「倫理学」タグアーカイブ

小中学校の『道徳教科化』についてどう考えるか?:主体的に善悪の分別や人倫の本質を考えてもらいたい

義務教育で『善悪の分別の思考力』や『人倫の本質的な理解力』を培う教科を創設したいのであれば、『道徳(moral)』という権威的な教訓や全体への従属義務の意味合いを感じる科目名にするよりも、『倫理学(ethics)』という哲学的かつ主体的な思考プロセスを重視して、善悪と自由の本質を議論する感覚のある科目名にするほうが良いかもしれない。

道徳はリージョナル(個別的)なものではなくユニバーサル(普遍的)なものであるべきだが、日本で『道徳』というと、どうしても教育勅語のような『固定された儒教的な価値判断に基づく記憶と実践』になりやすいし、旧会津藩の『ならぬものはならぬのです』というような理由も根拠も分からないが、上位者から怒られるのでとにかく守るしかないという教条主義に陥りやすい。

道徳教育には賛成も反対も両方あるが、反対する人たちは、戦前の『修身(道徳科)』の君臣秩序・滅私奉公(自己犠牲)を中心軸にした権威主義的な道徳教育のトラウマが深いのだろう。権力や上位者にとって都合の良い個人の権利を押さえつける価値観を、一方的に教えられて同調圧力をかけられるのが道徳といった思い込みが、道徳教育への抵抗感を形成する。

戦後日本の道徳は『自他の生命を大切にすること・権力によっても個人の生命や自由を恣意的に支配することはできないこと』であるが、戦前日本の道徳は『生命に執着せずに全体(国体・天皇)のために潔く散れること・天皇を最高位とする国制上の上位者に絶対忠実であること』という正反対のものであった。

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高齢者・孤独な人の心をケアしてくれる『ロボット(ヒューマノイド)の夢』

アイボや赤ちゃんロボなど心理的ケアをするロボットの潜在需要は極めて高いが、現状の人工知能では『心のないロボットの前提』が強固であり、ロボットが会話の相手をしてくれても感情的満足度にすぐに限界がくる。

逆にそこまでAIが進歩すれば、人が必死に他者(恋人・家族・親友など)を求める動機づけが落ちて、楽な方向でロボットとの関係を求めるようになり(ヒト型ヒューマノイドの身体構造の完成度にもよるが)、人類は激減するだろう。

お世話して癒やし効果を=高齢者向け「赤ちゃんロボ」―中京大

ロボットや人工知能(AI)に『心』を持たせられるかの問いは、技術的な問題にも見えるが哲学的・存在論的な深い問いを孕んでいる。ロボットに心がないのは『自我・生存と複製の欲・主体性・自分の問題』がないからだが、ロボットは『人間のために作られた存在』であり『自分のために何かをする遺伝子』を持たない。

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重無期刑(終身刑)の導入と死刑制度の存廃の議論

近代社会の原則である自由主義と人権思想は、何人たりとも他者の生命や自由を奪ってはならないという『他者危害原則』と最低限の規範・常識を共有する『学校教育制度+公共圏の意識』を前提として機能している。

しかし、“多様な遺伝子・環境(境遇)・気質性格・人間関係・動機づけ”を持つ人間は、その多様性と不完全さゆえに他者の権利(自由)を犯してしまうことがある。

「終身刑」創設の意義と懸念点

人間社会では有史以来、戦争や犯罪、支配制度(階級制度)を含めた『他者を殺害したり危害を加えたり従属させたりする人権侵害の事態』が途切れたことがない。

近代以前の時代には『食糧・土地・資源の絶対量の不足』によって他者を殺したり他者から奪ったりして人や集団が生き延びようとしてきたし、現代にまで至る近代以後の時代にも『個人的な怨恨・不遇・貧困・欲望・衝動を抱えた人たち+既存社会に適応できない人たち(利己的な欲求を非合法的手段で満たそうとする・思い通りにならない現実に対して責任転嫁をしたりやけくそになるなど)』が他者の権利(生存権)や自由を侵害してしまうことがある。

生命・身体・財産にまつわる基本的人権は“不可侵”であるというのが近代思想の啓蒙する内容であるが、現実社会は『基本的人権の不可侵性を尊重し遵守する個人』だけで構成されているわけではないので、『殺人・暴行・強奪・監禁・強姦などによる弱肉強食のメリット(見つからなければ犯罪をしたほうが自分のメリットや満足になるのではないか)』に流される犯罪者が生み出される。

近代的な文明社会に生まれて教育(人間関係からの学び・気づき)を受けながら成長した個人の9割以上は、近代思想の基本的人権の不可侵性を内面化して、『自分が傷つけられたくないのだから他人も傷つけてはならない』という理性的かつ倫理的な人権の持つ規範性を前提化していくので、重大犯罪とは無縁の人生を送ることになる。

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セーレン・キルケゴールが解釈したキリスト教の希望と『死に至る病』:人間中心主義ではない神中心主義の信仰

キリスト教にせよイスラームにせよ、一神教の神というのは『根本的な存在・価値(意味)の原理』の根拠となるものである。

イスラム過激派やイスラム原理主義者は『アラーの名前・コーランの教義』の権威を流用することで、非ムスリムの欧米諸国が主導する『自由民主主義・人権思想の普遍性』をメタレベルで否定して、自らの民間人の殺戮や米兵(非ムスリムの侵入者)の拷問・処刑を正当化しようとする。

