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寿司を食べる順番と保存食(発酵食)からの鮨の歴史

回転寿司が普及してから、寿司の高級感・特別感がかなり薄れてしまった感じがするが、最近は以前カウンター式の高い店だったところが、回転方式に鞍替えしていたりもする。スシローやくら寿司、かっぱ寿司とかの大手チェーンは、一皿100~200円くらいの画一的な料金の安さを売りにしているが、(十分に美味しいし季節のオリジナル商品の面白さもあるけれど)ネタや味はそれなりといえばそれなりではある。

みんなどうしている?お寿司を食べる順番

回転寿司でも一皿300~500円以上の高い皿があるところは、カウンター式と殆ど変わらないお高い料金になるが、ネタもかなり高級なものや珍しいものが置いてある。

福岡県だと門司港とかトリアス久山とかにある『玄海』という回転寿司チェーン(店舗数は少なそう)がそういったやや高めの回転寿司だが、百円の回転寿司と比べるとマグロや車海老、ウニ、エンガワなどが分かりやすいが(100~200円でもウニは食べられるが種類・質・鮮度は必然的に劣る、季節や仕入れの都合で置いてない場合も多い)、ネタの良さはかなり違う。

寿司の食べる順番というのは余り意識したことはないが、僕は『通』でもないので
、マグロ(赤身)・サーモン・エンガワ・ウニ・イクラなど結構好きなものから食べて、最後にあっさりした白身や細巻きを食べるという感じで記事とは逆になっているな。アジやイワシ、サバ、カツオといった光り物(青魚)も好きなので、マグロやサーモンと交互に頼んだりするが、貝類・エビ・イカもアクセントとして一品は食べたくなる。

回転寿司でも、茶碗蒸しとか汁もの(あら汁)とかと合わせて食べて、最後はわらび餅とかアイスとか簡単なデザートも頼んだりする。皿数でいえば12枚以上食べることはまずなくなった(そんなに量を食べられなくなった)ので、食べたいネタをある程度厳選してから食べてはいるが、そうなるとかっぱ巻きや新香巻きといったものが後回しになって食べたいけど食べられなくなりやすいw

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国民・政治家の世代交代の進展、『終戦記念日(不戦の誓い)』の緩やかな変質:米国の戦勝に寄りかかる東アジア諸国の歴史認識とコンプレックス

戦後日本の平和を支えてきたものとして、日本国憲法(9条の平和主義)と日米同盟、米ソ冷戦構造(核抑止力)、経済大国化(暮らしの豊かさの上昇)があるが、それにも増して『日本の重武装・9条改正・右翼性・戦争参加』を抑止してきたのは、『アジア太平洋戦争(大東亜戦争)で家族の死傷・飢餓と貧窮・不自由と国家権力(軍)の横暴を実際に経験してきた人たち』であった。

終戦記念日:69回目の夏、平和誓う 武道館で追悼式

軍隊生活の理不尽な上下関係、兵站を無視した行軍・現地調達の過酷さ、ジャングルや島嶼での伝染病の苦しさ、飢え死にするほどのひもじさ、庶民(部下)を見捨てて戦後に責任逃れをする卑劣な戦争指導者や上官(教員)への怨嗟、権力や軍部からの強制と隣近所の相互監視、嘘で塗り固めていた大本営発表と戦地の現実など……それまで戦争の大義名分・利益強調と天皇崇拝の国民教育(非国民として非難される恐怖)によって目隠しされていた『戦争の本質・大衆の本音・庶民の犠牲』が敗戦によって溢れ出てきた結果が、もう戦争はこりごりだという戦争放棄(国民を徴発して無謀な戦争を遂行した国家権力への不信)であった。

それまで、日本人や大和民族、天皇の赤子(臣民)として『仮想的な一体感・忠君報国の義務』を持つとされてきたが、『日本の政治家・軍部・官僚・財界の上層部』は戦時中にも飢餓や貧困、戦死(戦地での餓死病死)と無縁だった者も多く、無謀で危険な作戦を計画立案した将校がのうのうと生き延びていたりした(戦争末期の現場からかろうじて逃げ出していたりした)。

この現実を見た庶民・兵卒の中には、『同じ日本人(一君万民)という一体感』は実際には幻想であり、無位無官の力を持たない日本人に危険な仕事を愛国心(臣民としての誇り)を理由にして押し付けていたのではないか、政治指導者をはじめとする上層部は『庶民の生命・権利』を軽視していただけではなく、交換可能な部品のように武器・食糧もない戦地に無意味な兵員投入を繰り返したのではないかという不信・憤慨でもあった。

