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生殖補助医療で女性は『第三者からの卵子提供』に抵抗が強い:第三者の精子・卵子の提供を自由化(ビジネス化)することの倫理的問題

養子を貰うのではなく、不妊治療をしている夫婦の動機づけには通常『自分の遺伝子を継ぐ子が欲しい』がある。そこを考えれば、女性(妻)だけが第三者の卵子提供を受けるという事に抵抗(代理母的な不本意な思い)が出ることは当然想定される事だろう。

<生殖補助医療>第三者から卵子「望む」男性は女性の2倍 (毎日新聞 – 06月05日 23:15)

アメリカでは第三者からの精子・卵子の提供の自由化(ビジネス化)が進んでいるとも言われるが、突き詰めると好ましい外見・能力・履歴を持つ第三者の精子・卵子を組み合わせる(自らの配偶子と組み合わせる)『デザイナー・ベビー』の倫理的問題も生じ、『不妊治療と異なる優生思想的な目的・動機』が前面に出てくる。

デザイナーベビーや試験管ベビーとかが、生命倫理学的なテーマとして取り上げられる事があるが、その根底には『犠牲なき生命の選別とビジネス化・恋愛(性交渉)の同意なき生殖や育児など科学主義的・恣意的な優生思想』の問題がある。そこに不妊治療の正当性や代理母の要請が絡むと、倫理的是非の判断は複雑になる。

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出生前診断で異常が判明した夫婦・女性の96%が中絶:遺伝子異常・奇形が事前に分かってしまう事で生まれる問題

障害・疾患・高齢・虚弱とその負担を敬遠する優生学の倫理的是非とも関わるが、現代では出生前診断・中絶以前に『出生数(中絶数含む)の減少』という意識的な各種選択による間接の優生学が進む影響も大きい。

<新型出生前診断>異常判明の96%中絶 利用拡大

出生前診断の結果に基づく中絶は、検査をする時点で『パーソン論(人権・生存権は出生後の意識的人格と切り離せない・中枢神経系が未熟な周期の胎児は新生児同等の権利主体ではない)+生命の選別の契機』を含むのでどんな障害や奇形でも中絶しない『生命至上主義』の信念や心情がある人は初めから検査をしないとも言える。

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絵に描いたような『看取られる安楽死』は、近代的自我が求める:自然死が消えた現代における死に方

安楽死選んだ女性 最後の16時間の一部に密着

『安楽死』は『尊厳死』と言われることもあるが、尊厳死でいう『尊厳』とは概ね以下の要因に基づいていて、『近代的自我・脳機能』と相関している。

1.『認識・意思・自意識・自律』に関する最低限度の脳機能(精神機能)が維持されていること。

植物状態や脳死に近づいて何も認識できなくなり自分が誰かもわからなくなり、事前に表明されていた本人の意思に反してでも無理に周囲が生かそうとする時に、尊厳が失われる。

2.回復する見込みのない致命的疾患が発症・進行しているが、その苦痛・苦悶が平均的な人間の耐え得る限度を超えないレベルにまで緩和されている。あるいは本人がその苦痛・苦悶に何とか耐えられる(耐えることに意味がある)と認識して納得していること。

病気や老衰に回復の見込みがなく、本人がそれ以上の苦痛・苦悶に耐えられない(耐える意味が分からない)と表明しているにも関わらず、極度の痛み・絶望に無理に耐えさせられている時、『今まで、自分にできる限界まで苦痛に耐えて頑張り続けてきたがもうダメだ』と何度も懇願しても、その願いが受け容れられず極度の痛み・絶望を本人の意思に反して(本人が無意味な痛みと感じている中で)味わわされている時に、尊厳が失われる。

3.『自意識・自律性・プライド』に依拠する本人が考える最低限度の人間らしさが維持されていること。

この尊厳の要件は、上の2つの要件と比較すれば薬物投与の積極的安楽死を認める根拠としては弱いが、自分で食事や排泄をすることができなくなったらできるだけ医療で無理に延命されずに(人工呼吸器・人工心肺・気管切開・経管栄養・胃瘻をできるだけ避けて)、『自然死』に近い寿命をまっとうしたいという本人の思いと相関するものである。

安楽死にも、筋弛緩剤投与などの医療行為によって死期が早くなるように幇助する『積極的安楽死』と延命治療をできるだけ行わないことで結果的な死期を早めることになる『消極的安楽死』の区別がある。

回復の見込みがまずない致命的な疾患や老衰、障害に直面した時に、延命のみの効果しか期待できない医療・介護を拒絶して寿命の到来を待つ『消極的安楽死』には反対は少ない。

