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AT車になって交通死亡事故が増加しているわけではない、高齢者になっても好かれるためのポイント、安価な合葬墓の増加に悩む寺など

○AT車がほぼ無かった1970年に交通事故死傷者の一次ピークがあり「98万1096人」が死傷、10万人当り「16.33人」が交通事故で死んだ。AT車ばかりの2017年は「2.91人」で交通死亡事故は激減している。

なぜ、AT車はブレーキの踏み違いが多発するのか。その対策を考える (HARBOR BUSINESS Online – 05月07日 08:40) http://mixi.at/a8bkbtF(05月07日)

高齢者の事故が多少増えているとしても、統計的には交通死亡事故は1970年代からほぼ一貫して減少トレンドにある。現在でも数字的には非高齢者の死亡事故が多く、AT車普及と道路整備によって逆に交通事故は減ったと解釈するのが正しい統計の見方だ。昔はネットがなく人権も低かったため、そこまで騒動にならなかった。

確かに、高齢者から免許を取り上げ、大型車のMT車率を高めれば、わずかに死亡事故は減少するかもしれないが、10万人当り2.91人の交通事故死亡率というのは、世界的に見ても低い水準で日本が特別に交通死亡事故の頻発地域という見方は正しくない。平和な時代、人権意識の高いネット社会で、他の話題が減った影響。

近未来においては、ヒューマンエラーをゼロにする全自動運転車、道路インフラのAIによるシステム管理が行われることになり、交通事故は限りなくゼロに近づくかもしれない。

現代人は、意識の上で事件事故が一件でも起こってはいけないというゼロリスク社会を実現したいと思っているので、最終的にシステム管理に移行しそう。

http://jafmate.jp/blog/news/180115_4.html

交通死亡事故の統計的推移の記事。70年は約6124人に1人が交通事故で死亡していた。それが17年は、約3万4364人に1人の割合となった。交通事故死する確率が5.6倍も低くなったということで、それだけ安全になった。

○現代では人(世間)から良く見られる「良し悪し」の価値が落ちて、自分の感性・感情に基づく「好き嫌い」の価値は上がったが、「好き嫌い」のみで順風満帆・平均以上を長期継続できる人はある種の天才でもある。

あなたは「良し悪し族」? それとも「好き嫌い族」? この違いが人生を左右する! http://mixi.at/a8aXvSx

○高齢になって家族に好かれる人と嫌われる人は確かに分かれる。好かれる典型的な父は「口は出さないが金は出す頼れて話せる親父」ではある。

66歳男性が風呂場で涙… 友人もいない老後を憂う相談者に鴻上尚史が指摘した、人間関係で絶対に言ってはいけない言葉 (AERA dot. – 05月06日 16:00)  http://mixi.at/a8a5Qo4(05月07日)

嫌われやすい高齢男性の典型的タイプは、中年期以降からの積み重ねも含め、「話題・行動・人間関係が自己中心的かつ他者否定的な人」になる。特に家族から嫌われる人は、DV・借金・不倫など問題があった人は当然だが「家族を貶める人・悪口や批判、自慢を言い続けた人(会話すると気分が悪くなるのイメージ)」だろう。

中高年男性は幸運や人に恵まれた人、家族や周囲に恩恵を与え続けてきた人を除けば、基本は孤独になりやすい。孤独を回避したければ「自分が寂しいから行動する」のではなく「自分を必要としてくれる人・場のために役立ちたい」がなければ難しい。高齢になると自分を認めたり心配したりしてほしい気持ちが前に出れば嫌われる。

ある程度の年齢になって家族から徹底的に嫌われていたら(目も合わせない・話もできないなら)、諦めて一人で楽しむ方向で模索し、時々の関係を前向きに楽しんだ方がいい。自分が良いと思う人に好かれることは不可能だが「自分を必要とする場所・人」は必ずあるので、自分の楽しみや承認を二の次にして貢献すれば人は寄る。

というより、66歳でハッと気づいて、改めて孤独や疎外に苦しむのは、人生観や人間関係の洞察・見通しに甘さがある。それまでの人生で家族やきょうだいに特に好かれているわけでもなく、自分がその人たちを笑顔にするために積極的に貢献してきてないなら、退職したからといって急に集まってきてワイワイ過ごすはずがない。

極論すれば、人は直接的にせよ間接的にせよ、何らかの魅力・メリット・楽しさ・恩義・負い目・運命などをその相手に感じていないと、自発的に中高年になってから近寄ってきてあれこれ世話を焼いたり機嫌を取って遊び相手になってくれるはずもない。そうしたいなら、そうしたい生き方を実践していなければならない。

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古代の日本と朝鮮の歴史的つながり、「妻のトリセツの処世術」と脳科学的な正論など

