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『いじめ問題』に対する対処法:世界一有名な町工場のおじさん・植松努氏の経験談より考察

リアルないじめ、シリアスないじめに対する実効性は弱いかもしれない。『近寄りたければ近寄る、関わりたくなければ距離を置く』は、相手をどうとでも制御できる強者の戦略だ。『嫌がっている人に近寄って力関係を強いる』のがいじめの一つの本質ではないかと思う。

世界一有名な町工場のおじさん・植松努さんの「いじめ論」に考えさせられる

『お前達に興味ないし用事もないから俺に関わらないでくれ』と言えて、相手がそれを素直に受け容れるなら、そもそも一方的にいじめられる関係が成り立ってない。いじめの被害者の自分に興味・用事がなくても、加害者の相手グループに興味・用事(娯楽・利益)があって自分の意志・都合だけで縁を切れないのがいじめでは。

古来より『他者とつながる縁結び+他者から遠ざかる縁切り』は宗教的な神の仕事とされた。寺社の神域で『どうか縁を結ばさせて・どうか縁を切らせて』の無数の願いが捧げられた。いじめは『閉鎖的な逃げられない生活の場』で起こる為、かつて村八分のいじめは文字通り人を殺す力さえ持ったが、縁切りは人の難事の一つだ。

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教員の性関連の不祥事と職業倫理の緩み:“現代の性の倫理観・多元性・破滅性”

教職員の生徒に対するわいせつ事件の発生件数が高止まりしているという記事だが、性的な重犯罪を除く『軽度のセクハラ』に関しては20年以上前は現在よりも酷い状況(酷いとさえ思われない認識のギャップ状況)にあったのではないかと思う。

教師が明らかな性的意図を持って下ネタを振ったり、お気に入りの女子生徒と馴れ合いのコミュニケーションをしたり、体育教師が授業中に不必要なボディタッチを繰り返すなどはざらにあったが、それらが事件・不祥事として認識されるための社会的な共通認識がなかっただけだろう。

<教員処分>わいせつ行為で205人 勤務時間外が6割超

性関連の不祥事を起こす教員のタイプは大きく分ければ、『元々子供に性的関心を持っていたロリコン』『性的なフラストレーションや異性関係の不満を鬱積させて発散の場のない欲求不満者』『教職のストレスに耐え切れずに倫理観が崩壊した逸脱者(メンタルヘルスの悪化者)』などになるだろう。

いずれも教職員としての資質・適性に欠けるといわざるを得ないが、残念ながら現状の採用・研修・雇用の仕組みの中では、実際に性的な不祥事を起こさない限りは、表面的にはそういったセクシャリティーの嗜癖性・逸脱性を現すこともないのでスクリーニングすることは困難である。

教員であれば、個人の性嗜好として若い子が好きであるとしても、最低限自分の教え子を異性として見ない(そういったアプローチやほのめかしをしない)という厳格な職務倫理上・人格の尊厳上の線引きができることがプロフェッショナルの条件であるべきだ。

だが正確にいえば、幼児・児童に対するペドファイルが犯罪的な性嗜好障害(人口的に少ないマイノリティー)であるとしても、10代後半~20代前半の若い女性が性的欲求の対象であるという成人男性の教職員は(実際にそういった関係が可能であるか社会的に公言するかを別にすれば)無視して良いほどに少数派であるとはとてもいえず、ある意味ではノーマルな性欲として解釈可能なものである。

大多数の教職員は『教員としての使命感・責任感』『プロフェッショナルな職業倫理』『職業キャリア・社会的身分の保守の意識』において、『プライベートな男女関係・性的嗜好』を職場や教師・生徒の人間関係とは完全に切り離して、日常の職務に精励しているはずであるが、個人の資質・性癖・精神状態を含めたさまざまな要因によって一定の割合で逸脱者・違反者が出てしまうことは完全には回避しづらい。

学校の教員に限らず、男女の間に一定の上下関係(役割関係)が生まれやすく、性的対象になりやすい10代後半~30代くらいの若い女性が多い職場では、男性だけの職場や若い女性がいない職場よりも、『セクハラ・わいせつ・性犯罪の発生率』が高くなっている。

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スクールカーストと擬似的な身分・立場の発生:スクールカーストがいじめと結びつきやすいのはどんな学校・クラスか?

