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安倍政権に期待したい政策として上げられる『少子化対策』はなぜ難しいのか?

安倍政権の支持層は保守的な「安保・改憲・外交」などに期待するだろうが、慰安婦問題で一定の妥協をしたように北朝鮮牽制の対中韓の東アジア外交で柔軟化も有り得る。高齢者福祉の為の少子化対策という不純な動機では成果は上げづらいだろう。

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少子化は個人の幸福を追求し始めた先進国に共通する問題で、その本質は産業構造・教育制度・子育ての倫理の転換による『子供の負債化』と『恋愛・結婚の性選択強化』である。農業・工業が中心の産業構造の時代には、大半の子供には高等教育・習い事のコストは不要で健康・素直なら子供は短期間で自立し資産化しやすかった。

子供の数が多ければ多いほど、家が豊かになったり一族の勢力が増しやすいというのが、子沢山な途上国(前近代の農業経済・地域共同体)の前提だが、現代の都市文明・産業社会・教育や個人ではその前提が殆ど通用しない。少子化原因の倫理転換は『親に尽くす子=早期の孝行』から『子に尽くす親=長期の支援』の変化だろう。

そういった産業構造の転換や職業意識の変化、子供の教育・職能・キャリアなどを考えると、マクロで国家・家族・個人の利益と持続性につながる少子化対策というのは、本質的には極めて難しい課題という事が分かるだろう。単純に、子育て支援に予算を大幅に割いて数字上の子供の人口だけが増えれば解決する問題ではないのだ。

少子化対策をしなければならない理由は「経済規模の縮小・景気と財政の悪化・超高齢化社会の支え手の減少」を防ぐためである。少子化が起こらない社会は、「子が親を支えてくれる可能性の高い社会(社会保障制度が整備されていない血縁の相互扶助社会)」だが、日本は資産・雇用の面で子・孫の代にその体力は期待しづらい。

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『六曜』の吉凶占い・迷信からなぜ差別が連想され得るのか?

古代では『暦』は『吉凶占い・運勢』とセットだった。六曜も暦に日の吉凶を加える『暦注』の一つで、日本には鎌倉・室町期に入った。六曜の影響は冠婚葬祭で強いが、明治期にも一度禁止されている。

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『六曜』が科学的根拠のない迷信・俗習であることは確かだが、それがなぜ部落解放同盟が憂慮する『差別』に結びつくのか。『一定以上の人数が根拠のない吉凶占いに従う(あるいは本心で信じていなくても同調圧力の世間体に合わせる)』という集団心理を、かつての部落差別・穢れ嫌悪の心理と重ねたという事だろう。

部落差別は『旧身分(穢多・非人)+職業差別+穢れ(ケガレ)思想』に基づいて行われたものである。『生き物の殺生に関わる職業および河原等の特定の地域は汚穢(ケガレ)に塗れている』という無根拠な迷信があり、その迷信は『合理的な抗弁』では変わらなかった。その差別的な大衆心理を六曜の影響力に重ねたという事か。

部落差別と六曜には直接の関係はないが、その大衆心理・世間体の構造には似た要素があるとは言える。部落差別も『私は部落を差別しないという人』が『実際に部落の人と結婚するとなったら猛反対する人』が多かった、六曜もまた『私は六曜など気にしないという人』が『実際の冠婚葬祭では六曜に従ってしまう人』が多い。

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仏教の諸行無常の世界観と人の悩み・苦しみへの対応:流動的な現実・自我に対して固定的な意識(過剰な欲望・執着心)になり過ぎないように。

仏教の世界観は『諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静』に集約されるが、個人の解脱(正覚)や衆生の救済を説く仏教の功徳は『抜苦与楽』といわれる。

人はなぜ苦しむのかの問いに、ゴータマ・シッダールタ(仏陀)はシンプルに『煩悩・渇愛の執着』があるからだと答えるが、それを諸行無常に照らせば『すべてがただ過ぎ去る(生命の炎がいつか吹き消される)世界の中に、自我とその快感覚を常住させようとする執着の足掻き』によって苦しむとも解釈できる。

