麻生太郎氏はナチスやヒトラーが歴史的に体現した『功利的かつ熱狂的な全体主義・総統崇拝・弱者切捨て』について、人権を無視してでもドイツ強大化の結果を出したんだと肯定的に見ている節はあるが…
麻生氏、ヒトラー巡る発言を撤回 「誤解招き遺憾」
ナチスドイツやアドルフ・ヒトラーは、ヨーロッパとユダヤにおける『世界史上の絶対悪』の位置づけにあるが、一方でナチスやヒトラーの関連書籍・関連作品は内容は色々だが根強い人気があり、『ネオナチ・ナチス賛美』でなくても『功利的・機能的かつ熱狂的・野心的な全体主義』は人の心を酔わせる誘惑力は持っている。
ナチスの軍服・意匠・ハーケンクロイツを公の場で身にまとうこと、コスプレやファッションであっても著名人がそのデザインを用いることは、国際的にバッシングされるが、それはナチスが歴史的な絶対悪とされているだけでなく、ナチスの軍服や鉤十字のデザインと秩序の感覚がどこか人の意識を惹きつけるからもある。
アドルフ・ヒトラーというナチスドイツに絶対権力者として君臨した個人にしても、チャップリンが独裁者でコメディ化したり、戦後に欧米諸国が極悪人・狂気の人非人として宣伝を繰り返したが、ある種の『カリスマ的指導者・扇動演説の天才』であった事実は否定しがたいものとしてある。情勢と魅力がなければ権力集中は難しい。
ある時代背景・生活状況・心理状態に追い込まれた民族・国民が聞いたり読んだりすれば、ヒトラーの扇動的な文書・野心的な演説は非常に誘惑的だった。『偉大な我々を屈辱と貧苦に追い込んだのは寄生するユダヤ人だ』『我々アーリア人は世界で最高の力を持つ民族である』という悪意・憎悪・自尊を結集させ暴力を噴出させた。
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司馬遼太郎が高度成長期前の景気・給料の悪かった(会社勤めが増え始めた)昭和30年代にサラリーマンは『良き伴侶を得て家庭を作る為に働く家庭業』と記したが、旧時代のジェンダー(結婚出産が当然の時代論)と同時に現代にも通ず『勤め人が仕事自体が嫌でも働く意味』を示す。今の若者が勤め人に苦悩し迷う由縁でもあるか。
司馬の語る『サラリーマン』と『芸術家』の価値観や生き方の差異と、いずれの生き方をしても貴賎はなく運命を享受する他ないとする物言いは共感させられる部分も多いが、こういった処世術的なエッセイを書いていた時代の司馬はまだ新聞記者の一介のサラリーマンで、歴史小説家として踏み出すか迷いの時期でもあっただろう。
こういった話とも不思議と重なるが、現代の20?30代のイケイケ風の若い女性が書いたエッセイに『散々やりたいことをやって、結婚・出産でもしないとやることがなくなった(何をしても同じ事の繰り返しに感じた)』と書いていてなるほど確かに多くはそこに行き着く、司馬のいう家庭業としてのサラリーマンとも関連する。
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冒険家として知られる植村直己(1941-1984)は、1984年の冬季マッキンリー(デナリ)の単独登頂後に行方不明となり死亡認定されたが、1980年代というのは未踏の高峰・密林や過酷環境の横断(縦走)という『人類の限界挑戦の課題』が終わりを迎えようとしていた時期であった。
人類が登頂していない世界の未踏峰が消え、人類の能力で横断・縦走に成功していない過酷環境の土地が無くなりかけていたのが1980年代半ばであり、植村直己自身も『次の冒険の宛先』を見失いかけていた。
次の冒険として北極点到達に続く『厳冬期のエベレスト登頂・南極点単独犬ぞり探検』が計画されてはいたが、エベレストは竹中昇の死去・悪天で断念し、南極点もフォークランド紛争勃発で軍の協力が得られなくなって諦めていた。
北米大陸最高峰のマッキンリー(6,190m)はアメリカの大統領ウィリアム・マッキンリーにちなんだものだが、2015年にアラスカ先住民が呼んでいた元々の山名である『デナリ』に変更されることになり(こういった一度は土地の支配者による命名が為された後に、再び原住民の元の呼称に戻るという名前変更は近年では政治的正しさの影響で多くなっているようだ)、マッキンリーという慣れ親しんだ山の名前は公式には消えたことになる。
植村にとってマッキンリーは既に1970年に登頂した山であり、この時に世界初の五大陸最高峰登頂者にもなっていたが、厳冬期に敢えて登ってみるという以上の意味合いはなく、この登山そのものは植村の個人的な意思に基づくもので、スポンサーはつかず注目もされていなかった。植村は自分自身の冒険に区切りがついたら野外学校設立を目指してもいたので、インターバル的なマッキンリー登山(厳冬期の死亡率はエベレスト以上に高い山だが)で遭難死したのは運命ではあった。
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