしたまま電車に何十分間も立って乗り続けるのは困難だから(腕の力が足りなくなって落としたりのリスクもあるから)、基本的にはベビーカーに乗せたままのほうが安心・安全だということになる。ベビーカーを使わずに抱っこしなければならない状況なら、母親(父親)が座席に座って膝の上で抱えないと危ない感じはするが。抱っこ紐のようなものとベビーカーを併用して、素早く体勢(持ち方)を切り替えられる人なら良いが、都心部の渋滞状況ではホームでも身体を自由に動かせるスペースが狭い可能性もある。

『極端な混雑が生じる時間帯(朝夕の通勤・帰宅ラッシュ)』にはベビーカー持参(小さな乳幼児連れ)で乗るのは子供の安全確保のために控えたほうが良いというか、保護者自身が通常はそういった時間帯には自分のほうが乗りたくない(スムーズかつ安全に子供を乗り降りさせる自信がない)と思うものだろう。

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攻撃的なウェブ情報(まとめサイト)で強まる『ラディカルな政治思想・排外主義(嫌韓嫌中)』:国家間問題と個人の属性・主張(言論の自由)を切り分けるということ。

『集団の形式的な一体性』と『個人の実際的な多様性』を区別しない典型的な弊害の問題として『一般市民を標的にしたテロリズム』があり、『敵対していると見なす相手国』を攻撃したり政策を転換させるために、『敵対的な思想や差別を持っていない可能性も高いその国の一般市民』を脅したり傷つけたり殺害したりするのである。

この記事は、『保守派(右派)の言論活動の台頭と『失われた20年』を通した日本国民の意識変容:仮想敵と見られ始めた中国・韓国』の続きになっています。

北朝鮮による拉致事件の国家犯罪の最大の問題も、日本を一方的に仮想敵にしている北朝鮮が、『敵対的な思想や差別を持っていない可能性も高い日本の一般人』を暴力的に拉致したことにあり、『国家間の対立問題(敵対国への示威・恫喝)』を理由にして『一般市民の生命・身体・尊厳・財産』に危害(恐怖心)を与えるテロリズムやヘイトスピーチは現代では許されないと考えるべきだろう。現代の巨大化して相互依存性を強めている国民国家は、古代ギリシア・ローマのポリス(都市国家)のように一般市民がすべて戦士となって戦う『戦争共同体』ではないし、思想教育された常備軍を整えて植民地・市場(資源・労働力)の争奪戦に乗り出した近代国家の『世界戦争・思想統制の歴史』は悲惨な反省すべき過去として認識されている。

国家間の外交関係が思わしくなかったり主権・領土・歴史解釈を巡る争いが起こっていたりしても、『その国に帰属している人間』を一まとめにして傷つけたり侮辱したり脅したりして良いわけではない。

現代の先進国であれば『政権・政党政治家の政策』はともかく、過半の一般人は『それほど極端な政治思想・排他的な民族主義を持たない人たち(協調路線・生活優先・平和主義)』なので、『お前は○○人だから俺たちのことを嫌って敵視しているんだろう、俺たちの国から尊厳や主権を奪おうとしているんだろう』と言われて攻撃・罵倒されても、自分の生き方・考え方・思想とは直接関係しないことなので対応のしようがない(国家に影響力も持たず特別その国の人を嫌ってもいない自分を脅かされてもただ迷惑だ)という問題もある。

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