フィリピン人の母による無理心中か。移住者のタフネスの多くは『血縁・仲間のコミュニティ』に担保されるから、日本で問題になっているひとり親世帯の貧困・孤立のような圧力には脆い所もあるのではないか。
母子家庭における子育ての難しさは、単純に『収入が少ない貧困』もあるが『相談相手がいない・精神的に頼れない母子の孤立』も影響する。母親のメンタルヘルスが壊れ悲観的になった時、それを支持して立て直してくれる親密な他者がいるかいないかも大きい。単身・二人の世帯では自分の心の健康を崩すと致命的になりやすい。
フィリピン人の母による無理心中か。移住者のタフネスの多くは『血縁・仲間のコミュニティ』に担保されるから、日本で問題になっているひとり親世帯の貧困・孤立のような圧力には脆い所もあるのではないか。
母子家庭における子育ての難しさは、単純に『収入が少ない貧困』もあるが『相談相手がいない・精神的に頼れない母子の孤立』も影響する。母親のメンタルヘルスが壊れ悲観的になった時、それを支持して立て直してくれる親密な他者がいるかいないかも大きい。単身・二人の世帯では自分の心の健康を崩すと致命的になりやすい。
殺人の約半数は親族間で行われるが、それだけ接触・干渉の頻度が多く、反りが合わない時の利害や価値観の対立が強い。虐待・喧嘩・抑圧等で親子間や配偶者間の事件は多いが、孫が祖父母を殺す事件は珍しい。
現代日本における祖父母の定型イメージは『孫の溺愛・甘やかしの役・何でも買ってあげる(経済的余裕)』だが、現在進行形で高齢者の貧困問題も起こっていて、それほど型にはまった『孫に無害・甘い祖父母だけ(厳しさや意地悪がなく恨まれたり嫌われたりの可能性がない)』かというとそうではないのかもしれない。
子供時代のきょうだいの不仲の原因は『親の愛情・関心・評価・お金のかけ方の偏り』が多く、大人になってからは『金銭・介護・遺産の絡む利害や負担の差』から不仲になる事が多い印象がある。男兄弟で優劣・損得を張り合うタイプは概ね不仲になりやすい等。
きょうだいが典型的な不仲になるパターンとして、真面目に頑張っている自分だけ損や負担をしているように感じるという事例は多い。学業・生活・仕事の面などでいい加減というか自立力が弱い人ほど、逆に親や周囲の評価・扱いが甘く優しい、援助されやすい傾向もあるが、対等であるべきと思うきょうだいが不満を覚える等。
依怙贔屓というかきょうだい間の扱いの違いがある事例でも、一律にみんなが兄弟姉妹の仲が悪くなるわけではない。『あいつはダメな所もあるけど憎めない奴のキャラ』を親と一緒にきょうだいも認める人(ダメな所ばかり責めずそれなりに話せる関係)なら険悪にはならないが、子供時代からの差別待遇の不満も出やすい。
少女遺体「野宿する」とLINEで
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3571756
子供が被害者になる事件が起こった時に、『良からぬ悪友との交友関係・いじめや対人トラブルの兆候・夜遊びや異性交遊・親の過度の管理主義や放任主義』などが明らかになると、事件の真相や加害者の責任よりも『子供本人・親の落ち度』がクローズアップして養育責任・自衛意識の欠如として叩かれやすくなる。
確かに、小学生とほとんど変わらない体格・意識の小さな中学1年生の子供に、完全に『フリーハンドな行動の自由(夜間外出の自由)』を与えることは危険性が高いし、もしもの時に適切な対応や責任を取れないことが多い。
子育て論や法律論としては反論しようのない常識の正論ではあるが、正論過ぎるが故に『我が子が被害を受けたばかりの親・家族』に向けて語る言葉としては、ほとんど無意味であると同時に今言ってみても仕方のないこと(おそらくその親としてもいいか悪いかの常識論としては承知していたが実行できなかったこと)である。
犯罪に対する自衛意識や予防策を強化するために、『被害者の落ち度・問題点』を洗い出して警鐘・忠告の材料にすることには、『自分たちが危険な目に遭わないためにできるだけ夜間は出ないようにしようという意識の強化』もあるが、それ以上に『決まったルール・常識を守らなかったからあんなひどい目に遭ったんだよという自己責任・自業自得』を煽る好ましくない側面もある。
このケースは、親が監護責任を果たすべき12~13歳の子供であったから、『親がもう少しきちんと子供の行動・危険回避に責任を持って指導すべき・もっと子供が何をしているかに興味や注意を持って安全な生活ができるように守ってあげるべき』という正論は磐石なものだろう。
だが例えば、成人男性が夜間の帰宅時にコンビニに行っていきなり鉄パイプで殴打される強盗事件に遭ったとして、『こいつは夜間に出かけたから被害に遭ったんだ』となり、成人女性が薄暗い早朝の出勤時に路地に引きずり込まれて性被害に遭った場合に、『この女性は明るくない時間帯に短いスカートで出勤しているから悪いんだ』というような被害者の落ち度を過度に探ったり、人間のあらゆるリスクをゼロにしようという極端さに傾斜する可能性も否めないのである。
そもそも、現代では男女雇用機会均等の促進によって、深夜早朝のコンビニでも若い女性店員が働いていて、長距離の運送をしている女性ドライバーだって増えていて、『女子供だから夜は外に出てはいけないというルール』は仕事や生活の上でも守りづらい状況にある人が多い。
