■「本当に悔しい」遺族悲しみに暮れる 立川の車暴走
現在の交通事故の死亡者は年間4000人台で推移しており、『交通戦争』と言われた昭和40~50年代の10000人を大きく超えていた交通事故死者からすると50%以上は減少しているが、『人権意識・ネット環境(不特定多数の感想)・日常からの死の消失・共同体感覚の衰退』によって交通事故死(それ以外の殺傷事件など他者から受ける各種の被害)の主観的な深刻度は高まっている。
平均寿命が延びた超高齢化社会さらには素人の経験知(かつての村社会で役立った長老の知恵)が役立ちにくい情報化社会では、高齢者を尊重する敬老精神は一般に低下していき、『若さ・美しさ・健康・理性の至上主義』とでもいうべきエイジ・ハラスメントを内包する無意識の優生思想が人々に宿ってしまう。高齢者や老い、認知症は自分自身もそうなりたくない(若さ・美しさ・健康・理性などを喪失したくない)と思う好ましくない観念になりやすい。
それだけでなく、核家族化・少子化・離婚や家族不和によって『祖父母以上の世代の高齢者から可愛がられたり甘えられたりした幼少期の交流・記憶』が乏しくもなるので、『おじいちゃん・おばあちゃんのイメージに対する愛着や寛容』も衰えていく。
自分自身のおじいちゃん・おばあちゃんに対する愛着や思い出がなければ寛容さもなくなりやすく、『誰もが高齢者になるという現実(心身機能の段階的あるいは突然の低下・喪失)』に対するイマジネーションも働かず、心神喪失者の問題と同じように『結果だけに着目した自己責任論(どんな事情・過失・状態であろうが人を殺す結果になったなら人殺しとして徹底的に罵倒しても良い,老いて衰えたからなんだっていうのか、こっちもさまざまな事情や困難に耐えて頑張っているんだ)』に傾きやすい。
マナーやルールを守らない、頑固で偏屈な性格、貧困や事故・犯罪の報道、社会保障問題で財政悪化や増税の原因など『好ましくない印象のモデルの高齢者』が内面化しやすくなり、余計に高齢者に対する潜在的な印象は悪化の一方をたどる。
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最近、めまいや吐き気、意識水準の変化を伴う『首・肩・背中の不調』に悩まされて、ようやくここ1週間で自己治療のポイントが見えて回復基調になってきたが、タイムリーな記事だった。
悪化すると新型うつにまで至るぎっくり首の危険性
『ぎっくり首』になった人の話は聞いたことがあったが、僕の場合は『慢性的な肩こり・首の不調』を、このくらいなら耐えられる範囲で運動機能にも支障がないから大丈夫だと思い、10年以上にわたって長年放置してきた結果だった。
一応、整形外科や耳鼻科にも行ってレントゲンなどいくつかの検査を受けてみたが、頸椎・脊椎の骨格や神経系には異常がなく、首の筋肉の過度のこりによる自律神経系の症状だろうという推測で終わった。
整形外科で一度受けたリハビリで、背筋を伸ばすような形で細長い枕を縦に敷いてするストレッチで気分が良くなったので、自分で姿勢矯正とストレッチを工夫して続けていたらだいぶ楽にはなってきた。
病院の簡易な検査では原因不明で病名もつかなかったが、視点よりやや下にある画面(ディスプレイ)を見るために、首・肩周りの筋肉に過度の負荷をかける姿勢を長期にわたって取ったことによる『スマホ症候群(PCのVDT症候群)』みたいなものだろう。
スマホよりも、実際はパソコンのキーボード使用のほうが負荷が強いので、パソコン使用時の姿勢と目線も改善して、利用時間を少し減らした。
本の読書もやや下を見る固定姿勢なので好ましくないが、とにかくパソコンにしろスマホにしろ本にしろ、何十年間のスパンにわたって一日の時間の大半を文字・情報の読み書きに費やす姿勢の持続というのが、『首・肩・目』に相当な負担になっているものということを改めて実感した。
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冒険家として知られる植村直己(1941-1984)は、1984年の冬季マッキンリー(デナリ)の単独登頂後に行方不明となり死亡認定されたが、1980年代というのは未踏の高峰・密林や過酷環境の横断(縦走)という『人類の限界挑戦の課題』が終わりを迎えようとしていた時期であった。
人類が登頂していない世界の未踏峰が消え、人類の能力で横断・縦走に成功していない過酷環境の土地が無くなりかけていたのが1980年代半ばであり、植村直己自身も『次の冒険の宛先』を見失いかけていた。
次の冒険として北極点到達に続く『厳冬期のエベレスト登頂・南極点単独犬ぞり探検』が計画されてはいたが、エベレストは竹中昇の死去・悪天で断念し、南極点もフォークランド紛争勃発で軍の協力が得られなくなって諦めていた。
北米大陸最高峰のマッキンリー(6,190m)はアメリカの大統領ウィリアム・マッキンリーにちなんだものだが、2015年にアラスカ先住民が呼んでいた元々の山名である『デナリ』に変更されることになり(こういった一度は土地の支配者による命名が為された後に、再び原住民の元の呼称に戻るという名前変更は近年では政治的正しさの影響で多くなっているようだ)、マッキンリーという慣れ親しんだ山の名前は公式には消えたことになる。