生命活動とは、すべてが流れさっていく中で流されまいと踏ん張り、吹き消されようとする中で吹き消されまいと己を燃やす営みであり、自我が時間に流されて吹き消される前に、次世代の生命へと輪廻する縁起・本性を持つものでもある。

悠久の宇宙と膨大な時間を前に、人は砂粒ほどに小さく無力である。その人為・努力・技術あらゆるものをもってしても、宇宙開闢以来すべてを流しさって生命とモノの秩序を崩壊させてきたエントロピー増大則に抗することは不可能であり(刹那的な生命・仕事によるネゲントロピーで部分的な抵抗はできるが)、時間が何なのか何の意味があるのかさえ誰も分からない。

存在の有限性と自我の一回性の前に、人は根底的不安から戦慄して目を背けざるを得ない。有限性を直視して苦しみ・迷いを超越して輪廻から離脱したものを正覚者たる仏陀と呼ぶ。だが煩悩と弱さを抱えた人間はまず仏陀などにはなれないからこそ、人間界は輪廻を繰り返して今なおここにあるとも言える。

苦しみの原因として『生・老・病・死』の四苦を上げるが、これは『時間経過による死の運命』であると同時に『人(生命)の有限性』によって生じる不可避な苦しみである。私もいずれ老いて死ぬが、私より先に生まれた祖父母・親きょうだいはかなりの確率で先に死に、好きになった人も大切な人も良い思い出のある人も嫌な思い出のある人もおそらくは、宇宙的時間に照らせばわずか100年(またたきの刹那)の歳月にさえ耐え切れずどこかに流れ去っていくだろう。

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なぜイスラム教徒(+キリシタン・白人のムスリムへの改宗者)は増えるのか?

イスラム教は現在のペースで信者数を増やしていくと、2070年にはキリスト教の信者数を追い越して、『世界最大の宗教勢力』へ拡大すると見られている。ムスリムの人口は現時点でも16~17億人以上はいて、この人口は今後増えることはあっても減ることはまずなく、毎年数百万人の単位で増えていくと予測されている。

なぜ増える? イスラム教への改宗

日本人にとってイスラーム(イスラム教)は、もっとも馴染みが薄い世界宗教であり、イスラームは日本人一般が宗教アレルギーを感じやすい“規律的・強制的な宗教”としての特徴を多く備えている。

仏教の戒律でさえ、天台宗の円頓戒や浄土門の解釈で無効化してきた日本人は、宗教的な細々とした行為規範が日常生活の内部に入ってくることを嫌う傾向がある。
イスラームというのは『信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼』など五行の義務の強制力が強く、集団主義的な同調圧力や宗教的な罰則がある点でも、現代の先進国の人々には一般的には受け容れられにくい。

では、なぜムスリムの人口は拡大し続けるのか。記事にもあるが、その原因は主に以下のようなものである。

1.イスラム教徒の女性合計特殊出生率の高さ+先進国の出生率の低さ

2.イスラーム圏の若者人口比率の高さ+先進国の超高齢化の進展

3.非ムスリム、特に先進国(自由主義圏・資本主義圏)からの改宗者の増加

なぜイスラム教徒の出生率は高いのか。紛争地帯・治安悪化地域が多く、平均的に教育水準が低くて、『結婚・出産』以外の女性の人生の選択肢が殆どないからである。

伝統的な部族共同体のルールや性別役割分担のジェンダーから、女性が『自己決定権・自己選択権』を理由にして、結婚しない産まない(子供は○人で良い)といった選択をすることが難しく、また高等教育前後のモラトリアムもないので一定の年齢で大半が部族の義務として早くに結婚する。

家父長制に基づく家族制度で『男=夫・父の権限』は先進国とは比較にならないくらいに強く、女性は基本的には家(父)に付属する財物としての認識に近く、自分がどうするかを自分で決める『自由な個人』という自己規定そのものが男でも女でも成り立たない。部族(血族集団)や家(男の庇護)から切り離された女性は、生きていくことが不可能か極めて困難な状況にある。

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現代に甦る“選択権・科学知の優生思想”と“五体満足で生まれてくれさえすれば~”の高齢者世代

