「セクシャリティ」タグアーカイブ

小学校教員の男子児童に対する事件に限らず、

子供を狙った性犯罪や未成年者略取・逮捕監禁などの事件が、ここ数ヶ月で何件か連続して続いた。神奈川県相模原市で、犬の散歩をしていた小学5年生の女子児童が行方不明になった事件も発見当初は『何も覚えていない・何があったか分からない』と本人が語っていたが、その後に略取・逮捕監禁事件であったということが伝えられた。

ピザの宅配記録や東京町田市の地域で夕方に流される音楽などの手がかりから、容疑者の30歳の男が浮上して逮捕されたというが、保護された当初は事件のショックやトラウマから何も話せない心理状態に追い込まれていた可能性が高く、事後的な心理ケアやカウンセリングの環境整備が求められる。

少し前にも北海道札幌市で似たような事件が起こって、小学校3年生の女子児童の行方が分からなくなり心配されていたが、26歳の男に監禁されていた部屋に警察が乗り込んで無事に保護されることになった。少女漫画や食料品の買い込み、監視カメラの画像解析などが手がかりになったというが、それだけで犯人だとしぼり込むのは難しいだろうから、以前からその周辺地域において何らかの関連する犯罪歴か目立つ行為があった可能性もあるだろう。

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“婚姻・家族・親子”と“法律”の関係:憲法原則2:同性婚・生殖医療からの視点

かつては性的マイノリティやレアケースには、政府・法律は何らの保障・承認を与えないまま、『みんなと異なるセクシャリティやライフスタイルは個別の自助努力の範疇で生活改善・差別軽減を図るべきだ(そうでなければマジョリティが構成する社会秩序や風紀に悪影響をもたらすし少数であれば放置しても全体は困らない)』という態度で知らぬ存ぜぬを決め込んできた。

だが、性的マイノリティに対する理解の増加、婚姻できない(親として法に認められない)本人による違憲判断を求める訴訟の続発によって、政府も無視を続けることは困難となった。

“婚姻・家族・親子”と“法律”の関係:憲法原則1:同性婚・生殖医療からの視点

家族や親子、人間関係(男女関係)の多様化に対して、政府や法律が後追いしながら追認・許可するような形がずっと続いており、2004年にも『性同一性障害特例法』の制定によって同性愛者でも法律上の婚姻ができるということが保障された。この当時においては、生物学的な男性と男性、女性と女性が結婚するのだから、美容整形手術やホルモン治療、性転換手術によって外見は違う性に見えるようになっていても、子供はできないという無条件の前提が置かれていた。

同性愛者であれば子供が欲しくても養子を貰う他はないという臆断がそこにあったわけだが、実際には『生殖医療技術の進歩・普及』が不妊症で悩む夫婦だけではなく、二人の間では子を作れない『生物学的性差が同じ夫婦』にも子をもたらす事態が生まれてきた。

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“婚姻・家族・親子”と“法律”の関係:憲法原則1:同性婚・生殖医療からの視点

嫡出子と非嫡出子の相続比率に格差を認める民法の規定は違憲であるとの最高裁の判断が示されたことで、本来伝統的な家族形態や法律婚の規範性を支持していた自民党の保守派も、民法改正に着手せざるを得なくなった。

『法律婚の事実婚に対する各種の優位性』をどこまでフラット化すべきかは、特に『配偶者扶養・税制や控除・財産権や相続権』などにおいて今後の婚姻率低下の要因とも絡む大きな問題になるが、『生まれてくる子の自らの行為に拠らない不利益・不平等』になる法的な強制は難しくなる方向性にあるのだろう。

新たな親子関係、立法措置で対応検討 自民法務部会

人はなぜ結婚するのかの理由は、近代的な恋愛イデオロギー以前から貴族階級を中心とした婚姻制度があったように、ただお互いが好きだから結婚するというよりも先に、婚姻には『生活の維持と子の育児に対する強制的な協力義務』と『家系の地位と財産の継承者の明確化(法的な配偶者以外の他の異性との競合の排除)』の意味合いが強くあった。

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『池袋出会いカフェ女子大生事件』と映画『悪人』との類似性から考えたこと。

『店舗型の出会い系』として機能するカフェで知り合った22歳の女性を、29歳の住所不定無職の男性(被告人)が殺害したという事件。加害者の男が被害者の女性を『自己防衛による興奮・錯乱の心理』から殺害するに至った状況が、妻夫木聡・深津絵里が主演した映画『悪人』で、妻夫木演じる肉体労働者の青年が、満島ひかり演じるOLの女を殺害するという状況に類似していたので、現代の風俗や性愛、人間模様も参照しながら少し書いてみよう。

http://blogos.com/article/71139/?axis=&p=1

池袋出会いカフェの事件も映画『悪人』の事件も、結果として殺人犯となってしまった男性は強い孤独感や疎外感、無力感という『劣等コンプレックス』を抱えてはいるが、普段から重犯罪や粗暴行為を躊躇いなく繰り返しているようなチンピラ・極悪人の類ではないということ(暴行・殺人・強盗などの前科もないということ)がまずある。

