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学歴とは“個人の能力と意思の指標・社会階層・親の社会資本・教養文化(専門志向)”を想像させるアマルガム(融合)

学歴は『努力の証明書』というのは一面の事実を含むが、学力・学歴を巡る競争は厳密には遺伝(適性)・環境・意思における『機会の平等』を担保していないという意味(生まれてきた時点と育てられている過程においてスタートラインが大きく前後してしまうという意味)では、『本人の自己責任と努力の帰結』として片付ける事が難しいものでもある。

現代でこそ、学歴インフレによって大学の難易度を問わなければ、過半の人が『大卒』になれる可能性には開かれているが、本当の意味で『勉強・知的作業・知的生活(教養文化)・専門家の訓練への適性』のある人というのはかなり限られている。

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多くの人は名目上は大卒であっても、本当の意味で知的な活動・研究や専門的なトレーニングが好きなわけでもなく、就職に有利であるからとか将来何らかの役に立ちそう(不利益にならなさそう)とかいう理由で進学しているわけだが、一定以上の学力があると推測できる大学の名前は『その場において求められている勉強・資格取得などに取り組める人材』の最低ラインを担保していると見なすことは可能だろう。

近代社会における学歴というか大学教育の主要な機能は『知識と数理の操作活用能力を試す形の社会的・職業的・知的なスクリーニング』であるが、端的には『高級官吏・専門家・研究者・教育者・企業の幹部候補・知識人(文化人)』としての適性が高いとみなせる人材を学生段階で効率的に選別するシステムとして大学教育は国家や企業、学校に利用されてきた歴史を持つ。

そのことが高学歴であるほど、一般に就職に有利(所得が高くなりやすい)と言われることにつながっているが、現代では高学歴ワーキングプアや就職した企業とのミスマッチ(早期離職後の就職難)、本人のメンタルヘルスの脆弱性などの問題もあって、傾向性としての高学歴優位は変わらないが(そのように官庁・企業・専門業種の序列的な階層構造が設計されていて社会上層の高学歴者の人的ネットワークがあるのだから当たり前だが)、個別事例では学歴があっても経済社会への適応性は高くないというケースも少なからずあるだろう。

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読書と恋愛:“教養・語彙・話題(ジャンル)”による相性もあるが、読書は基本的に孤独な営み

『読書をする人』と『読書をしない人』のどちらが異性に好かれるかは、相手が読書をする人か否かにかなり左右されるし、『読書で得た知識・話題・物語を相手に興味を持たせて聴かせる会話力』にも影響される。

世の中の人の過半は『本を習慣的には読まない人・細かな知識を欲さない人(蘊蓄・教養を深めない人)』であるから、『自分が読んでいるジャンル・本』について一方的に語っても、その内容や理論、知識について真剣に聴いてもらえる可能性は低い。

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何らかのジャンルや本について読み込んでいるからといって、それが恋愛上の魅力になるとは考えにくいし、『本・知識が嫌いな女性(話題を深く掘り下げるような会話を好まない女性)』も少なからずいるので、相手によるしケースバイケースだろう。

単純に外見・性格が好みの相手や収入が良い相手とどこかに楽しく遊びに出かけるだけで満足、ごちゃごちゃ小難しい話をするより買い物・レジャー・グルメのほうが良い、知識・教養などより結果としていくら稼ぐかの実利と生活のほうが大切だという女性も少なくないし(むしろ一般的な恋愛では多数派かもしれないし)、男女間における『話題・人間性の深み』というのは求められているようで求められていないといった曖昧かつ微妙なものである。

話題・人間性の深みや知的根拠へのこだわりを見せすぎることによって、『面倒臭い人間』として敬遠されることも多々ある。世渡りや男女関係では、少しシンプルで感情的でバカっぽく見せるくらいがちょうどいいし、『思考的・言語的』であるよりは『行動的・共感的』であるほうが『実利が多い・生活に役立つ』という意味で魅力的でもある。

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動物としての義務や社会貢献の義務から考える“子無し税”と“呪縛されし近代人の生殖と労働+必然的少子化の時代”

「子無し税」議論 様々な意見噴出

行為選択の自由意思が働かない自然界には義務も責任も権利もない。何より出産や育児にカネがかからず学校も税金も年金もない、子育てに失敗も成功もない。

シマウマに飛びかかって殺害し捕食したライオン、弱者を集団で痛めつけて群れから排除するチンパンジー、ハーレムの雄を追い出して雌を強姦し子を殺したゴリラ、小鳥に鋭い爪を突き立てて捕食する鷲、これらの動物個体は『他者の権利(生存権・人格権)』を侵害した犯罪者ではない。

動物には概念操作の共有によって守られる権利も義務もなく、遺伝子のプログラムと環境条件と自然界の摂理(暴力的競争・自然選択・性選択・突然変異)に従って導き出される冷厳な現実の積み重ねだけがある。

子孫を残すのは『動物としての義務』という使い古されたクリシェ(定型句)はあるが、正確には動物としての自己遺伝子保存は『意思的・強制的な義務』ではなく『遺伝子情報のプログラム』であり、人間の選択的な生殖活動(相手の選択・婚姻や出産の選択・価値判断の選択)は動物的次元ほどにはプログラム化(自動化)されていない。

