「人生哲学」タグアーカイブ

吉本隆明の『反権力・脱政治・大衆論』から日本の政治状況・国民の意識を見る:1

現在の日本では『憲法・安全保障・外交政策(対中国・朝鮮半島)』を巡る対立が、『右翼(民族主義・権力志向・反個人主義)と左翼(人権主義・反権力志向・個人主義)の二項図式』で語られることが多い。

こういった語法は本来の右翼(保守)と左翼(革新)の定義とは関係がないものだが、日本では『自由・平等・人権・護憲・平和・個人の尊重』などは、ネトウヨとも呼ばれる右翼目線では、国家の集合主義的な総合力を低下させる『左翼的な思想・概念』として扱われることが多い。

反体制派の左翼とは、日本の歴史では共産党・社会党(社民党)・全共闘運動・左翼過激派などと関係する『共産主義者(社会主義者)・反資本主義者・反米主義者(反米の文脈での平和主義運動家)』などを指してきたが、今のネットで言われているサヨクはそういった共産主義・社会主義よりもむしろ『個人主義・自由主義(権力からの自由を重視して集団主義的な強制に抵抗する思想)』と深く関係しているように見える。

本来の右翼と左翼の定義から外れてきた、現代のネット上における政治的・思想的に対立する立場を『ウヨク・サヨク』と表記する。

日本人の民族的統合と仮想敵(中国・朝鮮半島)に対する戦闘の構えを強調するウヨクは、民族・国家単位のイデオロギーや軍事増強にこだわらずに『個人の自由・権利・平和』を普遍的価値として強調するサヨクを『反日勢力・お花畑・非現実的な空論家』と揶揄することが多い。

国家の威厳と個人の幸福が一体化しているような拡張自己の思想であり、実際の戦争や自己負担にまで率先して参加するかは分からないが、言葉の上では『私(個人)よりも国家(権力)の拡張』という価値観を提示する。

続きを読む 吉本隆明の『反権力・脱政治・大衆論』から日本の政治状況・国民の意識を見る:1

一部の若い女性が『キモいオッサン』を狙って盗撮しSNSに投稿!現代の虚しい『ビジュアリティ優先・優越感ゲームの享楽文化』

労働や内面の価値を軽んじる外見・若さのみの価値判断が前景に出た『ビジュアリティ・優越ゲームの享楽文化』は、拝金主義や技術進歩、知覚的快楽が支配的な現代の宿痾か……。

「キモいオッサン」ねらう盗撮が流行! 若い女性が疲れた中年男性たちをSNSで笑いものに

生身の人間が汗水流し働き、他者を支えるマンパワーの評価が、過去に比べ格段に低下し、結果、『勤勉・責任・経験や知性などの非ビジュアリティの領域で尊重の価値評価をされていたオッサンや老人』がカネ以外に価値の乏しい人間として笑いや利用の対象となる、現代におけるある種の人の本性の醜悪さの露見は哀れで虚しい。

若者の『○○離れ・意欲低下』にせよ、中高年の『メンタルヘルスの悪化・自殺や犯罪』にせよ、その背景には労働や内面、努力の価値を適正に評価し人として敬意や処遇、愛情を与えてくれる『非ビジュアリティ・非知覚快楽の領域におけるマンパワーの評価』が欠落しやすい現代の享楽文化・冷笑的な人間性の弱まりの傾向はある。

続きを読む 一部の若い女性が『キモいオッサン』を狙って盗撮しSNSに投稿!現代の虚しい『ビジュアリティ優先・優越感ゲームの享楽文化』

気にしても変わらないことは気にしないの処世訓。AKB48渡辺麻友が語る「まじめさの損得」と「まじめさの戦略」

気にしても変えられない事は気にしても意味がないが、それを『頭で理解する事』と『実際にできる事』には落差がある。“対人的な気にしすぎ”はこれだけ悩んだんだから許して・認めてのまじない的期待もある。

