日本の自殺者は近年は減少傾向で3万人超の年もなくなったが、10代の自殺は微増しており心配だ。高校生が寒い冬に深夜のダムで飛び降りた現実は重く暗く悲しいが、事前に兆候を察する自殺対策は難しい。
少し前にも女子生徒が友達と二人で飛び降り自殺した事件があったが、男子生徒は友達と一緒に自殺する事は殆どないはずだ。思春期の女性は、親友との催眠的な一体感・感情伝染を起こしやすい。『学校・自分・人生・将来に対する絶望・悲観・諦め』をお互いに語り過ぎる事で、自殺念慮に暗示的に呑まれやすくなる危険もある。
日本の自殺者は近年は減少傾向で3万人超の年もなくなったが、10代の自殺は微増しており心配だ。高校生が寒い冬に深夜のダムで飛び降りた現実は重く暗く悲しいが、事前に兆候を察する自殺対策は難しい。
少し前にも女子生徒が友達と二人で飛び降り自殺した事件があったが、男子生徒は友達と一緒に自殺する事は殆どないはずだ。思春期の女性は、親友との催眠的な一体感・感情伝染を起こしやすい。『学校・自分・人生・将来に対する絶望・悲観・諦め』をお互いに語り過ぎる事で、自殺念慮に暗示的に呑まれやすくなる危険もある。
日本における支配的な行為規範は長らく『世間体』によって規定されてきたが、世間体というのは地縁・血縁・学校・職場・昔馴染みなどの『共同体への帰属感の強度(断ち切り難いしがらみの強さ)』によって生み出されるものである。
世間体や体裁(見栄)は『~くらいするのは当たり前である・だから~していないのは恥ずかしくて人様に顔向けできない』という『恥の文化』を生み出して、1990年代頃まで日本人のライフサイクルや社会通念・価値観をかなり画一化するだけの力を持っていた。
現代でも50代以上くらいの世代であれば、『人から笑われる軽く扱われる・人から馬鹿にされるのが恥ずかしいから』という世間体の同調圧力や価値観の均一化の影響力をかなり強く受けているはずだが、現代ではこの『世間体の実在性・影響力』は環境によってかなり薄れてきてはいる。
現代は個人主義と市場原理(自己責任)の時代であり、30代以下くらいの世代で一定の知性・洞察・配慮があれば、過半の人はその人がどのような状態にあっても『それぞれの生き方・好き嫌い・価値観・能力魅力・こだわり』などがあるという価値観やライフスタイルの多様性を前提として織り込んでいる。
『結婚していない・友達がいない』などの一人の状態にあるからといって『完全に決めつけた物言い』をする人は、よほど粗雑で乱暴な人(ある意味で現代人としての対人魅力や相手に合わせてもてなす話術に乏しい人)だけであり、それ以前に大半の人は共通の要因・時間がなければ、他者の詳細な個人情報や生活状況にほとんど関心がない。
若くて魅力的な人なら、知らない人から欲求や関心、話題を向けられることも多いだろうが、一定以上の年齢になって取り立てて目立つ特長・魅力がなければ、あまり親しくもない他者からあれこれ聞かれたり関係を深めたりするアプローチを受けることがなくなってくるのである。
逆説的だが、年齢を重ねて老いるほどに家族や親友以外の赤の他人が、自分のことに興味関心を持って助けてくれたり関わってくれなくなりやすいから、若くて特長・魅力があるうちに(その場の約束だけの人間関係よりは)縁が切れにくそうな結婚をしたり子供を作ったほうがいいという価値観もかなりポピュラーな人生方略である。
元恋人・元配偶者によるストーカー事件は、異性と付き合う事と別れる事の難しさを伝えるが、別れ際にトラブルになる人はいても、愛憎で殺傷を企てる所までいく人と付き合ってしまった不運もある。
コンビニに助けを求めても、殺す気で刃物を振り回してくる闖入者を撃退できる店員がそうそういるとは思えない。可能性でいえば、加害者が来る前に事務所に匿って『ここには来てない・その女性を知らない』とシラを切れば良かったかもしれないが、被害者が必死に殺される恐れを訴えなければそこまでしてくれないだろう。
相手への尊敬・感謝を維持できるか否かは、本質探求の思索者よりミクロな生活者としての適応が問われる。対(つい)や番(つがい)の共同幻想を良い形で維持できるかどうかは相性もあるが、孤独を恐れる帰属・貢献の強度も相関する。
