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今は中流家庭の家計簿でも余裕のある世帯になる、自殺志願者は助けるべきか?、アリストテレスの政治学・ポリスなど

○少し前の日本の平均的な中流家庭の家計簿だが、現在の中間値・世帯の実感からすると「やや裕福な家庭」で、教育費を差し引いて老後に約2370万円の貯蓄ができる世帯は今は多くないだろう。上場企業勤務の水準。

37歳パート、貯金350万円。2人の子どもにハイレベルな教育を受けさせてあげたい http://mixi.at/aeFftVQ

子供が小さいこともあるが、約2~3万円のパート収入しかなくて、この家計簿なので、現在の日本の世帯平均から見ると恵まれた方に分類できる。非正規でももう少し子供が大きくなれば、月10万円程度は一日6時間程度の仕事でも稼げるので、実際はもう少し貯蓄は増える。フルタイムなら更に増えるという話でもある。

パートで子供が欲しくて安定した結婚生活をしたい女性などからすると、この旦那くらいの仕事・年収は、「婚活で人気のある年収帯」である程度競争率も高くなりそうだが、日本全体の生活水準・家計簿から見ると「教育費コストを含めても、(夫の雇用保証が前提なら)特別な経済問題・貧困リスクのある世帯」ではない。

しかし、FP相談案件は本当に困っている主婦の人よりも、ちょっと余裕があるくらいの人の相談が多く、時に月50万円以上の夫婦のキャッシュフローと1000万円以上の投信・民間の年金商品など金融資産を複数持ちながら、「このままで大丈夫でしょうか?」というのは白白しくも、ちょっと自慢が入っている可能性がある。

○ネガティブな人生観・家族関係や虚無的な価値観を前提にすれば、「自殺志願者のその場限りの救助」は余計なお世話かもしれないが、その常識・建前を崩せば社会秩序の根本が揺らぐ。

乗客が告げた行き先は自殺多発場所、察して警察署に行った運転手に保護の感謝状 (毎日新聞 – 09月09日 19:17) http://mixi.at/aeFvekx

そもそも本気で自殺を決行できる人なら、わざわざ他人が関与してくるタクシーなど利用せず即座に絶命する飛び降り・飛び込み・首吊り・服毒などを選択しているはずなので、深夜にタクシー利用で自殺の名所に行く時点では「自殺企図の葛藤・迷い」があり死にきれない状態(生の側に戻り得る状態)にあったと解釈できる。

社会福祉やNPO・行政、心理的支援、家族・知人のバックアップなどもあるが、究極的には「人生の厳しさ・つらさ・虚しさをどう受け止めてどう行動するか」は本人次第になる部分は、どうしても否めない生の前提である。お金の問題もあるが、人生・自己存在をどのフレームワークで解釈するかで天国にもなれば地獄にもなる。

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人間の「生きる意味・理由」の考察、年金に頼れない老後における自助、田口淳之介・小嶺麗奈が大麻で逮捕など

○マイミクの「生きる意味・死にたい思い」の人生哲学の日記を読み、「死にたいの発言が元で疎遠になった人」や「相対的に恵まれた環境で不幸感・希死念慮を感じる人」について少し考えた。

死にたいや自殺者への同情論を言うと、極端に怒り出す人はいるが、人は畢竟、自分の人生を背負うだけでもかなり大変だからだろう。

自分や家族の人生を余裕なく必死に支え続けている状態にある人(客観視・議論も好きではない人)にとって、「死にたい・人生に意味がない・自殺者にも一理ある」などの意見は、「現在の自分の努力・苦労・忍耐の全否定」のように感じられることもある。自分自身と切り離した客観的な議論・相談ができる人は基本的に少ない。

自殺問題や出生関連思想は死生観が絡むが故に「どんなにつらいことがあっても地べたに這いつくばってでも生きる信念の実践者」と「つらいことがあって耐え切れずに自殺する人・共感する人」には、行為する存在者として深い断絶がある。「生きる意味・理由を求めての死にたい」は、「恵まれた国・時代・人の心理」ではある。

人類とまでいかずとも、ある国家・地域に居住する各人に共通の普遍的・義務的な「生きる意味・理由」は恐らくない。

思想的・宗教的には色々な概念や思索、精神体験の余地はあるが、一般的・長期的な「生きる意味・理由」の多くは、「選択決断・思い込み・記憶・意味づけ」などの作用が生み出す「物語化の自己規定」になる。

「生きる意味・価値・理由」は、普遍的な何かが外部にあってそれに辿り着く類ではなく、人間の身体・精神・脳は誰を取ってもそう大差なく、啓蒙や教育、鍛錬によって苦悩消失の特別な境地が開ける類でもない。

「生きる意味(価値)の至高性・究極性」を意識しすぎれば、「面倒・煩雑な現実の捨象」に行き着くだけだろう。

「生きる意味・理由」を長期的・本質的・普遍的に考えすぎれば、知識と理屈と現実批判の迷宮を彷徨うだけとなるが、適度なレベルで自己と現実と他者を調和させる常識人は「物語化・倫理化・社会化の自己規定」にのめり込んでいる内に寿命の炎が小さくなる。生きる意味を短期的・即物的・個人的に考えれば良い訳でもない。

どう生きれば「生の意欲(エロス)」を高められ「死の誘惑(タナトス)」を遠ざけられるかに唯一の正解はない。絶対に自殺や無気力な生が悪とも断定できない。

社会生活や経済活動、人間関係で楽しもうとして生きる一般的な人生観が現代ではベースになるが、人によって政治・倫理・宗教・教養・遊興などのテイストが変わる。

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『因果関係(原因‐結果)』の哲学的な認識論と問題解決・心理的慣習:哲学的な思索1

古代ギリシア哲学のアルケー(万物の根源)の考察や一神教の唯一神による世界創造の前提は、『世界にある事物』の根本原因を想像力によって仮定しようとするものでした。哲学の始祖と呼ばれるターレスが『アルケーは水である』と語ったことの意義は、モノを構成する素材としての究極的な原因を仮定するということですが、この仮定はアリストテレスの原因論でいう『質量因』になります。

アリストテレスはリュケイオンの講義で、物事の原因には『質量因(物理的に何からできているか)・目的因(何のためにあるか)・作動因(何によって引き起こされたか)・形相因(どのような形態を本質的に持つか)』の4つがあるとしましたが、近代科学に継承された因果論の中心は作動因でした。近代科学の発明以前には、アリストテレスが夢想した究極原因としての『不動の動者』があり、そのイデアから連想された『絶対神』があり、あらゆるモノの起源はそういった絶対的な実在・観念に還元され得ると考えられました。

特定可能な原因があって結果が起こる、原因を理解すれば結果を変更・制御することができるというルネ・デカルトやインマヌエル・カントがもたらした『近代科学の思考方法』は、すべての物事を一つの因果の系列に位置づけました。次第にその原因の始点には、『神』ではなく『無機的な自然法則・悟性的な人間(認識主体)』が置かれるようになっていき、ルネサンス以降の神に拘束されない人間中心主義が花開きます。

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