軽減税率導入が見送られれば、学会員に生活必需品の増税はないとした公明党の顔は潰れるが、主にスーパーやコンビニで買われる『生鮮食料品・日用雑貨』以外の何を軽減税率の対象にするかの議論は紛糾する。
生存権に関わる食料品にできるだけ重税をかけないとする『軽減税率(複数税率)』には、軽減税率の対象を決める基準設定の難しさ、複数の税率を合わせて計算するレジ・会計事務の転換コストなどの問題がある。もう一つの低所得者対策として、所得税から消費税増税分をあらかじめ減税する『給付つき税額控除』もある。
軽減税率導入が見送られれば、学会員に生活必需品の増税はないとした公明党の顔は潰れるが、主にスーパーやコンビニで買われる『生鮮食料品・日用雑貨』以外の何を軽減税率の対象にするかの議論は紛糾する。
生存権に関わる食料品にできるだけ重税をかけないとする『軽減税率(複数税率)』には、軽減税率の対象を決める基準設定の難しさ、複数の税率を合わせて計算するレジ・会計事務の転換コストなどの問題がある。もう一つの低所得者対策として、所得税から消費税増税分をあらかじめ減税する『給付つき税額控除』もある。
石の上にも三年、キャリア数十年の職人技もあるが、『努力の方向性・持続期間・目的のレベル』を調整しながら努力するのが基本だろう。カネ・地位・仕事・異性・自由など何によって報われたいかによっても努力の方法・量・自分の適性は変わる。
注意すべきは、『自分の自己満足・能力向上のためだけの努力』ならば、他人がその努力を評価・賞賛しなければならない必然性や因果はないという事だ。相手があなたの事を人間的に好きだったり利害関係でもあれば評価してくれるかもしれないが、他人や社会は子の成長・夢を無条件に見守ってくれる親にまではならない。
白馬の王子様が、大勢の中から私だけを選び出しスターダムに押し上げてくれる。退屈な日常よ、さらば!シンデレラストーリーの演出だが、驚いて感動で涙ぐむダンサーの演技力はなかなかのものだった。『選択と救済』のジェンダーの夢のミニドラマのような印象もあった。
Sexy Zone、『Mステ スーパーライブ』の演出に賛否。「コーヒー吹いた」「あんなの要らん」
Sexy Zoneは30代以上から見れば、高校生くらいの子供に見えるが、カッコイイというより可愛い感じを受けてしまう。現在の自分の経済状態よりも更に豊かなステージに押し上げてくれる結婚をハイパーガミー(上昇婚)というが、若手のジャニーズはそこに加えて『理想の造形・甘い恋愛』という非日常の空想・快感を広げてくれるのがビジネスの種か。
地域社会の衰退や子育て経験の個人化(共有困難)の要因もあり自分も『子供を含む社会の一部との認識』が持てなくなった為、『自分と無関係な家族・子供の声』は実際以上の騒音として聞こえやすい。
子供がうるさい・元気がいいのは当たり前というのは、『地域コミュニティにおける子育て体験・子供のいる環境の明るさの共有感覚』に支えられていた。私もいずれは子供を育てるからお互い様という感覚、私の子・孫も普段うるさくて迷惑を掛けているかもの遠慮が、少子化・未婚化・ライフスタイル多様化で崩れてきた。
例えば、ずっと子供を持たないと決めている人にとっては『私が子供を育てて騒音で迷惑をかける可能性』は初めから想定不能であり、子供嫌いだから子供のいる場に参加しない人にとっては『子供のいる明るい環境の感覚』は共感が困難なものであり、子供が無条件に大人から大目に許容される伝統社会の常識は揺らいでいる。
孤独感・無関係感・疎外感も『他人の騒ぐ声がうるさく聴こえる条件』になりやすい。学校でも自分が参加して騒いでいる時には大声が気にならなくても、自分と無関係な集団が騒いでいるとやけにうるさく感じる経験はあるはずだ。高齢者で子供の声がうるさいという人が増えてきた背景にも、『単身世帯化・疎外感』が影響する。
中国・韓国への真っ当な批判とヘイトの差異は、『国籍・政府・歴史認識と個人の人間的価値の区別』にある。ヘイトは中国人・韓国人の国籍のみで全否定するので相互理解は予め放棄されている。
書店に溢れる「ヘイト本」にNO! 「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」立ち上げ
ヘイトスピーチや排外主義の最大の問題点は『同じ国(民族)の人たちの中にある多様性や個人差』を半ば意図的に切り捨てた上で、極めて単純素朴に『自国民=仲間』『外国人=敵』と二分法で定義してしまう所だろう。仮に自国民の中に『ヘイトに賛同しない個人』がいても、『非国民・裏切り者』として話を聞く事はない。
ヘイトスピーチが作り出す世界観の短所は、『政治・歴史・軍事・民族に余り関心がない中立的な国民』を射程に収められず、政府や右寄りの政治家・知識人の行動・主張が『全国民の同意をがっちり得た思想・判断の代表』とみなされ、何も敵対的な考えを持ってないその国の個人までも『仮想敵・憎悪の対象』に据えてしまう。
死亡ひき逃げ事故を起こした人の大半はまず否認する。意図的に行った犯罪より、現実逃避の否認の欲求は強い。結果の重大性に対する『故意・殺意の欠如』と『法的・社会的な制裁,人生の暗転』による混乱もある。
加害者は60歳の高校教諭で、それなりに自分の人生や職業を踏み外さないように真面目に生きてきた人物だろうが、それが故に『なぜこんな時にこんな不幸が自分に襲いかかるのかという不条理の念』で、死んだ被害者には意識が向かいにくい。自己防衛は本能的なものだが、意図的な犯罪よりも落胆・理不尽さは大きいだろう。