○古代の日本史と朝鮮史は繋がっていて、加羅(任那)という地域で倭人と朝鮮人が混住していたとされる。なぜ古代の朝廷に朝鮮の渡来人が官僚や技術者としてやって来ても、言葉の意志疎通で困らなかったかの理由は、加羅には日本人と祖先を同じくする集団がいつからかいたからで戦中の日鮮同祖論・日韓併合の根拠にもされた。

任那とは何かの古代史の議論は色々あるが、大きく分ければ日本側の植民地とする出先機関説と朝鮮側に有力士族がいてそこから近畿地方に血族がわたってきたという説、ただ倭人が分かれて住んでいただけとする説である。ただ当時の日本は大化の改新前で半島に明確な意思を持って植民地を維持する中央集権的な主体はなかった。

一方、半島の加羅(任那)にいる人たちは明らかに、ヤマトの有力豪族と定期的な連絡があり、言葉が通じて仲間意識を持っていたことは確かである。日本から渡ったのか、朝鮮から渡ったのかの経緯は不明であるが、新羅などは別だが、加羅と百済は当時の日本に対するある種の近縁性があり、その後の白村江の戦いにつながる。

古代朝鮮の三国時代は、高句麗・新羅・百済の拮抗した時代だが、660年の義慈王で滅亡する百済は、軍事を軽視した抑制的な仏教国家として半ば自滅するかのように滅びた。高句麗前に百済を狙った唐・新羅の連合軍に滅ぼされる。王子の豊璋を担いだ百済遺民を支援して、中大兄皇子と斉明天皇が白村江の戦いに臨んだ。

豊璋を補佐していた武将に鬼室福信がいて、百済復興運動で大きな活躍をしたが、鬼室福信の勢力拡大でクーデターを恐れた豊璋が自ら鬼室福信を処刑したことで、白村江以前に百済の滅亡は不可避になっていた。半島を狙った唐の登場によって、日本も統一国家としての意識や朝廷・律令が急速に整っていくことになった。

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イスラム教の原理主義は先進国には分かりにくい、上原多香子氏の出産についての雑感、高度プロフェッショナル制度の感想など

無神論者は突き詰めれば実用主義か個人の虚無主義に行くので、他宗教の排除・対立のリスクもないが、ムスリムのような有神論の使命や熱狂のある集団の方が、生物として持続強度が強く人口も増える。

苦情言った仏教徒に禁錮刑…インドネシア、広がる不寛容 (朝日新聞デジタル – 12月27日 15:11) http://mixi.at/ajNMdFg

合理的な覚めた無神論者は、実在としての神はいるはずがなく、表象以外の即時かつ直接的な影響力のある神はいないということで話は終わるが、ムスリムはじめ本気で神の存在や宗教規範を素朴に信じている人は、「自分は自分・他人は他人のドライな個人主義」にはやはり行き着かない。生存競争の熱が熱く、神の冒涜には切れる。

しかし、科学主義や技術主義、功利主義を背景とするドライな非宗教的な価値観やライフスタイルは、究極的には「損得勘定・快楽と苦痛・好き嫌い・興味関心・社会適応度」しか持たないので、イスラムやキリストの有神論の「究極的な人の存在意義」はなく、人それぞれ好きなように生きればいいで、相対の虚無や孤立も増える。

現代の先進国の人の大半は、信仰があってもそれを誰にでも通用する普遍的な真理としての神とまでは狂信できず、ほとんどの人が神よりも人を上に置いた価値判断をするだろう。イスラム主義の国の残酷で理不尽な裁判・慣習に対して、日本人が抱く違和感も、イスラムが人よりも本気で神・習慣を上に置いた処断をしがちだから。

神様の侮辱や冒涜を理由にして、人を本気で死刑にしたり虐待したりといった感覚は、現代の先進国の平均的な人たちにはやはり分からない感覚になる。それは神も宗教も人が作り出したのだから、誰かを殺したり傷つけたりするくらいなら、神や宗教のほうを人間にとって都合のよい危なくないものに変えれば良いという合理による。

○上原多香子が魔性の女・薄情な女の批判もあるが、この若さで死ぬまで服喪して禁欲的に生きるのは無理だろうし、元々男性・恋愛を好む性格傾向もある。好みはあれど上原氏のような女性は、30~40代位までは放っておいても男が近づき誘ってくる。

上原多香子が第1子男児出産 コウカズヤ氏と再婚 http://mixi.at/ajPZ7lb

元夫の自殺というのは悲惨な結果で、弱っていた元夫を切り捨てて不倫していた上原多香子に一因はあると思うが、自殺する以前の段階で「上原氏が自分にもはや愛情も関心もないこと・どう頑張っても以前のような関係に戻れないこと」は明らかに気づいていただろう。 (12月30日)削除
啓思(けいし)