アナタのその息苦しさは“気にしすぎ症候群”が理由? 改善に役立つ5つのヒント

当事者の相手に伝わるはずもないところや直接的な問題と関わりのないところで、自分の内面だけで『悩む・迷う・苦しむ』というのは、『完全主義欲求の現れ』であると同時に『メンタルリハーサルによる自己弁護・自己補強』でもある。これだけ悩んだ、こんなに迷ったのだから、良い結果をの願掛けは多くの人がやっていたり。

続きを読む 気にしても変わらないことは気にしないの処世訓。AKB48渡辺麻友が語る「まじめさの損得」と「まじめさの戦略」

アルトゥール・ショーペンハウアーの言葉から見る“人間に対する人間の評価+世俗のカルチャー(俗悪の欲望系)に合わない自己像との向き合い方”

相手と醜い言い争いをしているとき、相手にされたことを自分も同じようにやり返したいという復讐心を示したときに、『相手と同じ低いレベルに落ちてしまうという認識』からそれをやめようとする人がいる。

自らに相応の知性・教養が備わっていると自負する者が、『酒・女・博打・あぶく銭のみが共通の話題のカルチャー』になっている集団社会や人間関係に投げ込まれたとき、『自分はこんな場所にいるべき存在じゃない・自分の内面や知性が認めてもらえない環境は苦しい』などと悲嘆することもあるだろう。

一般的な人間関係でも異性関係でも、いくら内面(人間性・知性)を磨いても、その内面を正しく評価できるだけの認識や感受性を持った相手に見てもらえなければ、自分が思うような評価は受けられないのが常である。

結果、世の大勢の人は『置かれた環境・周囲の人間・共通の話題・支配的なカルチャー』によって自分自身の知性・世界観を錬磨するモチベーションを失っていき、ある種の階層分化の中で自分を曲げないもの(場や相手に見合ったレベルの自己像を提示して打ち解けないもの)は適応を失っていくことにもなる。

人間の人間に対する評価の仕方(ある人の知性と認識の器の上限を越えて他者を見ることができないこと)について、人生哲学のアフォリズムを多く残したアルトゥール・ショーペンハウアーは次のように言う。

“誰でも己を越えて他人を見ることができない。すなわち人は誰しも自分自身と同じ大きさで他人を見ているのだ。それというのも人は自分の知性の尺度に従って他人を捉え、理解することができるだけだからである。ある人の知性が劣っていれば、他人のどんなに素晴らしい精神的素養、それが最高に優れている素質であっても、その人には何の働きかけもできないで終わるだろう。そんな人は優れた素質の持ち主にあってもその優れた人の個性の中の最も程度の低いもの、すなわち弱点や性格、気質上の欠陥以上のものを見ようとはしない。優れた人といえども、こんな連中にとっては単なる欠陥の寄せ集めに過ぎないということになる。”

続きを読む アルトゥール・ショーペンハウアーの言葉から見る“人間に対する人間の評価+世俗のカルチャー(俗悪の欲望系)に合わない自己像との向き合い方”

“現状がまずまず良い”なら結婚していれば結婚して良かったと思い、結婚していなければ結婚しなくて良かったと思うだろう。

結論から言えば、人間は自分が選んだ重要な人生の分岐点について、『自己正当化のバイアス』が強くかかる、自分が覚悟を決めて選んだ選択を間違っていたとは思いたくないものなのである。

なぜなら、人間の人生はF.ニーチェが言うように『一回性』のものであり、一度目の人生は結婚してみて、二度目の人生は独身を続けてみて、そして三度目の人生は二つを比較して冷静に決めてみよう(一度目と二度目とは違うタイプの相手にしてみよう)というような、あれもこれものお試しができない運命的な構造に取り込まれているからである。

結婚は人生の墓場なのか?

