「思想哲学」タグアーカイブ

幸福感を感じるための『努力』と『認知』と『諦観』の方法論:無意識の生活習慣を変える

『人間関係と仕事の充実・目的意識・経済的余裕・達成感ある活動』を軸に、『運動と休養・スキンシップ・日光浴・バランス良い食事・今ここからの楽観主義』があれば幸せかもしれないが、それは手軽・簡単な方法でもない。

“超手軽”に幸せになれる6つの方法

『超手軽に幸せになれる方法』としてセロトニンやオキシトシンを増やせば良いというのは脳内ホルモンの化学的還元主義だが、『脳内ホルモンを増やせば幸せ』というより『自分にとって望ましい状態に近づく努力』か『現状のあるがままを無理せず受け容れる諦観』かによって、人は今よりかは良い精神状態になりやすい。

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AI・ロボットの進歩は『正社員減少』だけではなく『労働以外の人の価値・生きがい』を浮き彫りにする

アメリカの発明家レイ・カーツワイルが、2045年にはAI(人工知能)とロボットが人間の知能を遥かに凌駕して自律的に人間の手を借りず学習・業務ができるようになる『シンギュラリティ(技術的特異点)』に到達するという神話的予言をしてから、AI関連の話題や書籍が急速に増えている。

SFの小説や映画ではAI・ロボットの究極の理想は、人間とほぼ同じ外観・機能を持ち、人間を遥かに超えた知能・肉体の能力を持ちながらも人間の思い通りに動いてくれるお馴染みのサーバント(奴隷)型の『ヒューマノイド』の作製にある。だが、完全なヒト型のヒューマノイド作製は技術的・原理的なハードルが非常に高く、現実的には『何らかの役割・目的に特化したプログラム+仕事に合わせてオーダメイドする非汎用型ロボット』になるだろう。

AI・ロボットのもう一つの理想とされるものは『産業ロボット・サービスロボット・自動化システム』の高度な進歩によって、人間社会や産業活動を自動的・効率的・計画的に運用したり対人コミュニケーション(合わない相手との対面)のストレスを最小化したり、監視カメラやセンサーなどの環境調整システムを社会・機械(車・建物など)に織り込むことで『完全法執行システム(違法行為やマナー違反をあらかじめ検知可能にして原理的に人が悪事をほとんどできなくなる仕組みの実用化)』を構築することである。

この理想はヒューマノイド以上に既存の人間の自由や尊厳を損なうものであるが、現代においてさえも『アルコールの息を検知したらエンジンをかからないようにしろ・どこで犯罪が起きてもその場面を撮影して後で犯人を特定できるように監視カメラを網羅的に設置せよ(更に全国民のDNA・指紋・虹彩などの生体データ提出を義務化して犯罪ゼロを目指せ)・列車の飛び込み自殺できないようなホームドアを完全敷設せよ』などの環境管理による秩序維持の意見は多い。

『個人がどのようにしても社会や他人が好ましく思わない犯罪・マナー違反をあらかじめ環境制御システムによって押さえ込むべき』とする考え方は、AI・ロボットが進歩する社会と親和的なものであり、心を持つ人間に監視されることに不快感や怒りを感じる人はいても、無機的な監視カメラやセンサーに監視されることなら許せるという人は多いのである。

心と人間関係(コネ)を持たず利権・感情に揺り動かされないAI・ロボットが監視・法執行をするのであれば、かなりの部分の人間は犯罪者・マナー違反者をあらかじめ検知して抑制や警告、排除をしていく『AI・ロボットの秩序維持システム』を歓迎する可能性は小さくはなさそうな気がする。

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龍樹(ナーガールジュナ)の“独立した存在”を否定する『中観・空』の思想:この世に確かなものがなく、『記号(言葉)』が虚構であるとする世界観は救いか虚無か

原始仏教の流れを汲む上座部仏教(小乗仏教)には『学問・修行・瞑想に専心する出家者のエリート主義』があり、サンガ(僧団)の共同生活の前提はあれど、『個人の自立・研鑽・悟り』に重きが置かれていた。

易行や信仰(帰依)によって、誰でも簡単に救済され得る、死ねばみんな成仏できる、念仏称名だけで十分な功徳になるとかいった『平等主義・大衆救済(一切皆苦の緩和)』の要素は、大乗仏教・浄土門・阿弥陀信仰の隆盛と拡大によって急速に広まったと考えられる。

大乗仏教の原点にいる人物としてインドの龍樹(ナーガールジュナ,2世紀)がいる。龍樹は頭脳明晰な学問の天才としての前半生で慢心して、国王の後宮に秘術で侵入して王の美女を蹂躙する快楽主義に溺れ、その罪が発覚して学友3人が処刑され唯一自分だけが生き延びた(生き延びて愛欲が苦悩の原因とようやく知った)という異色の経歴を持つ学僧である。

龍樹は仏教思想では、この世界に絶対的な実在は存在せずすべては相互依存的なものに過ぎないとする『中論(中観派)』『空』を提唱したことで知られるが、原始仏教の単独でも実在するもの(原理的な存在・独立的な真理)があるとするアビダルマの仏教体系を否定する独自の思想のほとんどは『般若経』に由来しているようだ。

『空』とは何かを一言でいえば、どんな事物でもそれ単独で独立して存在することはできないとする『無自性(無自性空)』であり、すべてのものは釈迦が『縁起』と呼んだ相互の因果関係によってお互いに作用して依存しながら現れでる『仮定の現象・暫時の幻影』に過ぎないとする。

