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エマニュエル・レヴィナスの生成の哲学と現代の生きづらさの要因:1

平和で豊かな現代社会において『生きづらさ・生きる大変さ』を訴える人は多いが、その事に対して『貧しくて自由のない昔の時代のほうがもっと大変だった・世界にはもっと悲惨で貧困な地域が多くある』という反論が出される事も多い。

実存哲学の系譜につらなるユダヤ人のエマニュエル・レヴィナス(1906-1995)は、この第二次世界大戦後の先進国の人間が陥りやすい精神的危機を表現して、『逃走の欲求』と『無数の人生の欲求』という二つの概念を提起した。

自由な人間によって構成される物質的な豊かさと情報的な娯楽で溢れた現代社会は、過去に死んだ人間が甦れば、その外観は(社会適応・稼得能力や資産などの問題はあるが)概ねユートピアの様相を呈している。

だがレヴィナスは飢餓や束縛、運命による強制的な死(不自由)の鎖から解き放たれた人間は、『倦怠・怠惰・疲労』という実存の三重苦と戦わなければならなくなったという。必死に働いたり動いたり考えているから疲れているのではない、何もしなくても初めから疲れている、存在そのものに倦怠するのが現代人という独特の発想である。

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『善人』の増えた現代の先進国と『弱者への同情』を嫌ったフリードリヒ・ニーチェ:現代の善人の争いを回避する優しさ・弱さをどう捉えるか?

昨日書いたドラマ『明日、ママがいない』の記事では、『他者の不幸・苦痛に対する想像力や同情(共感)』の弱さによって、新たないじめ・差別が誘発されるのではないかという危惧について触れた。

だが、コメント欄において、『自分よりも不幸な者を見ることによる安心感』『伝統的な日本の階級社会(身分の違い)の名残と意識』『キリスト教の博愛・弱者救済の倫理観』『人間社会の個人差や自意識に基づく差別・いじめの普遍性』について読み、ふとニーチェの同情否定の思想をイメージしたので書き留めておく。

F.ニーチェの実存主義哲学は、『反キリスト教(弱者貧者の道徳的地位の否定)・反社会福祉・自己肯定の超人思想』に象徴されるように、『ストレートな強さ・美しさ・豊かさ』を賛美する真の貴族主義を掲げた文学的・美学的ロマンスの思想である。

弱くて貧しいが故に正しい(強者・富者は道徳的価値は低い)という大衆の数の論理に裏打ちされたキリスト教道徳を反駁して、強くて美しくて豊かであるが故に正しい(それはあまりにも自明であるが故にそうではない者のルサンチマンを刺激する)という人間の本能・知覚・直観に裏打ちされた古代ギリシアの貴族主義に回帰するかのような『超人思想』を喧伝した。

私は強くて美しく豊かであると思える『超人(ツァラトゥストラ)』を目指し、自分の弱さ・不遇に押しつぶされるような『どうせ自分なんて・今とは違う人生があれば・誰かが助けてくれれば』という自己嫌悪や道徳の逃げ場を閉ざしたニーチェは、ナチズムとも接合した優生主義者(権力志向の反ヒューマニスト)として批判されることもある。

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ソクラテス、ロバート・ハインラインの言葉(アフォリズム)より

Life contains but two tragedies. One is not to get your heart’s desire, the other is to get it.  Socrates

人生に二つの悲劇あり。一つは最も欲しいものを手に入れられないこと、もう一つはそれを手に入れてしまうことだ。  ソクラテス

真理探求の哲学の始祖とも称される古代ギリシアのソクラテスは、『産婆術』と呼ばれる反駁の対話法によって、何者も確実な知の基盤となる土台を築けていない事実(無知の知)を暴露しようとしたが、ソクラテスの人生は『問いのための問い』というある種非生産的な試みの繰り返しの中で『共同体の敵』と指弾されて潰えた。

ソクラテスが『心からの本当の欲望の対象』を手に入れられないのも悲劇だが、それを手にしてしまうこともまた悲劇だといったのは、ソクラテスが自身の手によって『著作』を一冊も書かなかったこと(ソクラテスの事跡・発言のすべてはプラトンやアリストテレス以下の弟子の記述に依拠する伝聞である)にも反映されている。

『手に入れてしまった知識(体系化・検証を待つだけの知識)』そのものを、恐らくソクラテスは当時の知識人の探究心を失わせる固定観念(正しさと決められたものを固守するだけのスタンス)として嫌ったのだろう。無知の知は現代科学にもつながっている『終わりなき真理探求・仮説志向の前提』だが、例えば、宇宙の摂理を矛盾なく示す大統一理論が完成したという安堵を得た時に、理論物理学者にとっての大統一理論はドクサとなって、それ以上の真理を求める興奮や感動は弱まる。

より日常的なレベルでいえば、憧れている理想の対象の価値は『手に入らないこと』によって何倍にもなるが、それが手に入らないもどかしさや欲求不満に苦しむ。しかし、いざ自分の所有する物になったり自分を受け容れる人になったりした時に、かつての理想の対象(遠い対象)が持っていた神聖・特殊の感覚は次第に失せて、当たり前の環境を構成するものになってしまう。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:3

近代のロマンティックラブ・イデオロギーほどの熱烈で狂気的な恋愛は、安定的な結婚・生活の次元にソフトランディングしてずっと良好な関係が続かない限りは、別離や孤独に耐えられないメンタリティのために、『殺人(心中)・自殺・ストーカー・身の持ち崩し(無職化・ホームレス化)』などのラディカルな悲劇・自滅(他害)に結末することになる。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

