生物学的な性差のセクシャリティ自体が不平等で生殖を優先させる動物的側面を持つ。男女・イエ(部族)を超えた公平・尊重や暴力・強制の廃絶を求める近代人は倫理的だが非自然的でもあるのだろう。
『主人・嫁の言葉』が女性を独立した主体(個人)として見なしておらず、男性やイエの下位にある身分・役割を表象する男女差別的な言葉ではないかと言われれば、無論、歴史的に見て『女性が独立した経済・意識の主体として生きられた時代』は殆どなかったという意味においてそうだ。男性もまた近代以前は個人ではないが。
近代的な自由で平等な個人は、現実の歴史・生活・労働の実態に即せば、『啓蒙主義的・イデア的なフィクション』に過ぎない。近代以降の身分制や強制権力(共同体構成員に死を命令する事もできる公権力)を弱めてきた歴史は『社会的動物(生産的生殖的な構成員)としての上下・役割・身分の意識の解体的自由化』でもあった。
結婚制度・家族や国家・企業労働などにおいて、『主人・嫁のような関係性・上下関係・役割分担を示す概念』は男女に限らず上司と部下、為政者と被統治者、経営者(資本家)と労働者などさまざまな二項対立概念としてあるが、それらは現時点において『廃止すべき賞味期限の切れた時代遅れの概念』とまでは言えない。なぜか。
続きを読む 『主人・嫁の言葉』は女性差別的なのか?、 ヴォーボワールの『第二の性』とジェンダー問題:原理主義の男女平等化はなぜ不可能なのか?