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絵に描いたような『看取られる安楽死』は、近代的自我が求める:自然死が消えた現代における死に方

安楽死選んだ女性 最後の16時間の一部に密着

『安楽死』は『尊厳死』と言われることもあるが、尊厳死でいう『尊厳』とは概ね以下の要因に基づいていて、『近代的自我・脳機能』と相関している。

1.『認識・意思・自意識・自律』に関する最低限度の脳機能(精神機能)が維持されていること。

植物状態や脳死に近づいて何も認識できなくなり自分が誰かもわからなくなり、事前に表明されていた本人の意思に反してでも無理に周囲が生かそうとする時に、尊厳が失われる。

2.回復する見込みのない致命的疾患が発症・進行しているが、その苦痛・苦悶が平均的な人間の耐え得る限度を超えないレベルにまで緩和されている。あるいは本人がその苦痛・苦悶に何とか耐えられる(耐えることに意味がある)と認識して納得していること。

病気や老衰に回復の見込みがなく、本人がそれ以上の苦痛・苦悶に耐えられない(耐える意味が分からない)と表明しているにも関わらず、極度の痛み・絶望に無理に耐えさせられている時、『今まで、自分にできる限界まで苦痛に耐えて頑張り続けてきたがもうダメだ』と何度も懇願しても、その願いが受け容れられず極度の痛み・絶望を本人の意思に反して(本人が無意味な痛みと感じている中で)味わわされている時に、尊厳が失われる。

3.『自意識・自律性・プライド』に依拠する本人が考える最低限度の人間らしさが維持されていること。

この尊厳の要件は、上の2つの要件と比較すれば薬物投与の積極的安楽死を認める根拠としては弱いが、自分で食事や排泄をすることができなくなったらできるだけ医療で無理に延命されずに(人工呼吸器・人工心肺・気管切開・経管栄養・胃瘻をできるだけ避けて)、『自然死』に近い寿命をまっとうしたいという本人の思いと相関するものである。

安楽死にも、筋弛緩剤投与などの医療行為によって死期が早くなるように幇助する『積極的安楽死』と延命治療をできるだけ行わないことで結果的な死期を早めることになる『消極的安楽死』の区別がある。

回復の見込みがまずない致命的な疾患や老衰、障害に直面した時に、延命のみの効果しか期待できない医療・介護を拒絶して寿命の到来を待つ『消極的安楽死』には反対は少ない。

医療者が薬物を投与して積極的に患者の生命活動を停止させる『積極的安楽死』にはさまざまな観点から賛否両論がでやすいものの、『幸福追求原理(苦痛回避原理)に依拠する近代的自我』の道徳規範からすれば、本人の同意がある積極的安楽死の賛成者が多数になるのは道理である。

『安楽死・尊厳死』が議論になる背景には、現代人の平均寿命が飛躍的に伸びて死ぬ寿命と健康寿命の間のギャップが大きくなったこと、ほとんどの致命的な感染症や内臓疾患を医療が克服したことで『がん・血管障害・老衰(認知症を伴いながらの老衰)』以外では簡単に人が死ななくなったこと、個人の生命の価値が過去に比べて非常に重くなり医療・介護を拒否した自然死に近づこうとする死を受け容れられなくなったこと(事件・事故・災害による偶発的な死も過去以上に受け容れられない理不尽なもの許されざるものとして強調されるようになったこと)がある。

近代医学と医薬品の進歩は『もっと長く生きたい・色々な病気を治したい・苦痛や不快を軽減したい・理不尽な病死を減らしたいという人々の夢』を概ね実現してきたが、『最期までぎりぎり健康でいたい・すべての病気を治したい』というレベルにまでは至っていない。

皮肉なことに長生きすればするほどに『がん・血管障害・老衰による健康喪失(機能喪失)のリスク』に晒される、究極的には老衰に抗い続けられた人間はいない。がんの発症リスクとして喫煙・飲酒・ストレスが強調されやすいが、20世紀後半からがんが急増した最大の要因は『高齢化(60代以降まで大半の人が生きられるようになったこと・加齢による細胞分裂時の遺伝子複製のエラー率増大)』である。