空は仏教の四法印の『諸行無常』を規定する原理的概念としても理解することができるだろう。

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ジャイナ教のマハーヴィーラと物質化された『業(カルマ)』:世界初の無私有者を目指した全裸の変人・修行者

釈迦を始祖とする『原始仏教』の思想に影響を与えたものとしては、バラモン教とその原点にあるウパニシャッド哲学が有名だが、同時代人とされるマハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ)の『ジャイナ教』の生命尊重と難行苦行の世界観も釈迦に少なからぬ影響を与えたとされる。

ジャイナ教の概念の独自性として『業(カルマ)』の物質化(素粒子化)があり、業(カルマ)というと一般的には『行為の目に見えない善悪の積み重ねとしての現世での宿命・過去の行為がはねかえってくる因果応報の原則』として解釈されるのだが、ジャイナ教は業(カルマ)を霊魂に付着する物理的な微細物質として定義した。

善なる行為や苦行の実践によって、素粒子のような微細物質である業(カルマ)を軽減することができるというジャイナ教は、仏教のような目に見えない過去世の行為(カルマ)の積み重ねによって、『現世の宿命』が決定されてしまうという世界観よりも、本人の努力や意志がある程度まで通じ得るという点において倫理的ではある。

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死刑制度の廃止論・存置論の『人間観・刑罰の意義』について

歴史的に先進国とされてきたEU加盟国はすべて死刑を廃止しているが、死刑廃止論が沸き起こってくる必要条件は『経済成長・教育水準向上・人権思想・平和な環境・殺人の減少(殺人禁忌の規範順守の拡大)』である。

■日弁連、「死刑廃止」宣言へ 冤罪事件や世界的潮流受け

死刑廃止論は啓蒙思想・教育水準を背景として『理性的な言語が通用する人間(適切な環境で教えて話し合えば分かる人間)』が圧倒的多数派となった時に、野蛮(本能)に対する文明(理性)の優位性の証明として強まってくる。

反対に、死刑存置論では殺人者は『文明・理性・教育の啓蒙の及ばない野蛮人(理性の言葉が通じない教育するだけ無駄なディスコミュニケーションの反社会的主体)』とみなされる。死刑の判決を執行することで、被害者・世の中に対する応報刑の償いをさせて見せしめにし、決定的な再犯防止(息の根を止めれば二度と犯罪は起こしようがない)によって社会防衛を図るべきだとされる。

死刑には統計上の犯罪抑止効果はないとされるが、それは過去においては『貧苦による生きるためのやむを得ない強奪・殺人』が多く、現代の先進国においては『死刑があってもなくても殺人を実行する人の絶対数』が元々相当に小さいからである(殺人・暴力の禁忌が幼い頃からしつけや教育、人間関係を通して深く刷り込まれているからである)。

現代では『殺人・強奪以外の適応的な問題解決法の選択肢』が多いので、あえて他者の人権を決定的に侵害して社会的・法律的に厳しく指弾され(社会共同体から排除され)、生理的な気持ち悪さも伴う『殺人』を選ぼうという人は少ない。

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プラトン『国家』に見る哲人政治の政体循環論と優生思想:善のイデア(絶対価値)に魅了されて従う人

プラトンの『国家』はソクラテスとの対話篇の形式を取った全10巻の大著であり、近代国家の全体主義(戦争機械)や優生思想を引き寄せる危険な政治の書物でもあった。

プラトンの政治哲学は、大衆の理性を信頼せず衆愚政治をイメージするという意味で『反民主主義的(親スパルタ・反アテナイ)』であると同時に、階級・身分に応じた役割を果たす義務を持ちながらも同じ階級内(身分内)では平等を重視する意味では『階級制(身分制)+原始共産主義』の様相も持っている。

プラトンの国家論における究極の政治形態は、イデアに基づく最高の理性と判断力を持つ哲人王(絶対君主)に全権委任する『哲人政治』であり、多様性や自由・反論を許さない『絶対的な善(真理)の認識』があるという今からすれば非現実的な前提(イデア論における洞窟の比喩・洞窟の外の光という真理)を置いている。

『善のイデア』を認識できた哲学者が哲人王となれば、理想の国家(国家の徳)が実現するとプラトンは語る。だが、これは裏返せば絶対的な真理である善のイデアを認識したと称する哲人王にはいかなる者であっても反論できないし政治方針も変更させられないという『独裁政治の肯定』でもある。

共産主義における毛沢東やスターリン、ポルポトといった『我こそが正しい国(善なる経済社会)のイデアを知っている』とした共産主義の狂信的なリーダー(独裁者)とも重なる政治思想である。正義の国家を想定したプラトンが『個人の自由・権利』を顧みなかったように、近代国家の国民動員体制や共産主義というイデオロギーもまた個人を切り捨ててでも理想社会や戦争の勝利、経済的な平等を得ようとした。

プラトンの構想した『国家の徳』は『個人の自由・権利』を抑圧して全体的な正義と公正(共同体の秩序と戦争の勝利)を実現するというファシズムとの親和性を持つものでもあった。

プラトンは理想国家の構成員を『統治者・戦士(貴族)・平民』の三階級に区分したが、それぞれの階級ごとに定められた徳である『統治者の徳=智恵・戦士の徳=勇気・平民の徳=節制』の実践を義務的なものであるとし、国家全体の利益や繁栄のために個人はその自由・権利を捧げなければならないとする。

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