医療者が薬物を投与して積極的に患者の生命活動を停止させる『積極的安楽死』にはさまざまな観点から賛否両論がでやすいものの、『幸福追求原理(苦痛回避原理)に依拠する近代的自我』の道徳規範からすれば、本人の同意がある積極的安楽死の賛成者が多数になるのは道理である。

『安楽死・尊厳死』が議論になる背景には、現代人の平均寿命が飛躍的に伸びて死ぬ寿命と健康寿命の間のギャップが大きくなったこと、ほとんどの致命的な感染症や内臓疾患を医療が克服したことで『がん・血管障害・老衰(認知症を伴いながらの老衰)』以外では簡単に人が死ななくなったこと、個人の生命の価値が過去に比べて非常に重くなり医療・介護を拒否した自然死に近づこうとする死を受け容れられなくなったこと(事件・事故・災害による偶発的な死も過去以上に受け容れられない理不尽なもの許されざるものとして強調されるようになったこと)がある。

近代医学と医薬品の進歩は『もっと長く生きたい・色々な病気を治したい・苦痛や不快を軽減したい・理不尽な病死を減らしたいという人々の夢』を概ね実現してきたが、『最期までぎりぎり健康でいたい・すべての病気を治したい』というレベルにまでは至っていない。

皮肉なことに長生きすればするほどに『がん・血管障害・老衰による健康喪失(機能喪失)のリスク』に晒される、究極的には老衰に抗い続けられた人間はいない。がんの発症リスクとして喫煙・飲酒・ストレスが強調されやすいが、20世紀後半からがんが急増した最大の要因は『高齢化(60代以降まで大半の人が生きられるようになったこと・加齢による細胞分裂時の遺伝子複製のエラー率増大)』である。

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『保育所に頼るな、子育ては親の自己責任』の自民党の山田宏・前杉並区長、お前が言うな案件か…

古代ギリシアのソクラテスや古代中国の孔子、聖書のイエス・キリストの昔から、自分ができていないことで他人を責めるな(自分ができないことを他人に強いるな)という『知行合一の徳性・ノブレスオブリジェの自覚』が語られてきたものだが……現代の政治家・権力者の語る道徳論や人生論の多くは『俺(私)だけは特別扱いせよ・一般国民はもっと刻苦勉励(自己規制)せよ・自分はできないがそれは問題ない(詳細の回答は拒絶)』というダブルスタンダードの厚顔無恥を隠そうともせず、自信満々の発言に自分が率先して反するような行動をして自滅している。

男性の育休取得率の増加を政策課題に掲げた自民党の宮崎謙介元議員は、育休を取りながら妻の出産直前にタレントとの不倫・自宅密会に勤しむというギャグのような不倫行為で自滅して議員辞職した。

育休中も税金から歳費(給与)全額が支払われる国会議員の特権性を考えれば、支持者でもない有権者に対する違背でもあるだろう。当然、男性の育児参加(イクメン増加)とか育休取得率の上昇とかいう政策目標についても、発言と行動の大きなズレによって説得力が皆無となる。

『保育園落ちた、日本死ねブログ』が話題になっている時、前杉並区長の山田宏氏が『まぁ落書きですね。産んだのはあなたでしょう。まずは親の責任』という発言をして物議を醸した。

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『死刑制度・人権思想』と『煮ても焼いても食えない類の凶悪犯罪者(悪行・無反省・社会憎悪の捻れた主体)』の処遇に困る現代の先進国

EUやアメリカの多くの州では、キリスト教の博愛主義(人間の人間に対する裁きの限界の自覚・人間の潜在的な良心と内省への信仰)を背景とする『人権思想・暴力禁止』の深まりもあって、刑罰としての『死刑(極刑)』は廃止の流れに向かっている。

死刑執行「本当に長かった」

日本は立憲主義的には人権を尊重する成熟した近代国家の一員ではあるが、欧米のような死刑廃止の流れは起こっておらず、むしろ他人を殺した凶悪犯罪者は死刑もやむを得ない(それ以外の自由刑では量刑が軽すぎる)とする死刑存置の価値観を持つ人が多い。同じ死刑存置の主張にも、『積極的・応報的な死刑肯定論(正義遂行としての死刑)』から『消極的・社会防衛的な死刑存置論(必要悪としての死刑)』までの幅はある。

あるいは日本では積極的に被害者の痛み・無念を思い知らせるために加害者に報復して死刑にすべき、更生なんてしなくていいから社会から完全排除して再犯リスクをなくすべき、裁判所の判決は事件の残酷さ・凶悪性に対して軽すぎる(被害者に落ち度のない利己的な殺人は原則死刑などもっと死刑判決のハードルを下げるべき・裁判員裁判の死刑判決を覆して無期懲役にするなどもっての他)だとする『死刑肯定論・死刑存置派』のほうが多数派を形成している。