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吉本隆明の講演集の音源:死んだ思想家の語りを聴き終わるまでAudibleが解約できない…

今、満喫している楽しみの一つに、深夜・早朝の約60分間のウォーキングの時間に、AmazonのAudibleで今は亡き吉本隆明(1924~2012)の政治経済や文学と詩・人生論・宗教論などの広範なテーマを巡る講演を聴くことがある。

吉本隆明の著作そのものは、代表的な作品・思想以外は、晩年のものを中心に読みやすい時代批評や人生哲学を読んでいるが、吉本の文学論・近代詩論にはほとんど接していないのでそういったジャンルを新鮮味があるし、フランクなくだけたおっちゃんのノリで様々なテーマを持論を踏まえて楽しそうに語る吉本の講演は『今この世にいない死者の声』という意味で奇妙な時間軸の捻じれを味わうこともできる。

曽野綾子のキリスト教ベースの人生哲学とか、田中芳樹の『銀河英雄伝説』とか、芥川龍之介や夏目漱石の小説なんかもたまに聴いているのだが、音質が悪くて語りが必ずしも上手くない吉本隆明の講演が一番面白くてあれこれ考える材料になる。

ウォーキングしながらスマホで吉本隆明の『宗教としての天皇制』『国家・家・大衆・知識人』『親鸞について』などを聴いている人は、今の日本でどれくらいいるのだろうか、深夜1時などの同時間帯では恐らく僕一人ではないかと思いながら、暗く静けさに満ちた街灯が照らす夜道を5キロ、10キロと淡々と歩き続け、適当な所で見切りをつけて復路を辿る。

中には音が割れていたり小さすぎて聴こえないものもあるのだが、大学の講義・各地の講演会などで録音された年月を見ると1960年代~1980年代というかなり古いものであり、カセットテープに録音していたものをデジタル化したと思われるから、こういった『音質の悪さ・参加者の咳払いや不規則発言・室外の車などの騒音』も時代のライブ感として感じることができる。

吉本隆明は秩序だった講演の語りが上手いわけではないが、流暢ではないことが逆に『生身の語り(下書きした原稿の流れなどに強く頼らない即興的な語り)』の味わいを醸し出している。

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現代の日本人はなぜ幸福感を感じにくいのか?:他者との連帯感や思いやりを感じにくい経済社会の構造

近代化・市場原理の禁断の知の果実を食った反動。『文明・技術の進歩+他者との競争・差異の承認』は他者との境界の自我を強化し、『定常型社会・共同体的連帯』に戻れなくなる。

留学生たちと語った「日本人の幸福度が低い理由」 所得以外の何が足りないのか?

近代化・工業化を成し遂げた日本人や欧米人の幸福度がなぜ平均して下がりやすいのか、端的に近代化は個人化と能力主義(能力・魅力の需給のバランス)であり、『ただそこにいるだけ・頑張っているだけの人の価値』を概ね認めず、『現状維持でのんびり生きるライフスタイル』を許さない成長の強迫観念が常にある。

世界トップクラスの売上と利益を上げているトヨタのようなグローバル市場の勝ち組の会社であってさえ、『去年と比較して今年はどれだけ利益を増やせるのか?』という市場と株主の暗黙のプレッシャーを受け続けていて、絶対に休めない(これでもう十分とは言えない不安を煽る)仕組みが資本主義には織り込まれている。

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細木数子の宗教法人買収報道と『昭和の黒幕』とされた陽明学者・故安岡正篤とのつながり