世界大戦後の後期近代の物語の主軸は『恋愛・結婚・家族』であり、人によっては好きな異性と結ばれて熱烈な恋愛をして安定した結婚をして家族を築いていくというのが『人生における最大の価値(それがなければ生きている価値が殆どなくなってしまうもの)』となり、『パートナーのいない人生(パートナーや家族から切り捨てられて一人で生きていく現実)』に本当に耐えられずに正気を失ったり犯罪行為にまで逸脱していく人(犯罪をしなくても自殺・無気力化・ホームレス化も含め)もある程度は出てくる。

生涯にわたって安定的に帰属できる伝統的共同体を喪失した現代人にとって、『孤独・愛情不足』は大半の人にとってかなりの心理的ダメージとなるのは確かであり、『男女関係・家族関係のトラブル』をそんなことくらいで犯罪や自滅的行為に走るのは心が弱いからだと安直に言い捨てることはできず、『異性・家族・仕事・金銭・地位・意欲を持てる活動(学び)』などの俗世的な価値や承認の要素のすべてを失ったと感じる時には、人間の精神は意外なほどの脆さを持って壊れることもあるからである。

バタイユは恋愛は肉体の結合に加えて精神の結合をも目論む『不可能性の追求(失敗に終わる企て)』だとして、恋愛は必然的に苦悩の原因にもなるとしたが、『完全な孤独を回避したい人間の本性』が、苦悩につながるとしても恋愛的な『自己を特別に承認してくれる他者』を求めずにはいられなくするのだと語った。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:2

暴力と無秩序な性は、今日(今すぐ)ではない明日の収穫(快楽)に期待する生産的労働によって生存を維持する共同体の存続を危うくするが、『労働・協働の時間』は原始の人類の意識と関心を『動物的な暴力・性』から次第に引き離していったのかもしれない。あるいは動物的な暴力・性ばかりに明け暮れて労働に関心を持てなかった原始共同体(非生産的・本能従属的な部族)は、他の生産的で協力的な共同体から討ち滅ぼされて絶滅への道をたどっただろう。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

十分な理性と自己規律(自律性)を備え始めた近代以降の教育を受けた人間は、『労働抜きの暴力の禁止』を受け入れ始めた。だが、近代以前には『小人閑居して不善を為す・働かざる者食うべからず』といった宗教的格言が示すように、『直接的・即時的な欲望を自制できない(教養・倫理・自尊の軛が不十分な教育や哲学的陶冶を受けていない)個人』に対しては、労働(その多くは思考力を奪う単純肉体労働)によって本能の欲望を遷延させたり時間的余裕を制約したりするブレーキ(労働で疲れることにより時間・欲望の余剰を暴力に転換できなくする生活リズム)が必要だったのである。

暴力と性の本能のすべてがなくなったわけではないが、ホモ・サピエンス・サピエンスとは『本能を部分的に破壊した特殊な動物』としての側面を持っている。ジョルジュ・バタイユや日本文化(個人体験)に対応する精神分析を研究した岸田秀は、妊娠出産を目的としない性行為のほうが主流となった人間を『本能が壊れた動物』として再定義し、エロティシズムについても『動物的・本能的な子作りにつながる性』から遠ざかれば遠ざかるほどに、人間は性的に興奮する特殊な性癖を獲得したという持論を展開した。

バタイユはエロティシズムの本質は『禁止と侵犯』にあるとして、『性(誕生)と死の類縁性』を指摘した。『禁止・禁忌』はそれを破った後にある背徳的な快楽や社会超越的(全能的)な栄光と裏表の関係にある。人間にとっての性行為も『禁止(わいせつ・羞恥・性道徳・動物的堕落の嫌悪など)に対する侵犯』によって興奮する仕組みを持ち、『あからさまな解放・制限や選り好みのない性(いつでも自由に行為ができるという日常性・秩序性)』はエロティシズムの魔術的な魅力を失わせてしまうという。

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ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:1

人間と動物を隔てるものとして旧石器時代後期(10万年以上前)に生まれたのが『死のタブー』であり、その具体的な現れとして『埋葬(葬儀)の慣習・死者への畏れ』が出現し、太古的な宗教感情の原点となった。自身と他者がいつかは必然に死にゆく存在であるという有限性の自覚、死ぬこと(=現世からの自我の消滅)が恐ろしいという感情は、人以外の動物には見られない。

人間は『死のタブー(死の自覚と禁忌・死の怖れと畏れ)』ゆえに、動物としての本能を薄められて、計画的な人生設計(死後の世界への夢想)を立てなければ不安で堪らないという呪縛に絡め取られた。『有限の生の意味と価値』を少しでも実感したいという儚い執着が、共同体(国家や民族)・宗教祭祀・子孫繁栄・進歩的世界観などの『観念的構想物による救済物語』を産み出していった。

文明社会や科学技術、経済成長が実現してきた快適さと豊かさ、新しさ、官能は『胡蝶の夢』のような刹那の喜びを私たちに与えてくれ、『いつかは無に帰すという宿命性』を忘れさせてくれながら、個人としての力感を回復させてくれる。私の人生や知性、感情はナンセンスなものではないのだというエンカレッジの呼びかけとなって。

『私が滅びた後にも“私の何か(子孫・作品・文明・国家・民族・思想・宗教など)”が永遠に続いていく』という信念によってニヒリズム(虚無)の暗渠を人類は飛び越えていき、本能を抑制する人間的理性によって『労働(生産的協働)』と『社会形成』を可能なものにした。人間の理性は原始・古代から中世、近代から現代にかけて留まる事なく伸長してきたが、理性は人間集団の本質を『本能の禁止』と『労働(生産)の規範』に導いていき、禁止される本能とは直截に『死(暴力)』と『性(生理的快楽)』を意味していた。

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