SNEP(孤立無業者)というのは、20~35歳未満に限定されるNEETの概念を拡大したものと考えることができるが、現代社会は『何もしなくてもつながっているという所与の地縁・血縁・所属先』がなくなってきた時代であり、雇用・仕事と収入を基盤にして関係性と帰属先のネットワークが張り巡らされて維持されていることが多い。
そのため、仕事を失って無収入となり帰属先(職場とその人間関係)を失うと、家族以外との関係性がなくなる人は大多数であり、仮に結婚していても長期にわたって仕事と収入がなかったり労働意欲が弱ったりすれば、(配偶者がよほど稼いでいて収入がずっとなくてもOKという人ならともかく)生活そのものが成り立たなくなるので離婚せざるを得ない状況になりやすい。
仕事・収入がなくても、友人関係や異性関係だけが充実しているというのは、よほど魅力的なパーソナリティーか相手を楽しませるコミュニケーション能力がある人に限られるが、そういった魅力・能力があって更に人とも積極的に関係する行動力があれば、特段の資格・職能がなくても必然的にサービス業をはじめとして何らかの仕事にはありつけるものでもある。
安定した職業で働いていても、対人的な魅力・話術やコミュニケーションの積極性が欠けているために孤立しがちな人も当然いるわけだが、仕事と収入がない状況だと『誰かと関わりを持つ際に必要になる最低限のお金』を自分で準備できなくなり、相手からの折角の誘いがあってもお金を理由にして断らざるを得なくなる場面が増えてくる。親しい相手からおごってもらえるとしても、毎回それだと自尊心の傷つきや不甲斐なさを感じて、一緒にいることが苦痛にもなってくる。
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“過剰な自己顕示・自慢”と“攻撃的な他者否定・批判”というのは、一般に人から嫌われるコミュニケーションの典型だが、特に『話している相手と自分との直接的な比較(自分を上の立場に置いた比較)』に基づく自慢・批判・説教・ダメだしの類は、まず人間関係を疎遠にさせるか険悪にさせるだろう。
自己顕示や自慢のすべてが悪いわけではなく、『相手の状況・気分・価値観を斟酌した上での自己顕示』や『相手のメリットにもなる嫌味のない自慢』であれば問題はないし、上手くいっている状況が拮抗した者同士の自慢は切磋琢磨の動因になることもある。
なぜアイツはいちいち気に障るのか?「余計な一言」5大地雷を解剖
攻撃的な他者否定や批判というのも、『相手を直接に否定・侮辱・ダメだしするような言動』は怒りや嫌悪を買うことになりやすいが、『お互いの価値観と照らして許せないタイプの相手(共通の敵)の否定・お互いの利害や人格、感情にあまり関係しない第三者(著名人・公人など)の批判』であれば、毒のあるやり取り、ストレス解消的な攻撃性の発露も問題ないだろう。
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本多勝一(ほんだかついち)の『日本人の冒険と「創造的な登山」』は1970年代に書かれたものだが、日本社会あるいはマジョリティの日本人がなぜ『冒険的・探検的な試み』を嫌って恐れるのかを冒頭で検証していて興味深い。
そして、この死ぬかもしれない人間の身体的限界(エクスペディション)に迫るような冒険・探検を『無謀・迷惑かつ無意味なチャレンジ』として嫌う基本的な性向は、現代の日本にまで連続していると見て概ね間違いはない。
今でも『山の遭難・海の事故』などに対して様々な角度から罵倒や嘲笑が投げかけられるのは常であるし、『初めから危険な場所に行かなければいいのに・おとなしく普通に暮らしていればいいのに』という考え方は一般的なものでもある。
最初に取り上げられるのは、1962年に単独で小型ヨットで太平洋横断(アメリカ渡航)を果たした堀江謙一青年だが、日本のメディアや文化人の論評では堀江の扱いは『太平洋横断の超人的偉業を成し遂げた』ではなく『両国政府の許可を得ていない密入国で犯罪ではないか(冒険を評価するよりも違法行為や無謀な挑戦を戒めるべき・アメリカからも非難されて逮捕されるのではないか)』というものであった。
だが、アメリカは不法入国した堀江謙一を逮捕するどころか、勝海舟の咸臨丸によるアメリカ来航以来の日本人による太平洋横断の快挙として賞賛、堀江を『名誉市民』として認定して好意的なインタビューが行われた。アメリカのマスメディアや行政の反応を見た日本の政府やマスメディアの対応は180度転換して、『人力による太平洋横断の功績』を評価するようになったが、日本社会だけでは堀江謙一が評価されることはなかったと思われる。
