生活保護の政策的な減額に対する集団訴訟1:労働者層と生活保護層の境界線の揺らぎ

高所得者であるお笑い芸人の母親が生活保護を辞退せずに受給し続けていたというニュースが報道され、自民党の片山さつき議員らがTwitterなどで『生活保護不正受給者のバッシング・生活保護者増加(210万人以上)への財政的懸念の訴え』を始めた辺りから、労働者低層よりも不当に厚遇されている、保護水準が高くて働くのがバカらしくなるというロジックで生活保護受給者に対する風当たりが強くなった。

生活保護減額で集団提訴へ=「憲法違反」主張、支援者ら

一部のマスメディアの報道姿勢もあって、実際には1%未満である不正受給率であるにも関わらず、生活保護者の多くが本当は働けるのに働かないだけの不正受給者(あるいは反社会的勢力の絡む不正受給)であるというような誤解も広まりを見せ、約3.8兆円の予算規模が国家財政(将来の福祉政策の持続性)を逼迫しているという批判も多くなった。

1990年代までは、生活保護・貧困層に対する憐憫や軽視を伴う差別意識は残っていたものの、それは『自分は生活保護を受けたくないから頑張ろうという意識』に転換されることが多く、また現実的にも生活をあれこれ監視されながら生活保護を受け取るよりも(昔は仕事用の車も体調管理のためのクーラーも保有できなかった)、何らかの仕事を頑張ってしたほうが身入り(実収入)が良いことが自明であった。

『生活保護を受けている人のほうが恵まれているように見えるから(あくまで主観としてそう見えるであって本当に良い生活をしているかは甚だ疑問である)イライラする』や『自分はやりたくない仕事をしても少ない収入しか得られない。だから、働いていない生活保護者はもっと給付水準を引き下げられるべきだ』という感覚が広まっている背景には、『中流社会の崩壊・雇用環境と給与水準の悪化』がある。

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富士山の世界文化遺産登録と『概念・権威』による自然(生物)の価値判断

富士山は環境問題(ゴミ問題など)の指摘から『世界自然遺産』への登録が難航していたが、日本の歴史的な信仰・意識・芸術・景観が輻輳した富士山の総合的な評価を訴える『世界文化遺産』に切り替えた事が奏功した。富士山とその標高(3776m)の知名度は国内では圧倒的であり、富士山を直接視認できない地域の人でも知らない人はまずいない。

海外の親日家や外国人の日本文化愛好家も『富士山』の名前と山容の形態は知っているが、それはヒマラヤ山脈のエベレスト(チョモランマ)やK2、ダウラギリ、ガッシャーブルムといった『世界最高峰レベルの山(欧米の登山家がそそり立つ岸壁に征服欲・野心を滾らせた山)』とはかなり情緒的な色合いが異なる文化的な憧憬を伴うものだともいう。

葛飾北斎の『富嶽三十六景』は日本人の富士講の信仰心を背景にしているとも言われるが、外国人が見ても葛飾北斎や歌川広重らが描いた『浮世絵の富士山』に普遍的な美しさを感じるという声は多い。峻烈さと秘境性が際立つ世界の最高峰群と比較しても、そのフォルムに『簡潔明瞭の美』があるとされるが、確かに見た目の視覚的な安定感と普遍的な実在感に抜きん出たものがある。

浮世絵の価値は、外国人が再発見した日本の美と言われることもある。富士山の世界文化遺産登録によって日本人の登山者が急増したり、今まで富士山や登山に何の興味もなかった人が初めて興味を持つのであれば、それは『外国人(ユネスコ)が改めて強調(再認)してくれた日本の美』と呼ぶことができるものかもしれない。

日本人だけにとっての富士山の美にも価値はあるが、多くの外国人も認識して承認する富士山の美は、その価値判断の裾野を更に広げるし、グローバルなお墨付きが与えられることで『日本人にとっての富士山の価値(富士山を見る日本人のまなざし)』にも興味の増進や登りたい意欲といった変化を必然にもたらすことになる。

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ローラの父親の国際指名手配。犯罪者の家族(加害者家族)の保護をどう考えるか?

殺人事件をはじめとする被害者遺族の権利回復や感情慰撫については多くの取り組みがなされるようになってきているが、『連座制(家族の連帯責任)』を廃止した現代でも未だ、『家族の犯罪』によって他の家族が風評被害を受けたりその土地で暮らせなくなったり仕事を失ったりする問題が起こっている。

子どもを虐待(ネグレクト)して性格形成を歪ませたり、非行・犯罪の性向があると分かっていながら放置し続けていた親であれば、『子の犯罪の原因』の一端を間接的に担っていたという道義的責任の追求の余地はあるかもしれないし、年齢によっては民法上の未成年者に対する保護者(親)の保護監督責任が発生する。

また、明らかに家族が共謀したり教唆したり黙認したりしていたような犯罪であれば、家族も一緒に非難されるべきであるが、本人に責任(容疑者の事件に至るまでの原因への関与)がない『親の犯罪』によって『子ども(本人)の非難・不利益』が起こったり、『兄弟姉妹の犯罪』によって『本人の非難・不利益』が発生したりするのは理不尽ではある。

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鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯3:人・国はなぜ争いをやめないのか?