欧米の死刑反対論は外国人を殺傷する国家安全保障(防衛・正義・テロ撲滅を掲げた戦争)とは矛盾するところもあるのだが、『人権・良心・殺人禁忌の普遍主義』に立脚していて、国家権力による死刑執行も『広義の禁止されるべき殺人の一種(人間の生命活動はいかなる主体や権力であろうとも人為的・法律的に奪うことは許されない)』と解釈し、死刑を人間の裁く権利の限界を超えた『反倫理的・非人道的・残酷な越権(神の領域の侵犯)』と見なすのである。

良心の普遍主義というのは、キリスト教の『懺悔・告白(告解)』による罪の赦免の教会文化とも相関するように思うが、どんなに他人や社会を憎悪して倫理規範・法規範を蹂躙する凶悪犯罪を起こした人間でも、『自分の犯した罪と向き合う良心』が完全に無くなったわけではなく、適切な更生教育・人間信頼(社会適応)の機会を与えられれば喪失した良心・倫理を取り戻せる可能性があるという考え方である。

良心の普遍主義は、神の赦し(人間の裁く権利の限界)や遺伝・環境の要因とセットになって、『加害者本人の凶悪犯罪に対する自己責任』を減免する理由となっているのだが、それは『その加害者がそういった悪事を犯す人間になってしまった責任は果たして本人の自由選択や自己責任だけにあると言えるか+本人にはどうしようもならない運命・遺伝・家庭・環境によって不可抗力的にサイコパスの社会憎悪的な人間性が形成されていった可能性がないか』という倫理的な問いへと接続する。

一方、死刑肯定論は『シンプルな行為主義と自己責任論』によって構成されるものであり、『どんな理由があろうともその理由が本人の意思で回避できないものであっても、重大な行為の結果に対する責任を被害の深刻さに合わせて取らせるべき』と考える。

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教員の性関連の不祥事と職業倫理の緩み:“現代の性の倫理観・多元性・破滅性”

教職員の生徒に対するわいせつ事件の発生件数が高止まりしているという記事だが、性的な重犯罪を除く『軽度のセクハラ』に関しては20年以上前は現在よりも酷い状況(酷いとさえ思われない認識のギャップ状況)にあったのではないかと思う。

教師が明らかな性的意図を持って下ネタを振ったり、お気に入りの女子生徒と馴れ合いのコミュニケーションをしたり、体育教師が授業中に不必要なボディタッチを繰り返すなどはざらにあったが、それらが事件・不祥事として認識されるための社会的な共通認識がなかっただけだろう。

<教員処分>わいせつ行為で205人 勤務時間外が6割超

性関連の不祥事を起こす教員のタイプは大きく分ければ、『元々子供に性的関心を持っていたロリコン』『性的なフラストレーションや異性関係の不満を鬱積させて発散の場のない欲求不満者』『教職のストレスに耐え切れずに倫理観が崩壊した逸脱者(メンタルヘルスの悪化者)』などになるだろう。

いずれも教職員としての資質・適性に欠けるといわざるを得ないが、残念ながら現状の採用・研修・雇用の仕組みの中では、実際に性的な不祥事を起こさない限りは、表面的にはそういったセクシャリティーの嗜癖性・逸脱性を現すこともないのでスクリーニングすることは困難である。

教員であれば、個人の性嗜好として若い子が好きであるとしても、最低限自分の教え子を異性として見ない(そういったアプローチやほのめかしをしない)という厳格な職務倫理上・人格の尊厳上の線引きができることがプロフェッショナルの条件であるべきだ。

だが正確にいえば、幼児・児童に対するペドファイルが犯罪的な性嗜好障害(人口的に少ないマイノリティー)であるとしても、10代後半~20代前半の若い女性が性的欲求の対象であるという成人男性の教職員は(実際にそういった関係が可能であるか社会的に公言するかを別にすれば)無視して良いほどに少数派であるとはとてもいえず、ある意味ではノーマルな性欲として解釈可能なものである。

大多数の教職員は『教員としての使命感・責任感』『プロフェッショナルな職業倫理』『職業キャリア・社会的身分の保守の意識』において、『プライベートな男女関係・性的嗜好』を職場や教師・生徒の人間関係とは完全に切り離して、日常の職務に精励しているはずであるが、個人の資質・性癖・精神状態を含めたさまざまな要因によって一定の割合で逸脱者・違反者が出てしまうことは完全には回避しづらい。

学校の教員に限らず、男女の間に一定の上下関係(役割関係)が生まれやすく、性的対象になりやすい10代後半~30代くらいの若い女性が多い職場では、男性だけの職場や若い女性がいない職場よりも、『セクハラ・わいせつ・性犯罪の発生率』が高くなっている。

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