どちらかというと、生きることに対して平均的な人よりもかなり不器用な男であり、仕事が上手くいっておらずカネや影響力、コミュニケーション力がない。

普通に生活していても女性との出会いがなく、話しても特別に好かれるタイプでもないという意味で、悪人ではないが『他者からの承認欲求・女性からの愛情や肯定』に心から飢えていて、それらを得るためには下手にでて卑屈になっても『一時のおしゃべり・性行為』のためにお金を支払っても良い(相手が演技であっても自分に優しく明るく接してくれればそれでもある程度満足できる)と考えているような人物。

こう書くと悲惨な感じにはなってくるが、現代社会ではそれほど珍しくもないコミュニケーションスキルや社会経済的能力に自信を持ちづらい性格・生き方の一類型ではあり、性風俗産業の大半のニーズはそういったメンタリティを持つ中高年男性によって満たされているともいう。

また、こういった風俗・出会いカフェを利用する男性の中には、『直接の性行為(感覚的な快楽)』よりも『心理的なふれあい(自分を認めて好意的に接してくれるコミュニケーション)』のほうに大きな価値を感じている人も多いとされ、飲み屋よりも親近感・体温を感じやすい擬似恋愛に対して納得した高額の対価を支払っているようである。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:3

近代のロマンティックラブ・イデオロギーほどの熱烈で狂気的な恋愛は、安定的な結婚・生活の次元にソフトランディングしてずっと良好な関係が続かない限りは、別離や孤独に耐えられないメンタリティのために、『殺人(心中)・自殺・ストーカー・身の持ち崩し(無職化・ホームレス化)』などのラディカルな悲劇・自滅(他害)に結末することになる。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

世界大戦後の後期近代の物語の主軸は『恋愛・結婚・家族』であり、人によっては好きな異性と結ばれて熱烈な恋愛をして安定した結婚をして家族を築いていくというのが『人生における最大の価値(それがなければ生きている価値が殆どなくなってしまうもの)』となり、『パートナーのいない人生(パートナーや家族から切り捨てられて一人で生きていく現実)』に本当に耐えられずに正気を失ったり犯罪行為にまで逸脱していく人(犯罪をしなくても自殺・無気力化・ホームレス化も含め)もある程度は出てくる。

生涯にわたって安定的に帰属できる伝統的共同体を喪失した現代人にとって、『孤独・愛情不足』は大半の人にとってかなりの心理的ダメージとなるのは確かであり、『男女関係・家族関係のトラブル』をそんなことくらいで犯罪や自滅的行為に走るのは心が弱いからだと安直に言い捨てることはできず、『異性・家族・仕事・金銭・地位・意欲を持てる活動(学び)』などの俗世的な価値や承認の要素のすべてを失ったと感じる時には、人間の精神は意外なほどの脆さを持って壊れることもあるからである。

バタイユは恋愛は肉体の結合に加えて精神の結合をも目論む『不可能性の追求(失敗に終わる企て)』だとして、恋愛は必然的に苦悩の原因にもなるとしたが、『完全な孤独を回避したい人間の本性』が、苦悩につながるとしても恋愛的な『自己を特別に承認してくれる他者』を求めずにはいられなくするのだと語った。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:2

暴力と無秩序な性は、今日(今すぐ)ではない明日の収穫(快楽)に期待する生産的労働によって生存を維持する共同体の存続を危うくするが、『労働・協働の時間』は原始の人類の意識と関心を『動物的な暴力・性』から次第に引き離していったのかもしれない。あるいは動物的な暴力・性ばかりに明け暮れて労働に関心を持てなかった原始共同体(非生産的・本能従属的な部族)は、他の生産的で協力的な共同体から討ち滅ぼされて絶滅への道をたどっただろう。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

十分な理性と自己規律(自律性)を備え始めた近代以降の教育を受けた人間は、『労働抜きの暴力の禁止』を受け入れ始めた。だが、近代以前には『小人閑居して不善を為す・働かざる者食うべからず』といった宗教的格言が示すように、『直接的・即時的な欲望を自制できない(教養・倫理・自尊の軛が不十分な教育や哲学的陶冶を受けていない)個人』に対しては、労働(その多くは思考力を奪う単純肉体労働)によって本能の欲望を遷延させたり時間的余裕を制約したりするブレーキ(労働で疲れることにより時間・欲望の余剰を暴力に転換できなくする生活リズム)が必要だったのである。

暴力と性の本能のすべてがなくなったわけではないが、ホモ・サピエンス・サピエンスとは『本能を部分的に破壊した特殊な動物』としての側面を持っている。ジョルジュ・バタイユや日本文化(個人体験)に対応する精神分析を研究した岸田秀は、妊娠出産を目的としない性行為のほうが主流となった人間を『本能が壊れた動物』として再定義し、エロティシズムについても『動物的・本能的な子作りにつながる性』から遠ざかれば遠ざかるほどに、人間は性的に興奮する特殊な性癖を獲得したという持論を展開した。

バタイユはエロティシズムの本質は『禁止と侵犯』にあるとして、『性(誕生)と死の類縁性』を指摘した。『禁止・禁忌』はそれを破った後にある背徳的な快楽や社会超越的(全能的)な栄光と裏表の関係にある。人間にとっての性行為も『禁止(わいせつ・羞恥・性道徳・動物的堕落の嫌悪など)に対する侵犯』によって興奮する仕組みを持ち、『あからさまな解放・制限や選り好みのない性(いつでも自由に行為ができるという日常性・秩序性)』はエロティシズムの魔術的な魅力を失わせてしまうという。

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