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“死・末期(忌み事)”を意識させられたくない元気な高齢者が増えているのは分かるが、名称だけ『若年・熟年高齢者』と改めても『人間の有限性・医療の必要性の現実』まで言霊で変える事はできない…。
<後期高齢者医療制度>厚労相、「熟年」など別の名称に意欲
経済環境や人間関係がそれほど悪くないという前提条件はあるが、現代ほど『若さ・元気・生』が希求され『老い・衰弱・死』が忌避されている時代はかつて無かった。70代以上の人であっても老成・円熟の担い手になりたがる人は減り、若さと元気、快感を求める生涯現役タイプが増えたのは時代の恩恵だがその分、葛藤も増えた。
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ピーター・ドラッカーというと『マネジメントの創始者・実践的な経営学や組織論』というイメージが強いが、個人レベルの時間管理術やワークスタイルでは『選択と集中・強み(得意)への集中投資』を主張した。
時間と労力の有限性を前提として、『苦手なこと・嫌いなことを克服するための労力』よりも『得意なこと・好きなことを練磨するための労力』のほうに時間を費やすほうが、『単位時間あたりの成果・結果』は格段に大きくなるということを強調した。SWOT分析の原型めいた考え方である。
それは苦手なことや嫌いなことを克服する場合には、その成果が『人並みになること(平均に何とか追いつくこと)』に留まりやすいのに対して、得意なことや好きなことを練磨する場合は、『人並み以上になること(大半の人ができない水準に至ること)』になるからでもある。
最も問題なのは、嫌々ながら不平不満を持ちながら仕事や勉強をすることは、結果のパフォーマンスを落とすだけではなく、致命的なミスや他人に対する危害にまで発展する恐れがあるということである。好きか嫌いかという以上に『自発的にやり甲斐・面白さを見つけられるセンス』が大切になってくるが、『自分が好きと思える集中できる要素+誰か・何かの役に立って貢献できているという感覚』がなければ仕事も勉強も上手くいかないし、人生全体も苦行めいたものになりやすい。
義務教育段階では五教科の平均を均しながら高めるような方法が重視されやすいが、人生全般における時間・労力の使い方では『自分が自発的に努力できる結果もだせそうな領域・活動』に集中投資したほうが得られるものは多くなりやすい。働くことや学ぶことが苦痛・義務ばかりになればいずれはその活動から遠ざかりやすいが、そこに楽しみ・充実・承認などを感じられれば、今やっている仕事・学びをもっと高めて極めたいとするモチベーションにもなる。
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レヴィナスは他者との対峙や対話が生み出す倫理の起点を『汝、殺すなかれ』の根本規範に求めており、『他者の顔』と向き合って語り合おうとするものは決してその人を殺せないが、『他者のカテゴライズされた観念(敵対者・犯罪者・異民族・異常者として分類された実際に顔を見ないままの他者)』だけを頭の中で考え続ける人は、戦争・虐殺・殺人(重犯罪)・処刑・監禁拷問・放置(見殺し)などあらゆる残酷な行為を他者に対して行うことが潜在的に可能であるとした。
能力的には殺せるのに殺さない(『顔(相手の人格・背景)』と向き合った相手を殺したくないと思う)のが人倫の基盤であり、現実的には見捨てていっても良いのに見捨てずに援助するのが人間性の発露なのだというのがレヴィナスの倫理学的思考であるが、その根底には原始的時代における『カニバリズム(人肉食)の禁忌』という文明的・人倫的な感受性の芽生えが置かれている。
その人倫・人間性を信頼できなくなった人間は、類似した価値観や生き方を持つ仲間集団から外れた異質な他者を排除しようとする『全体主義の暴力機構(管理・支配・懲罰のシステム)』を自ら作り上げていくとした。更に現代では『機会の平等の前提・結果から類推される能力や努力の高低』によってすべてが自己責任(自業自得)として帰結されたり、かなりの人が『他者を助ける余裕がない存在としての弱者意識(被害者意識)』を持つようになったことで、他者の顔と向き合うことにある種の恐れとプレッシャー、煩わしさを感じやすくなった。
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