それが薄情な女、男好きな女だといえばその通りの面もあるが、落ち目になって付いてきてくれる型の女でないのは初めから見えていて、それを分かった上で交際・結婚するくらいでないと芸能人でなくてもこの種の女性の相手はつとまらない。子供ができない体で、その事実を相手が受け入れないというのだから自ら去るしかない。

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ローマカトリック教会の聖職者による性的虐待問題の考察、地縁血縁のしがらみのリスク、JR西日本の元職員による準強制性交等罪の要因など

○地縁血縁による相互扶助もあれば、親族トラブルから逃れられないリスクもある。田舎の本家は住居移転も簡単ではなく居場所は常に特定される。衝動的な親族との関係悪化、ストーカー・DV等の家族内問題が起これば危うい。

重体の男女死亡=親族放火事件-福岡県警 http://mixi.at/adfOgRV

○宗教の多くは性欲を禁圧するが、ローマカトリック教会の神父になぜ性的虐待が多いのか。「ヒエラルキー・身分制のある教会組織の構造」と「妻帯・性交を本気で禁止しようとする反本性的な規制の強さ」が性的虐待を誘発しやすい。

性的虐待撲滅に協力を、ローマ法王が異例の全信者宛て書簡 http://mixi.at/adfNaBS

ローマカトリック教会という世界規模の巨大組織の中で神父としての地位・役割を得て、更に昇進昇格をすれば敬虔な信徒や信者の子供から「素晴らしい人格者・宗教者」として手放しの尊敬・承認を受けることになり気分は良いだろう。だがどんなに教会組織で権力・権威を得ても性的欲求の充足だけは禁止されている葛藤が残る。

性欲の邪心を超越した敬虔なる神の下僕という建前を取る神父だが、現実には年齢や信仰・信念の度合いもあるが、宗教者だからといって一切の性的な欲求・関心がゼロにまでなるわけではない。権力・権威があり周囲に自分が魅力を感じる女性や子供がいる場合、理想的人格の演出と抑圧に限界・異常を来す恐れがある。

性的虐待をする高位宗教者(キリスト教に限らずカルトでも)は、罪悪感や信仰崩壊を防ぐため、「神への信仰の現れとして身体を捧げなさい・あなたの霊的な目覚めのため秘蹟を施す・私の欲望のためではなく神とあなたのため」など宗教偽装の言い訳をして、自分の人格・信仰を信じ込んでいる信者や子供を利用する卑劣さはある。

結局、個人として煩悩消尽の悟りを目指す原始仏教(小乗仏教)のような道のほうが性欲の煩悩を消せる可能性はあがる。巨大な教会組織とか仏教組織とかの中にあるヒエラルキー構造で権威権力・財力などを得れば得るほど、それらを用いて得たくなる「性の快楽・誘惑」に堕落しやすい。個人の無一物の修行者に勝るものはない。

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中沢新一らの「人類学」から現代人の脳の思考様式・自然観を考えてみる:現代人は想像力の飛躍的拡大を楽しんで悩む

現代人の脳と前近代の狩猟採集民の脳を比較した時、現代人の脳の方が知覚・生活経験に拘束されない豊かな想像力を持つ。「現代人の思考・生活圏の自由度」の高さを前提にする中沢新一らの人類学的な見方は面白い。識字率も低い狩猟民・牧畜民にとって、「鹿・羊・牛」はリアルな血を流す生き物・食糧で想像の余地は乏しい。

普段、獲物・家畜に接することのない現代人にとって「鹿・羊・牛」は、「血液・においを伴う食料資源としての動物」ではなく、むしろ「物語・想像を前提にしたイメージやキャラクター」であり、そこに愛玩動物的な感情移入さえ伴う事になる。リアルな動物を利用する狩猟民にとって屠殺の倫理や感情的抵抗は問題にならない。

「リアルな知覚・生活の実用」に脳の機能が強く拘束されているため、「イマジネーションの範疇」がどうしても余暇のある現代人より狭くなる。生きるための行動(食料・資源の動物)以外の余計な思索は捨象される。狩猟民は「具体的な事物・動物の血のにおい」の中を生きるが、現代人は「抽象的な観念」から事物を演繹する。

戦争・狩猟・屠殺の具体的行動から距離を置いた現代人の手一般は、「人間・動物の血液の感触とにおい」という穢れに触れずに生きている。その分、具体的なリアルの束縛に対する「穢れ・惨めさ・恐怖の意識」が強まる、汚れ仕事を武士・平民に回した平安貴族のように精神的強度が落ちて柔弱になったのである。