こういったテロリストやイスラム過激派の『侵略・殺害行為に対する宗教的な赦免や容認』は、イスラム法学者・指導者からも『異端的』なものとして非難され宗派から破門にされたりもしているが、イスラム国の兵士やテロリストの宗教観は『神中心のもの』という意味では一神教的な思考形態をトレースしているものである。

現代の世俗化された一神教においては、『人間のための宗教』として倫理的・人道的な規範が説かれるが、ローマ帝国衰退後のイスラームの海賊行為・勢力拡張や中世のキリスト教の侵略行為・虐殺が、神の名前の元に行われたように一神教の神が必ずしも人権や生命(特に異教徒の人権・生命)を尊重するかは確定的なことではない。

原理主義は建前として、一神教を『人間が自分たちの共同体や倫理観のために考え出した教え』とは考えないスタンスを取り、『神が人間を殺したり滅ぼしたりする可能性』を否定していない。厳密には、神の従僕である小さく弱き人間(有限の存在者)が『神(無限の存在)の為せる意思・行為』について禁忌・制限を与えることのほうが自己矛盾・教義違反であると考えるのである。

仮に、神は決して人間に対して悪いことをしない、神の教えを守っている人間の生命や自由に制限・危害を加えることなどない(逆に恩恵や奇跡を与えて助けてくれる)と定義するのであれば、『神は人間の意思・利害・前提に従う下位者(プログラムコード的な条件設定)』となってしまう。この現世利益の宗教観というか神の捉え方は、神社・仏閣に『~してください』とお願いする日本人にとっては不自然なものではない。

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“なぜ人を殺してはいけないのか?”の問いから人間社会の倫理と法、個人の心理を考える。

生態系の食物連鎖や同種間の生存闘争がある自然界では、『他の動物を殺してはいけない』という法律や倫理観はないが、動物も基本的には同じ種の他の個体を無意味に殺すということはしない。

動物も群れを形成したり、他の個体と協力することによって『生存適応度(天敵から殺されずに済む確率)』を高めているが、人間(ヒト)という種は特に、他者と協力して生産・防衛・コミュニケーションをする『社会形成(共同体構築)のメリット』が大きい種である。

誰も答えられない?「なぜ人を殺してはいけないのか」 その理由を弁護士7人に聞いてみました

『社会集団を形成しない単独のヒト』は他の動物と比較しても余りに無力であり、『仲間同士の信頼・協力・互酬性』を上手く築けなかった集団は歴史的に滅ぼされてきたと考えられるが、仲間同士の信頼・協力の基盤にあるのが『人(仲間)を殺してはいけないという殺人禁忌』であった。

厳密には、内戦・内輪揉め・身分差別(無礼討ち)の絶えなかった近代以前の時代には、『人を殺してはいけない』は『仲間(ウチの人間)を殺してはいけない』に近い規範であり、現代の人権思想ほど『すべての人間を絶対に殺してはいけないという普遍的な禁忌性』は持っていなかった。

人を殺してはいけないという殺人禁忌は、『罪悪感・共感性・想像力が生み出す倫理観』と『誰もが殺されたくないから、それぞれが他者を殺さないと約束する社会秩序(社会契約)』によって支えられている。

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道徳の教科の格上げ:『権威主義+綺麗事(徳目主義)+点数評価』に陥らない工夫を。

道徳とは何か。道徳とは、人として踏み行うべき道、善と悪の判断基準であり、徳を身につけた人物の行動理念である。『道徳』を授業で正解のある知識として教えたり、覚えさせた正しい振る舞いや意見を先生の前で再現させたり、ペーパーテストで確認することに意味があるかといえば恐らくない。

道徳の教科格上げ、「公平」「正義」指導へ 心配の声も

道徳は、『知識として知ること・語ること』は極めて簡単だが、『行動として行い続けること』が極めて難しいという性格を持つ。古代ギリシアの哲学者や古代中国の儒家たちが、『知徳合一(正しいと知っていることと実際に行うことを一致させよ)』を道徳の根本とした所以でもある。

道徳の本質は、社会生活を営む人間が他者とお互いを尊重して共生できるようにすること、あるいは人間が他者からその人格的価値を認められて慕われるようなヴァーチュー(美点・卓越)としての徳を高めていこうとすることである。

道徳教育について、教育勅語を懐かしむような復古的な意見もあるが、教育勅語の最大の欠点は『人間一般としての徳』ではなく『天皇・国体を支える臣民としての徳』であるため、ローカルな忠孝の規範性が優位に立っており、ローカルな規範の外部にある国・異民族に対しての共感的な徳性に配慮されていないこと(人間より国家を優先する道徳の道具化)である。

近世以前の日本の道徳の淵源としてある孔子の儒教でさえ、義・忠・孝にも優越する普遍的な徳目として『仁(他人に対する愛・思いやり)』を掲げ、仁はあらゆる望ましい人間関係(他者を自分と同じように大切にしようとする心がけ)の根本にあるものだとした。

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