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仏教用語の「般若(パンニャー)」とは何か?、京アニ放火殺人事件の実名報道問題について

○「般若(はんにゃ)」の語源はサンスクリット語プラジュニャー(パンニャー)で、「悟りにつながる真実の智慧・真理」が原義だが、なぜこの言葉が日本に伝来して「鬼女のお面」になったのかの過程が不明というのは面白い。奈良の般若坊という面打ち技師が鬼女の面作りを得意にしていたらしい以上の伝承・由来は殆どない。

般若の一般的イメージは「おどろおどろしい鬼女の顔・面」に固定されてしまった観がある。だが般若心経でもおなじみの「完全かつ最高の智慧を完成」させるという意味を持つ「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)」は、大乗仏教の修行方法としてはかつては他の波羅蜜(彼岸到達の方法・最高の状態)よりも重視された。

彼岸に至るあるいは悟りのための「完全かつ最高の状態」を意味するのが、「波羅蜜(パーラミター)」である。大乗仏教・菩薩行の「六波羅蜜」として知られるが、「布施・持戒・忍辱・精進・禅定」を成立させるための前提的かつ完全的な智慧が「般若(後に空)」とされた。なぜそんなものが「鬼女の顔」と連結されたのか……

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ヴァニラの美容整形と現代人の見た目への執着、仏教説話の「火宅」と煩悩、女らしさに意味はないのか?など

○トラウマや見返しのための「非現実的な美」の追求は暴走しやすい。「最大多数を虜にする美・可愛さ」は人工的・意識的に造る事が難しく、「自然=図らい消去」が特に難しい。 — ヴァニラ「ブスが生きづらい日本」で感じてきた違和感、“全身2億円整形”を語る (週刊女性PRIME – 08月24日 11:00) http://mixi.at/adiqKHR

「美・可愛さ」は必死に生存のための肉体労働に追い掛け回されなくなった現代人の精神的貴族趣味にとってかなり大きな欲望対象になっていることは確かだが、「遺伝・骨格・年齢の所与の条件(ある種の分)を越えた非現実的な美の追求」はあるラインで自己満足しなければ、病的執着で自らを破滅させる恐れもあるので怖い。

「美・可愛さ」をナチュラルな姿かたち・言動・装いで他者に見せられる人というのもある種の才能・時機であって、「大枠における美・可愛いの階層性」はあっても、普通前後から上の美・可愛いにおいては「飽き・慣れ・加齢も含めた多様性のバリエーション」になるので、我一人のみで違うタイプの美・可愛いは所持できない。

その意味では、明らかに一般人から突出した美や可愛さを持つ人であっても、「異なるタイプの美貌・可愛さ・年齢層との間の主観的競合」においては、必ず誰かの前にどこかの時点で見劣りする(常に後続からも追われる)。その意味で、普遍的な誰からも認められる美・可愛いを追求すれば、精神は落ち着く所がない。

美と可愛さにとりつかれて美容整形を繰り返すのは、「誰の前にあっても自分の魅力を承認させたいという普遍的魅力を内在させたい不可能性への抗い」であり、もはや「見た目云々に留まらない自己愛・承認欲・トラウマ的な報復心の肥大」である。ただ納得のラインは天与の分・運も踏まえていないと精神的に苦悩するだけ。

見た目の問題で悩む若年層は増加して、男性でさえ20年前と比べて美容整形を受ける人が約7倍になったと言われるが、「細かい見た目にこだわれるだけの豊かな時代」の副作用か。ただ「適度な自己満足+自分を好んでくれる人の愛情・承認」くらいが並の人間の分・限度であって、常にもっとの比較競争を続ければ心を病む。

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