学校の部活でさえ、終わって帰る頃には9時過ぎくらいになることは珍しいものではないし、不良でもギャルでも何でもない真面目なそうな学生が9時~10時以降に自転車で帰宅している姿などもざらに見かけるものだ。疲れきった感じのサラリーマンの女性が終電で帰っている風景などもありふれた風景の一つであり、日が差さない夜になったら血に飢えたドラキュラや悪鬼が徘徊するとでもいうようなイメージで、日常生活や仕事・人間関係をこなしている人はまずいないはずである。
個人的には『夜間・早朝の外出』も割かし好きなほうだが、登山のアプローチでちょっとした市街地を夜中に歩いたり、映画館のレイトショーの帰りがけに徒歩でわざと1時間くらいかけて真夜中の道をテクテク歩いたり、ゴミ捨てのついでに早朝の繁華街をぶらついたりもする、夜でも0時くらいまでは結構ランナーやウォーキングの人と擦れ違ったりもするので、『静かな夜・朝の時間帯での運動や感覚の魅力』を感じている人も少なからずいるのだろうと思う。
夜間外出は、大半の成人男性の視点では目だった危険はまずないとも言えるが、無関係な他者からの殺人事件に遭遇するとしたら、年間発生件数からしても相当に運が悪いとしか言いようが無いが、腕力・抵抗力の面で弱者と見られやすい女性・子供の場合には男よりも一段リスクは上がるだろうから、『場所・時間』によっては一人での外出は気をつけたほうがいいのだろう。
若い頃の表層的・感覚的な恋愛では『他に好きな人ができたから別れてほしい』も多いが、男女関係は恋愛でも一人を選んだら他と余り親密にできない「一夫一婦制の誠実原則・独占欲」に相当拘束される。嫌いまでなっていなくても人生設計・倫理規範・結婚の必要で別れて疎遠になる事は多い。
他に好きな人ができたが別れの理由になるのも、一人の異性だけしか恋人にはできないからで、一度男女関係になると「ただの話し相手」への格下げはしづらく、新たな相手との関係維持の上で邪魔になる事(不信を煽る)も多い。男と女は『皆で仲良くする事・共有する事はできない』という人間の独占欲の起点でもあり、マルクス主義が『家族制度』を攻撃したりもする今から考えると不可思議な理論構成もあったw
マルクスは『私的所有制度の廃止・生産手段や財物の共有化』によって、人間が困窮・階級(不平等)から解放される理想の共産主義を夢想したが、マルクスとエンゲルス自身が歴史的に考察したように人の資本主義的な独占欲の根源は『男と女・家族(身内贔屓のネポティズム)』と癒着しておりこれを廃絶する事は不可能に近い。
人類社会の歴史は乳幼児死亡率の低下と産業社会・知識社会の豊かさの増大によって『多産多死→多産少死→少産少死』へと変化してきた。そのマクロな構造変化と意識変容の先端に、現代の日本や欧米諸国、韓国などが直面する“少子高齢化”の問題がある。
最も端的な構造変化は、生活者以外の目線と統計的な予測の知識を殆ど持たない『プロレタリア階級(非知の労働者階級)』の再生産システムの消滅である。現代は学歴や知的好奇心を問わず、『現在の政治・経済・社会情勢のちょっとした分析・未来予測』程度は、大半の人が“悲観楽観・情報精度の差”はあっても予測するようになり、先がどうなるかを功利主義的に読んでから行動を選択するようになった。
社会の高学歴化とプロダクト(製品)の高技術化、自意識の向上によって、『毎日ご飯と寝床が得られて子どもが元気に大きくなるだけでありがたい(子供の学歴・職業・収入云々は真面目に黙々と働きさえすればどうでもいいしどうにかなる)』というだけの要求水準で、『過酷・理不尽な長時間の肉体労働や階層社会の上下関係』に耐えるだけの地道な人生設計を受け容れられる労働者階層が大きく減ってしまった。
フルタイム(長時間労働)の勤勉さに報いるという側面のあった社会保障制度の持続性が疑われ始めたこと、激化する競争環境への適応として、企業(経営者)が『労働者の長期的な人生設計・子育て』等に配慮しないブラック化・人件費の削減・人材の使い捨て化に踏み切り始めたことも影響する。
公的年金支給開始年齢の引き上げと支給額の引き下げも予測されることから、長期にわたる不本意・低賃金な労働形態への帰属と忠誠が、(実績につなぐ知識や能力が不足していれば勤勉・正直なだけでは報われないことも多いという)意識の上でより困難になってきている。
公的年金の給付水準がこのままでは維持できないということから、子供を多く産む少子化解消が、『社会保障の財源不足・介護や単純労働のマンパワー不足』に対する処方箋のように語られることもある。
だが、こういった見方は現代の企業経営・労働・納税に理不尽さや不平不満を抱えている層にとっては、更に『生まれてくる人間=システムに使われる労働力・財源』というネガティブな認識を植えつけるだけである。子供を未来の福祉国家を支える労働力や納税者として扱おうとする『負担先送りの賦課方式』は、返って子供を産まなくなってしまう悪循環(格差・搾取・貧困の再生産の予感からの出産回避)を生みかねない。
また現時点における日本人でさえなかなか好んで就業しようとしない職種・分野・労働条件に、未来の子供たちが高齢者・日本経済・社会制度のために自分を犠牲にして、敢えて過酷で低賃金な仕事を選び、遣り甲斐を感じにくい仕事に就いてくれる保証もない。