トマス・ホッブズは『自然状態』を個人が自らの生存を賭けて他の個人を死滅させようとする『万人闘争の状態』であると仮定したが、『国家の領土・境界・主権』を譲ることなど有り得ない絶対的な価値として信奉する人たち(いくら人が死んでも死守すべき価値とする人たち)は、外交関係というものを基本的にどの国家が生存してどの国家が滅亡するのかを賭けて闘争する関係(敵と味方に分かれて奪い合う関係)という風に捉えている。

この記事は、『前回の記事』の続きになっています。

『戦争は外交の手段に過ぎない』というような個人の生命を軽視する主張も、『自然状態における個人間の殺し合い』を社会契約で調停しても、『国際社会における国家間の奪い合い』は永遠に続く闘争として存在し続けるという世界認識に立脚したものであり、多くの人は『殺し合い・奪い合う関係』に対抗する措置をリアリズムと呼んだりもするのである。

人間と国家の本性について『殺し合い・奪い合う関係』が正しくそれは変わらないと考える人は、国民国家の対立的なフレームワークを捨てることはないため、『国家の領土・境界・主権』は永遠に継続する価値のように思うことになる。

だが、人間の本性が本当に『生存と死滅、資源の奪い合いを賭けた闘争』にあるのかというと、大半の人は自分自身を振り返った場合には疑問だろうし、よほど追い込まれた飢餓や貧窮にない限りは、人間には『困っている相手を出来る範囲で助けて上げたい・懇願している相手に危害など加えたくない・恨みや怒りを覚えずにみんなが幸せに暮らせる状態が望ましい』という善良な本性が備わっていることもまた確かなのである。

歴史学者のカール・シュミットは、人間の本性は他者を死滅させようとする闘争にあるわけではなく、『資源の希少性(資源の不足)・生活の持続困難性』などの外的条件がある時に限って、人間は他者から資源や財産を奪い取ろうとする闘争の本能に囚われてしまうと考えた。現代であれば、この闘争の本性を生み出す外的条件に『自尊心の傷つき』を加えても良いだろうが、鳩山元首相のような生活の苦労や生存の危機を経験的に知らない大金持ちが、人間の本性をより『闘争から離れたもの・共生と利他を実現しようとするもの』として解釈するのは半ば必然的なことでもあると言えるだろう。

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鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯2:なぜ国境は存在するのか?

思想問題としては、『なぜ目に見えない国境は存在するのか、国境の線引きの根拠はどこにあるのか、どうして国家は実利(生産性・居住性)の薄い国境でも譲らないばかりか時に殺し合いまでするのか』は古くて新しい問題でもある。

この記事は、『前回の記事』の続きになっています。

近代以前の国境(領土・領海)は、基本的に人間が居住したり生産活動や統治行為(徴税)をしている場所をベースにした広がりに過ぎず、生産的・居住的な縄張りと分かりやすい地形上の区切りをやや拡張した曖昧さを残すものだった。近代国家として産声を上げた日本が、竹島・尖閣諸島を誰も支配してない『無人の無主地』と認定して占取権を宣言できたのも、周囲の前近代国家の国境の概念が確立しておらず、そういった生産性・居住性の低い無人島・海域への権力の関心が相当に弱かったからでもあった。

いうまでもないが物理的な地球上の土地や海には分かりやすい線などは引かれていないため、国境という人工的な領域の線引きは『(国際社会に承認された線引きがなされた)世界地図』を目安にしながら、『相対性・恣意性』を必ず伴うことになる。その相対性・恣意性が強まる領域というのが『他国との境界線・無人かそれに近い辺境』であり、中国が強硬に領有権(核心的利益)を主張している『尖閣諸島』というのはその辺境(境界線)なのである。

無知のヴェールによる正義論で知られる政治哲学者ジョン・ロールズは、『諸人民の法』の中で、近代国家の国境は確かに恣意的なものでありその根拠には疑念のある線引きも多いが、そうであっても『一定の囲い込んだ領域内部における人々の生活・生産活動と環境保全』に責任を持った統治を行うという政治的意思の表明としての『現状の国境のあり方』を、完全に無効なもの(フリーな出入を許しても良いもの)と見なすことはできないという『功利主義の持論』を述べている。

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鳩山元首相の『尖閣諸島』に関する発言と中国の尖閣諸島への領海侵犯1:国境と領土問題の本質を考える

鳩山由紀夫元首相が、『中国の立場=中国側が解釈する戦後の領土返還範囲(カイロ宣言が含む範囲)』を忖度した発言をして、与党や世論、ウェブで大バッシングを浴びている。鳩山さんの政治思想は『空想的な世界政府(アジア政府)を前提とする平和主義=包括的な人権保護のディシプリンに従う諸国家・諸民族』に基づいているので『現実にある国民国家の枠組み』の斜め上を突っ走っていき、そもそもまともな議論としての現実の土台を欠いている。

政治評論家や社会批評家、文学者などの職業であれば、鳩山元首相のような『理想状態の政治・相手の立場に立った持論』というのも面白い人道的なアイデアであるし、『国民国家の領土』よりも『ユニバーサリズムの人権』を上位に置くという思想は確かに、(それにすべての国民が同意するというありえない前提を置けば)領土紛争や民族紛争を殲滅するような思想の原理論的な射程は持っている。

しかし、残念ながら現実に生きている人々の多くは『理念的な地球人・世界人』ではなく、『どこかの国・民族に帰属する国民(部族)』として生きているのであって、少なくとも21世紀の前半のうちには『内と外を切断して内部で利益配分しようとする国民アイデンティティ(共同体的意識の範疇)』を無きものにすることは不可能である。

確かに、国民国家と呼ぶべき政治単位は『自然的・物理的・必然的なもの』ではなく『人工的・教育的・思想的なもの』に過ぎないとも言えるのだが、『統治権力・言語・歴史・土地・外見の共通性などでグルーピングされた集団』が自己集団(自国)と他者集団(外国)を区別して、自己集団の身内を優遇して他者集団の知らない相手を排除しようとする動物的な本性そのものはおそらく人類には克服することができない。人類全体の敵となる先進文明・兵器を持つ宇宙人(人類と別種の知的・戦闘的な生命体)の軍隊でも襲来しない限りは。

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