その時々の好意や言動に感謝することはできても、共同生活の必然性が弱まった現代で、本心から他者を尊敬するというのは『尊敬の本質』を考える人ほどなかなか難しいもので、採用面接などで『尊敬する人は誰か?』という質問も深く考えるほどに難問なのである。生身の人への持続的な尊敬が困難なればこそ離婚も別離もある。
実直なイワンの馬鹿の黄金律ではないが、誰々をリスペクトして、両親を尊敬している(両親のような家族を作りたい)というような『シニカルな視点のないストレートな情緒と社会観・明るい対幻想と親への尊敬、地道な生活に基づく家族主義』は良い夫婦関係の持続性に関係する。主観の共同性と情緒の親和性が絆を深める。
現在の交通事故の死亡者は年間4000人台で推移しており、『交通戦争』と言われた昭和40~50年代の10000人を大きく超えていた交通事故死者からすると50%以上は減少しているが、『人権意識・ネット環境(不特定多数の感想)・日常からの死の消失・共同体感覚の衰退』によって交通事故死(それ以外の殺傷事件など他者から受ける各種の被害)の主観的な深刻度は高まっている。
平均寿命が延びた超高齢化社会さらには素人の経験知(かつての村社会で役立った長老の知恵)が役立ちにくい情報化社会では、高齢者を尊重する敬老精神は一般に低下していき、『若さ・美しさ・健康・理性の至上主義』とでもいうべきエイジ・ハラスメントを内包する無意識の優生思想が人々に宿ってしまう。高齢者や老い、認知症は自分自身もそうなりたくない(若さ・美しさ・健康・理性などを喪失したくない)と思う好ましくない観念になりやすい。
それだけでなく、核家族化・少子化・離婚や家族不和によって『祖父母以上の世代の高齢者から可愛がられたり甘えられたりした幼少期の交流・記憶』が乏しくもなるので、『おじいちゃん・おばあちゃんのイメージに対する愛着や寛容』も衰えていく。
自分自身のおじいちゃん・おばあちゃんに対する愛着や思い出がなければ寛容さもなくなりやすく、『誰もが高齢者になるという現実(心身機能の段階的あるいは突然の低下・喪失)』に対するイマジネーションも働かず、心神喪失者の問題と同じように『結果だけに着目した自己責任論(どんな事情・過失・状態であろうが人を殺す結果になったなら人殺しとして徹底的に罵倒しても良い,老いて衰えたからなんだっていうのか、こっちもさまざまな事情や困難に耐えて頑張っているんだ)』に傾きやすい。
マナーやルールを守らない、頑固で偏屈な性格、貧困や事故・犯罪の報道、社会保障問題で財政悪化や増税の原因など『好ましくない印象のモデルの高齢者』が内面化しやすくなり、余計に高齢者に対する潜在的な印象は悪化の一方をたどる。
続きを読む 高齢者の過失の交通死亡事故でなぜ激しいヘイトが生まれやすいのか?:超高齢化・ゼロリスク化・少子化の社会で老人が叩かれるリスク
すぐにでも結婚したいが恋愛が苦手な人・出会いがない人で、経済基盤がしっかりしてればお見合いも効果はあるが、成婚数でのお見合い結婚の復権は考えにくい。
若者の恋愛離れ対策に「お見合い復権」ってどうなの? 恋人いない男性7割という状況を変えられるか
昭和の皆婚期にはお見合い結婚率は確かに高かった。『結婚しなければならない常識・義務・焦り(結婚しない人生の度外視・困難)』と『家柄・階層・肩書きの釣り合いの考慮』があり、『自由恋愛・好きな人・個人の嗜好とは異なる社会慣習の原理』で周りの干渉を受け結婚する事に違和感を感じにくい時代背景の影響がある。
そもそも若い世代の恋愛・結婚離れの原因は、『経済的要因(雇用・所得・将来の不安定,結婚・子供を最優先で生きる構えのなさ)』と『心理的要因(自分と釣り合ったり向こうから来る相手の拒絶、選別や高望み)』と『社会・技術要因(ネット・娯楽・サービスによる代理満足による時間・労力分散)』が複合している。
お見合い結婚の成婚率は『紹介者・仲人の顔や面子』の義理に関わったもので地域・親族のお世話になっている顔利きが『客観的な条件が釣り合っていると見立てたお見合い相手(それなりのイエの背景もある)』を断ること自体困難であった。そういう義理の強制抜きのお見合いなら今の婚活・相談所からの恋愛と余り変わらない。
『週末婚・別居婚・共生婚・契約婚』など様々な『プライベート重視の新形態』が模索されている事などは、子育てや真剣な夫婦・人生へのコミットの面で甘いと批判されることも多いが、『日常生活・家事を円滑にこなす為に奥さん(旦那)が家にかかりきりにならなければならない必要度』が弱まった事も関係する。