人生がただ一度切りのものであり、有限の時間に分節され老いてゆく定めにあるということ、この余りにも厳然たる事実こそが人の実存的なあり方を決定しているといっても過言ではない。

人が永遠に若くて魅力的でエネルギッシュでいられるなら、別にいつ結婚しても離婚してもそれは人生の重要な選択肢とはなりえない、真剣な努力や選択の機会は激減していくだろう。永遠でなくても1万年も2万年も若い時代における時間があるなら、10年でも50年でも結婚生活を何百回でも好きなだけやり直すことができるし、1人の相手とだけ1万年以上の生活時間を淡々と過ごすというのはどんなに素敵で魅力的な人でもちょっと難しいかもしれない。

『私の背負っている現実』は、ああすれば良かったこうすれば良かったと迷い悩みながらも、淡々と有限の時間軸の中を生きる私を前に進めて、『可能的な選択肢』を削り取っていく、最終的には生命の炎はゆらぎ弱まり吹き消されてしまう。

だから人は、自分が幸福な人生を歩んだという納得や実感が得たいのであれば、『私が選んだこの人生や相手、生き方は正しかったのだ』と思い込み信じ抜く他はない。自分の人生が悪くはなかったと思い込めない、信じ抜けない生は辛くて苦しくて惨めなものとなる。

自分の人生が虚しくて無意味だった(本当はこんなつまらない人生は嫌だったのに)と思いながら死んでいく、これは有限の存在である人間の最大の恐怖の一つと言っていいかもしれない。何度も他者を傷つけるような凶悪累犯者に転落していく人の多くは、この最大の恐怖と惨めさに自意識と人生のプロセスを絡め取られた人でもあるだろうし、犯罪を犯さなくても自分の今までの人生が晩年になって肯定できなくなるのは非常につらく逃れがたき重石となり得る。

F.ニーチェはこれを、何千回、何万回、無限に生まれ変わったとしても、私は今とまったく同じこの人生をやり直したい、私たち人間は今生きている人生に絶対的に『然り(これで良い・何度やり直せてもこの生き方が正解だ)』ということができるような人生を生きなければならないとした。

続きを読む “現状がまずまず良い”なら結婚していれば結婚して良かったと思い、結婚していなければ結婚しなくて良かったと思うだろう。

若者の『○○離れ』:雇用構造の変化・将来不安・脱コミュニティ化・自他の分離との相関

若者の『○○離れ』の多くは、『お金がかかるモノ・活動・嗜好品からの離脱』として解釈できるが、『活字離れ』は記事にあるように電子ブックも含めた『ディスプレイを介したテキストの閲覧』にかなり置き換えられた影響もあるだろう。

『テレビ離れ』もウェブとの競合によって視聴時間が減少したと見ることもできるが、テレビの視聴率に占める中高年層の割合が高いために、『高齢者に合わせた番組・広告・ニュース・社会時評の編成』が多くなり、若者にとって必ずしも見て面白いメディアではなくなってきていることも影響している。

若者が離れているものランキング Top5

若年層の雇用構造の変化は『非正規雇用率・低賃金労働率の上昇』をもたらしているが、このことは『今のまま働いていればいずれ自分は中流階層になれるだろうという合理的予測』を困難にし、『将来不安・貧困回避のための節約・貯蓄の姿勢』を強めることになる。

もう一つはブラック企業問題やワーク・ライフバランス志向とも重なるが、日本の企業社会における働き方の選択肢は『フルタイムで丸一日を費やす長時間労働をする』か『パートタイム(非正規・バイト)で短時間労働をするか』しかなく、『ほどほどに働いてある程度余裕のある収入を得る』ということが実際には難しい。

“お金・中流的な消費スタイル”を重視するか、“時間・節約的な消費スタイル”を重視するかで若年世代ほど価値判断の個別の違いも大きくなっているが、お金と時間とやり甲斐を両立させられるような幸運なワークスタイルを確立できる人は少数派である。

続きを読む 若者の『○○離れ』:雇用構造の変化・将来不安・脱コミュニティ化・自他の分離との相関