現代人、特にインテリや裕福な人ほど、「直接的かつ具体的な事物・経験の束縛」から自由だが、その反動で「リアルの知覚刺激不足による物足りなさ・空虚感」も生まれやすくなっている。引退したエリートサラリーマンには、お金が十分あっても畑仕事のような「土(リアルな事物の触感)」に触れたい人がいる理由でもある。

多くの現代人にとって、近代初期の工場労働のような単純作業を延々と繰り返すことはかなりの苦痛やストレスになる。それは教育を受けて知識の増えた現代人は、「頭の中だけで自由な思索や想像を無限に巡らせることが可能になったから」で、この常時の想像力を人類史を覆う人間の共通特徴と考えるのはおそらく間違いである。

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女性は結局「若さ+顔の魅力(美貌)」が重要なのか? 仏教・禅宗の「脱世間・煩悩消尽」の考え方についてなど

女は「若さ・顔」、男は「カネ・地位」は一般論だが、現実の選択では「自分の持つモノに見合った相手」なら大半の人は何度かは機会があるものだ。自分を受け容れてくれた相手に専心して感謝できるかどうかの違いが大きい。

女って結局顔なの…?見た目の重要性について男性に意見を聞いてみた http://mixi.at/agBmRw1 10月30日)

顔か性格かの二元論ではなく、現実的に選択可能な好みの異性で、「一緒にいて楽しいか・相手も自分に興味や好意を持ってくれるか」によって8割方は異性選択は決まってくるわけで、性格の良し悪しも相手が自分をどのような存在として受け容れてくれているか、お互いにどのような影響を与え合っているかに多くが左右される。

確かに、女性全体や男性全体をフラットに見渡せば、芸能人並の美人や可愛い人で尽くしてくれるようなタイプの人がいるかもしれないし、イケメンで資産数億円以上の高所得者で奥さん一筋の誠実な人もいるかもしれないが、そういった人でなければ絶対にダメな人はまずいない。自分側に見合うものが無いと分かっているものだ。

そういった諸条件において己を知り、相手を知った上で「縁・機会」が生まれるわけだが、「自己に対する過大評価・過小評価」や「相手のニーズや自己評価の読み間違え」によって多少のバランスのズレは出てくる。「美」というのは哲学のサブジャンルで美学があるように、深く考察すれば終わりがないものだが。

なぜ現代で「見た目・顔の造形」が重視されるようになってきたのか、端的には「身分制度の崩壊(食べるだけで精一杯の貧困層の減少)+経済発展による生存淘汰圧の低下+視覚メディアの普及」によって、一般大衆のセンスや美の快的刺激が貴族化したからだと考えられる。

美人やイケメンというのは、前近代では王侯貴族の恋愛や性、観賞の楽しみ・慰めにはなったが、一般大衆や農民にとっては直接的な生産性をもたらすものではなかったから、それほど極端に評価されるわけではなかっただろう。土に塗れて働くわけで、おしゃれや化粧もないから着飾って上品ぶって美観を競う文化そのものがない。

芸能界や風俗業界、アニメなどに代表される不特定多数の美人・イケメンを対象にしてあれもいいこれもいい、見ているだけで癒される云々は、お金持ちの芸術趣味や愛人文化と同じで「労働者的」ではなく「貴族的」で、地道な生活に根を下ろしていない。その意味で現代の若者の大半は貴族的センスに近づき、実力が伴わず悩む。

極論すれば、現代のメディア文化や芸能・風俗のビジネス、インターネット文化(インスタなどの写真メインのSNS)は、裕福であろうが貧乏であろうが、美貌があろうがなかろうが、ビジュアリズムや快的刺激の精神的貴族文化・趣味に巻き込んでしまうところがある。若者であれば一度は必ず洗礼を受けるモードとなった。

プロレタリア階級の労働者という実態は、現代の格差社会でも残っているのだが、現代人は相当に貧乏でブラック企業に圧迫されていても、「私はプロレタリア階級であり、企業・資本家の持つ資本による支配に抵抗してやる」といった自意識はない。階級分化や資本の暴力はあるが、「階級対立を生む自意識・抵抗」は消えた。

美人・イケメンなどが商業主義や恋愛市場でもてはやされるという現代のモードは、昔の左翼からすれば「ブルジョア的(僕がいう精神的貴族趣味)」かもしれないが、現代社会には経済格差はあっても「ブルジョアかプロレタリアートかの自意識の分裂・階級意識」はない。美と能力と資本の競争モードはフラットで個人帰属的だ。

○ユングが「中年期の危機」を語った20世紀前半の時代より、平均寿命が延びて雇用所得と老後の格差が広がり、家族の数が減った(単身高齢者増加)。その変化・個人差を踏まえ、人生の正午を過ぎた緩やかな下り坂をどう歩き抜けるか。

中年世代が陥る! 「ミドルエイジ・クライシス」の乗り切り方 http://mixi.at/agASPS4)

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