障害児・障害者の出生を巡る議論には常に誤解と文脈のズレ、感情のもつれがつきまとう。

自分が障害者であるか否か、家族や友人知人に障害者がいるかいないかの『当事者性・実際の負担の有無』を抜きにすれば、『障害者の出生前診断や堕胎への賛否』というのは“他人事の圏域”を出ることはないから、一般論として障害胎児の堕胎をすべきではないといっている人が、その当事者(母)になれば堕胎の選択をすることは十分に有り得る。

■障害児出産発言、茨城県教育委員が辞職申し出

“健康(美しさ・強さ)”を賞賛する悪意のないナチュラルな優生思想的な感覚でも、それを発言する時の立場・肩書き・環境・聞き役(聴衆)によっては、『障害者差別の問題(下手をすればナチズム賛同疑惑)』としてクローズアップされてしまう。長谷川氏のような政策・教育に一定の影響力のある公人は、『障害胎児の堕胎の賛否』については、親となるべき当事者の選択に任せるという以上の踏み込みをすべきではないのである。

教育委員の長谷川智恵子氏(71)が『茨城県では減らしていける方向になったらいい』と発言したことで騒動が広まり辞職することになったが、教育委員や政治家、産科院長など公人としての立場で『障害児の出産・堕胎・幸不幸にまつわる価値判断』を明言することは原則として倫理的・福祉的なタブーである。

おそらく長谷川氏は特別に深く考えず、昔ながらの健康な赤ちゃんを願う親・祖父母の一般的な気持ちを前提にして、『五体満足で生まれてくれさえすれば他に多くは望まない』といったようなニュアンスから、行き過ぎた『障害児の出生前診断+堕胎の選択の推奨』という公人のタブー領域に言及してしまったように思う。

自分の家族や親しい知り合いに、頑張って自分たちなりの幸福や可能性を追求しながら生活している障害者・障害児がいれば、軽々しく『障害者を減らせる方向性になればいい・妊娠初期にもっと障害の有無がわかるようにできないのか』とまでは踏み込めないものだ。

ここで、周りに健常者ばかりしかいない、重い障害者やその家族のことを慮る配慮を普段からしていないという長谷川氏の世界観や人間関係(付き合いの範囲)の狭さが露呈してしまったといってもいい。

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容姿の良い女性議員が選ばれやすいのは『誰が政治家になっても同じの心理+人工知能やハイテク管理社会の予兆』の裏返しか。

■「顔で受かった」「男性票狙い」 女性議員は容姿なのか

外見を巡る女性議員の不満が色々と書かれているが、“地盤・看板・カバン”のない無名の若手の女性立候補者であれば、『外見の良さ(必ずしも特別な美人である必要はなく清潔感・爽やかさ・フレッシュさ・真面目そうな雰囲気があればいい)』が、議員に当選するための強力なアドバンテージになるのは厳然たる事実としてあるだろう。

なぜ実力・知見ではなくて容姿・外見をメインにして選ぶのか、どうして中身をよく見ずに外見の印象だけで適当に選ぶのかという反論は、国・地域の代表者を選ぶ代議制の政治システムが不真面目に運用されているのではないか(美人投票という衆愚政治に堕落したのではないか)という不満・不安に行き着く。

だがよくよく考えてみれば、私たち有権者は『政治家の中身を査定する情報・基準』をほとんど持ち合わせておらず、更に『政治家個人としての力量・信念・可能性を評価するために何を参考にすれば良いのか』ということについてもよく分からないというのが実情なのである。

『立候補者の演説している内容・政党の有力者の語る推薦理由』を聞いたり、『立候補者のウェブサイトに書かれている政策方針・学歴や職業キャリア・思想信条』を読んだりして、容姿の美醜なんかの表層的情報に左右されず、その立候補者が国会議員・地方議員として適任かどうかを公平に判断すべきというのはなるほど正論である。

しかし、仮にも政党から公認されて議員に立候補する人が『むちゃくちゃな思想信条の表明・人格や価値観を疑われる自己主張』などするわけもなく、演説や文章の内容を細かく精査しても『所属する政党のマニフェストの範囲内で無難なことが書いてある・社会や未来や子供や外交のことなどを色々真剣に考えてくれていそうだ(真剣に考えていない、世の中なんてどうでもいいという姿勢をアピールする候補者などまずいない)』としか言いようがない。

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