植村にとってマッキンリーは既に1970年に登頂した山であり、この時に世界初の五大陸最高峰登頂者にもなっていたが、厳冬期に敢えて登ってみるという以上の意味合いはなく、この登山そのものは植村の個人的な意思に基づくもので、スポンサーはつかず注目もされていなかった。植村は自分自身の冒険に区切りがついたら野外学校設立を目指してもいたので、インターバル的なマッキンリー登山(厳冬期の死亡率はエベレスト以上に高い山だが)で遭難死したのは運命ではあった。
続きを読む 植村直己の登山・極地探検とデナリ(マッキンリー)での遭難死:次の目的地を求める人類 →
沖縄(琉球)の差別は戦前から『(文明の低い旧琉球の末で)本物の日本人ではない・太平洋の島の土人=三級国民に近い』の形であり、『忠誠度の低い新参者・境界地の偏見』に沖縄は苦しみ戦争で犠牲を払った。
土人発言「侮蔑的な意味知らなかった」 機動隊員に戒告
明治維新による近代化、大日本帝国建設はいわば『天皇・国体に忠誠を誓う国民』を国民教育と規律訓練で量産した歴史で、多くの国民が『本物の日本人ではない』と見られる事を恐れた。同じ国民の中に『本物の日本人ではない属性・特徴を持つ集団や個人』を作って差別・弾圧を加え『本物の日本人とする自分や仲間』を高めた。
沖縄県民に対して『土民・シナ人』の侮蔑語が出たのは偶然や無知によるものではなく、国家体制やナショナリズムに親近する日本人が潜在的に持つ『周縁(境界地)・歴史的文化的な異質性に対する差別感情』の発露だろう。中世以前から『日本国(中央政府・旧朝廷)にまつろわぬ者』を夷狄・土人の未開の野蛮人と見なした。
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○街頭で50%近い男性がジーンズを穿いているのは意外に多いと感じる。ジーンズは一本良い物があれば、生地が長持ちで飽きにくい利点はある。
【関西の議論】若者が「ジーンズ」をはかなくなった? 生産10年で3割減…「カジュアル」多様化、パンツを替える時代!
ボトムスのバリエーションは、ジーンズ、チノパン、カーゴパンツ、スラックス、短パン、ジャージ(運動着)、アウトドア系。後は色・形を選ぶ。ジーンズは『何度でもはける頑丈さ・ブルーの着古した味わい・ベーシックで飽きが来ない』が良いが、『生地の固さと動きにくさ・放熱しない暑さ・濡れた時の重さ』が欠点だ。
ジーンズも好きな人やこだわりがある人はお気に入りのモデルがあったり、何種類も揃えるが、リーバイスやエドウィンでベーシックな青・黒のジーンズを買っておけば、何シーズンでもはけるコスパの良さがある。スーツ下のスラックスは特にだがチノパンも、生地が擦れたり変色・てかりがでると味わいよりボロに見えやすい。
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ハラスメントには『他者の過度な侵入感・支配性』がある。男のセクハラには、拒絶を恐れて冗談の防衛線を張った『間接の性的関心・誘惑・評価』が含まれ、それが性的嫌がらせや侵入感になりやすい。
「セクハラ発言が許容される社会へのモヤモヤ」詩人・文月悠光が語る、女性の生きづらさとは
セクハラは『見る性・見られる性』『社会経済的な力関係・ポジション』『性別役割規範のジェンダー』の男女の非対称性によって生み出されやすい。近年は男性も『外見・性的魅力の目線や評価』に晒され愚痴や不満は増えている。男でも女でも『他者から不躾に品定めされるような目線・言葉』を受ける事は一般に不快である。
しかし厳密にはセクハラにおいて『男女の平等なポジションや被害感』は成り立ちにくい。『男性・女性のセクシャリティ』の差異は、男性側の性的欲望・視覚刺激(女性の身体性への幻想)の強さによって規定され、『女性身体=性的なオブジェクト』のように男性身体をまなざしてあれこれ品評する女性はどうしても少ない。
確かに、女性にも男の身体性について『胸・腕・尻の筋肉が好き,全身のフィギュアや顔立ち(目・鼻・口)が好き,性の好きなムードや感覚』はあるかもしれないが、男性のような女性身体(胸・口腔・性器等)に対する執拗な視覚・言葉のフェチシズムには到底及ばず、女性でさえ女性身体にエロスを感じる人が多いといわれる。
セクハラの根源には、遺伝・形態・生理も含んだ『男と女の差異』が横たわるが、社会的・表面的には『理性・知識・配慮』での抑制が可能である。だが性的にまなざして欲望して比較する内面自体に、一定の侵入性・暴力性が潜在し、それを表現・伝達・干渉した時に、受け取る相手によってはセクハラや性暴力になる。
続きを読む セクハラやパワハラ、モラハラが増加する『現代のハラスメント社会』をどう生きていくべきか? →
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