スクールカースト的な閉鎖集団内の階層は今も昔もあるが『地位の可視化・他者への干渉』は集団毎に異なる。近代の学校・軍隊・工場の規律訓練システムは、自分と他者の立場の違いや居場所確保に過敏な人を生む。

「同調力」が教室でモノをいう…イジメの起因ともなる“スクールカースト”の構造

スクールカーストは集団内での影響力・地位の差(上下)を可視化させたものだが、こういったいじめ・供犠が発生しやすい集団は『個人の自立度・自由度が低い統制的特徴』を持つ。それぞれが自分の目標達成や能力向上を目指し、必要に応じ協力するような集団ではカーストの弊害は生じずマウンティング型の政治も抑制される。

個人行動が許される場面が少なく絶えず一緒にいなければいけない集団、常にお互いの力関係(上下)やイメージ(キャラ的役割)に配慮したコミュニケーションが求められる環境、自分がその一員である帰属感の強い自由に抜けにくい集団では、『異質な者・空気を読まない者・上下の秩序を乱す者』は差別・排除されやすい。

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学校の勉強は何の役に立つのか?:高学歴者の人生はそうでない人よりも幸せか。真のプラグマティズム。

学校の勉強とそれに基づく知識教養が個人の幸福に結びつくかは確かに未知数だが、人生の選択肢は広がる。実利と関係ない知的好奇心・教養趣味の強さは『知る・語る・書くが好き』かどうかの差、『知』は幸福と不幸の両方の種なり。

「学校の勉強なんて役に立たないじゃん!」と言われたら、どう諭す?

世の中、深く考えず余計な知識を蓄えない方が、案外スムーズに気楽に生きていけるケースが多いのも事実の一面ではある。勉強ができる人の方ができない人よりも人生の総体として分かりやすく幸せになるか(精神を病まず天寿をまっとうできるか)というとそうでもない印象もある。読み書き計算レベルは必須の能力としての話。

高学歴で広範な教養・文化・素養の持ち主というのは、その精神世界の版図が広く話題・着想が豊富で、物事の道理と自然の摂理(法則)を一通り知り得ている者ではあるが、身体・欲望軽視の主知主義に陥る事で『感じる事・楽しむ事の価値』が混乱し、社会一般の平均的な幸福・快楽の軸から行為の志向性が脱臼しやすくなる。

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組み体操の骨折事故で危険性の指摘が続いている:一定の“高さ制限”は必要

昭和末期には、9~10段まで高さのある組み体操はやっていなかったように思うが、規律訓練的な教育目標には合いそうだ。昔の運動会は騎馬戦、棒倒しとかが人気で、組み体操とは違う危険性もあったが。

組み体操、揺れる現場 高さ制限や中止、支持も根強く

武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いを模した『騎馬戦』では、3人で馬を組んで、1人が上に乗ってぶつかり合う形式だが、初めの頃は相撲のようにガチンコでぶつかって、半ば喧嘩腰で取っ組み合って押し倒す種目だったが、途中で安全性考慮のため頭に巻いた鉢巻を取るだけの『非格闘的な種目』に変更された記憶はある。

騎馬戦は腕力自慢の生徒が、がっちりしたガタイのいい3人の馬を集めて本気でぶつかれば、明らかに体格・気迫で劣る相手は一撃で馬がバラバラになり、上の生徒は支える暇のない勢いで転落して、鼻血・脳震盪とかも結構起こっていた。あの時代は安全意識が今とは違うが、暴力・競争心の競技やイベントへの昇華もありか。

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国立大学における『人文系学部の改廃』と学問の目的としての『人間性(ヒューマニティー)』

人文学は科学・実学ではなく経済活動・職業能力に直接に役立つものではない。「人類の諸活動の履歴と社会調査を踏まえた基礎教養かつ批判精神」で、システムへの適応ではなく、『システム変更(ヒューマニティ)の土台』となる知性・感性・表現を担い守る学問である。

文系学部の改廃に、怒りの声多数

人文学は英語で“humanities”と表記される。知的に優れた人間が心(総合的な感受性)を失わない為の知の系譜、人間的・倫理的であるための学問といっても良い。本来は理系・文系の二分法や実利主義・就職の損得勘定で切り捨てて良い学問体系ではない。人間性を志向する人類の経験的・言語的な共有知である。

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