ヒト以外の動物は価値判断をしないために、哲学史において『機械主義的な自然観』は未だ説得力を持つし、よくよく考えれば『自己遺伝子の保存の意味』すら動物は何ら意識的に思考しているわけではなく、『個体としての自我意識・損得感情』によって性的・生存的な競争をしているわけでもないのだ。

気づけばただ現実の結果として、ある個体が生存を維持しある個体の遺伝子が複製されていた(性選択に成功した)というだけであり(厳密にはその結果の含む意味・仕組みに気づける個体そのものが人間という種以外にはいないのだ)、深く考えれば『自然界の摂理・動物だけの世界』というのは自動的・機械的なものでかなり恐ろしい感覚を刺激する不可解さ、無意味さに満ちている。

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映画『悼む人』の感想

総合評価 80点/100点

天童荒太の原作『悼む人』『静人日記』は随分と前に読んでいて記憶も曖昧だったのだが、映画冒頭の特異な宗教のような礼拝儀礼、ぶつぶつとつぶやき続ける『知らない故人(死者)の人生の良かった部分だけを心に刻み付ける述懐の言葉』を聞いて、死者をひたすらに偲ぶ旅を続ける青年が主役のストーリーを思い出した。

登山用のザックにソフトシェルのジャケット、擦り切れたジーンズといったバックパッカー風の恰好で、全国の事故・事件で死んだ死者のエピソードを親族・関係者から聞き、ひたすらに独自の述懐と礼拝儀礼で悼む不可思議な旅を続けている坂築静人(さかつきしずと,高良健吾)。

故人について聞き出せる範囲のことを聞いた静人は片膝で跪き、“あなたは誰かを愛し誰かに愛され、何々をして感謝され必要とされ、懸命に価値ある人生を生きてきました。わたしはあなたのことを覚えておきます”といった一連の悼みの文句を儀式的に述懐して胸に手を当てる。

親族でも友人知人でもない人間がいきなり、誰かが死んだ場所にやってきてそんな宗教的な儀礼を勝手に行っているのだから、常識的には奇人変人の類と見なされ、時にカルト宗教や悪質な冷やかし(嫌がらせ)と間違われて、あからさまな侮蔑・非難の言葉を浴びせられたりもするが、『死者の良い過去の記憶・好ましい性格や事績』について真摯に聞いてずっと覚えておきたいと願う静人の態度に、精神的な慰撫や感謝を感じる遺族も少なからずいる。

静人の悼みの礼拝儀礼は、『天』から何かを掻き集め、『地』からも何かを掻き集めて、胸の部分にまとめて祈るという形式だが、小説中では『片膝をついて手を天と地に向けてひらひらとさせる不可思議な動作による儀礼』といった描写がなされており、映画ではその悼みの儀礼が自然な一連の様式美を感じるような動作として映像化されている。

会社をやめて諸国を着た切り雀で放浪しながら悼みの旅を続ける坂築静人、彼が俗世を捨てたかのような生き方に導かれた原因は、自分を可愛がってくれた祖父の自殺にも見える奇妙な海での溺死、誠実な医師として懸命に働いていた親友の過労死である。祖父が死んだ時に母が『死者の記憶を胸の中に入れて忘れないようにしておきなさい』といった言葉を掛けてくれたが、静人は仕事に追われる忙しい日々の中で、決して忘れまいと思っていた医師だった親友の命日を忘れてしまっていた。

命日が過ぎ去った後、親友の命日を思い出した時に『いずれ誰からも忘れ去られて消えてゆく死者』『毎日のように膨大無数の死者が生まれて忘れ去られてゆく生者中心の無常の世界』が、俗世で自分のためだけに生きている静人に絶望的な空しさと危機的な抑うつをもたらした。

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『ゼロリスクの安全・快適・清潔』を追求する現代社会と私たちはどこに向かうのか?

現代は『ゼロリスクの安全・快適・清潔』を追求し、リスクある行動をして失敗すれば『自己責任・社会的コスト(迷惑・税金の無駄)』と批判されるが、本来人生も自然も不確実性との戯れの中に充実や美感がある。

「嫌い」「危ない」で消える学校の風景、過保護の代償

予定調和の決まりきったコースを進むだけの人生、自然の多様性や危険性から文明・科学のバリアで守られきった生活、新たな出会いや挑戦から遠ざけられて安全圏の中に留まる日常…それらは近代社会が理想としてきた『揺籃から墓場までの安全安心』の典型だが、人間が生きる意義・高揚を摩滅させてきたものでもある。

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草彅剛のドラマ『銭の戦争』の感想とお嬢様・お坊ちゃんらしさを感じる要因

ドラマ『銭の戦争』で、転落した草彅が元カノでお嬢様の木村文乃に『俺の洗練された上流階級ぶった態度は金の余裕に立ったものに過ぎなかった』的な台詞があったが、真の育ちの良さは『所与の経済力・家の後見』を失っても尚残るものなのかもしれない。

男性が「育ちが良さそうだな」と思う女性の特徴ランキング

このドラマ、経済社会の世間体・見栄・階層を生きる人間の俗物性や本音をあぶり出すような場面が多々あって、だいぶ前の松山ケンイチの『銭ゲバ』に似た面白さと考えさせられる要所がある。東大卒・外資金融から転落した草剛と高校中退・銭ゲバ闇金の渡部篤郎のコンビで、高学歴+富裕層の集いに押しかける場面も秀逸で面白かった。

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