細木数子をメディアで見かける事はなくなったがもう77歳か。霊感商法・占いで稼いだ財産は莫大だが、占い師で終わりたくない野心は、やはり戦前右翼の権威だった儒教の陽明学者・安岡正篤(やすおかまさあつ)氏との関係強調に回帰するようだ。

http://news.livedoor.com/article/detail/11239607/

安岡正篤という儒教・陽明学の思想家は、端的に言えば『東洋の政治哲学・帝王学の権威』で、政財界・軍部に思想的に非常に強い影響を与え、吉田茂はじめ戦後の自民党の統治理念や施政方針演説にも直接間接に関与した精神的指導者のような人物だ。『昭和最後の黒幕』とも呼ばれたが、細木数子との交流は認知症になっていたことによる判断力低下も言われているが、85歳で何十歳も年下の女性と入籍などは晩節を汚す行いの類だったようにも思える。

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ディープラーニングの人工知能(AI)の進歩とシンギュラリティーによる社会の変化についての雑感

ディープラーニングの人工知能が人間の知能を超える『2045年のシンギュラリティー(技術的特異点)の予言』は、クラウド、IoT、ビッグデータ、ロボット工学等と有機的にリンクするが、AIに人の仕事が奪われるという悲観の背後には『機械・ロボット・コンピューターに代替されない人間の能力・脳の本質』もある。

今私たちが使うスマホは約20年前の国家プロジェクトで使われたスーパーコンピューターを凌駕するコンピューターであり、ムーアの法則に陰りが見えてきたとはいえ、小型化・高性能化のコンピューターのハードウェアの進化は急速だ。2045年には現在の『京』に相当するCPUや量子PCを個人が携帯するとも予測される。

21世紀半ば以降に、世界の仕組みや仕事のあり方がどのように変わるのかは確実な予測が困難だが、『あらゆるモノ・場面と知識・情報の効果的結合』が極めて強力な計算機(自動学習型の人間知能と区別困難なAI)によって実現されるモデルなのだろう。IoTの進化版としてIoE(万物のインターネット)なる概念もでてきていたりで、そこまで何でもかんでもすべてをネット接続すべきニーズがあるのかは疑問だが……

端的に、モノ・場面と知識・情報が現時的かつグローバルに結合されるようになれば、国家・法の権力による規制障壁や事前調整はますます崩される。市場原理・金融取引による格差拡大が憂慮されるが、ロボット工学や生命工学の『人間の身体・作業の代替率』が未来の人間の仕事・収入や健康・寿命に大きな影響を及ぼすのか。

世界の共通言語として『英語』は依然として強い影響力を維持するだろうが、21世紀後半には『計算機言語(プログラミング言語)とAIに関する言語センス』がスキルとして高い価値を持ち、イスラム教徒の人口ボリュームの増大によって『アラビア語』の話者も増える。政治・民族・宗教に技術革新がどう作用していくか。

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釈迦(ブッダ)とイエス・キリストの死から『無常・不死願望』を考える:知識・教養の効用とは何か?

東洋の仏教(釈迦)と西洋のキリスト教の最大の違いは『死の捉え方』にある。釈迦は死を『無記』として諦める他ない人の無常の定めとする(浄土思想はキリストに近い)が、キリストは『死と復活の物語』で人間の不死願望(消滅の不安・無意味さ)を満たそうとする。この『魂の不死+理性による救済』はソクラテスまで遡る。

ソクラテスの毒ニンジンの自死とキリストの十字架の刑死は『ヨーロッパ文明の礎石』だが、仏教や釈迦の涅槃と比べれば人が死ねば消滅するしかない現実を受け容れられない人間臭い思想だろう。『理性(ソクラテス)と信仰(キリスト)』で死(消滅・無意味)に抗い、理屈好きのギリシアの哲学者達さえも非理性的な『魂の不死』を信じた。

ヨーロッパ文明の源流にあるギリシア哲学とキリスト教は、『死ぬ人の有限性の限界』を理性教と宗教で克服しようとした営為だろう。ソクラテスとプラトンはイデア思想によって『肉体が滅びた後の愛知者の魂は不死』という理性信仰を掲げ、キリストはより大衆的に『神を信じれば死と復活で永遠の幸せが約束される』と説いた。

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