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土居健郎の『甘えの構造』からの考察:『母(妻)・芸者(娼婦)・妾のマトリックス』と日本文化における男女関係

精神分析医の土居健郎(どいたけお)は、『甘え』の感情を世界の国々にも普遍的に見られる感情だと前置きしながらも、『母子関係の密接さ(父性原理の弱さ)』のある日本において特に強い感情だとした。

土居の語る『甘え』とは、『他者の自分に対する好意や手加減を当てにして振る舞うこと』である。ここでいう他者とは『母親代わりであることを期待する人物の表象』であり、甘えは発達早期の乳幼児期の母子関係の中で『赤ちゃんの微笑・泣き・排泄などに的確に応えてくれた母親の行動』が原型になっている。

従来、日本では恋人・妻を『母親の代理表象』にしてしまって、無償の愛情・献身が継続することを信じていたり、身の回りの世話を焼いてもらったりする男性(亭主関白・マザコン・アダルトチルドレン)が多かったが、その根底にある感情は『甘えられる女性(好意や配慮を無条件で期待できる女性)』を求める欲求であったと言えるだろう。

日本文化と『母性・ママ・おふくろの言葉』は多義的な結びつきやメタファーを持っており、実際の生みの母親だけを指示するものではなく、飲み屋・料理屋の女主人をママと呼んだり、典型的な昔ながらの家庭料理をおふくろの味と呼んだりもする。そこには、男性の社会的・外面的な体裁やプライドを外して接することができる『甘えられる対象・懐かしさ(帰れる場)を味わえる対象としての語感』が織り込まれていると解釈できる。

人権意識と産業経済が発達して農村(大家族)が衰退した先進国の多くでは、晩婚化・出生率の低下などが必然的な傾向として現れ、女性は必ずしも母親になるとは限らなくなったが、この事は『(農業経済段階・イエ制度の)母性神話の解体』であると同時に『女性の個人化(イエ・母性からの解放)』でもあった。

それが現代では更にねじれて、『労働市場での女性の自立(キャリア構築)の大変さ』から『母性神話・家庭の中の居場所へのバックラッシュ』も起こっており、若年世代では、企業社会で競争するキャリアウーマンよりも専業主婦(+短時間労働)に憧れる人の割合が増えたりしている。

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アメリカの原爆投下は、なぜ日本人の怨恨・屈辱を長引かせなかったのか?:戦後日本の幸運なサクセスストーリーと90年代からの停滞ムードからの国民意識の変化の兆し

こういった疑問を抱く人も近年は特に増えているようだが、この答えは『終戦前後の大日本帝国の支配体制及び生活状況が悲惨であり既に厭戦気分が強かったから・自国の政治家や軍人が統治しているからといって必ずしも日本人の生命及び権利が大切にされていたわけではないから・アメリカの占領統治が日本人の反感を買わないことに腐心したから』ということになるだろうか。

何より、戦後日本の実際の歴史的な歩みには、敗戦のショックや屈辱(暗い見通し)を打ち消すだけの焼け野原からの復興・前進・急成長による明るさがあり、それは大勢の日本人にとって日本がアメリカと同等の豊かさを持つ先進国に成り上がっていくというサクセスストーリー(非軍事的な経済競争・技術開発での勝利)として受け取られた。

血も涙もない『鬼畜米英』と教育されていた日本人は、戦争に敗れれば男はみんな殺害されたり奴隷にされ、女は強姦でもされるものと思って決死の総力戦に奮戦したが、いざ実際の占領統治が始まるとアメリカ軍は暴力的・虐待的な支配や使役を行わず、むしろ日本人の飢餓・貧困・不自由に配慮する焦土からの復興支援プランを示したことで、日本人の大多数は肩透かしを食らった。

日本政府は配給を滞らせて飯を食わせてくれず、逆に食糧をすべて軍のために徴発していったが、メリケンは庶民でも飯(パン)が食えるような食糧支援プランを講じてくれた、戦後すぐの荒廃し尽くした焦土における飢えと不安、そこに与えられた米軍からの配給食糧の恩恵は、長年の教育で刷り込まれた日本人の欧米憎悪(白人の鬼畜視)を緩やかに崩すに十分な効果を持っただろう。

アメリカから流入する華やかな文化文物・娯楽・映画・ファッション・進んだ機械は、『日本の後進性』を第二の黒船ショックのように刺激して、大日本帝国時代に持っていた、日本はアメリカやイギリス以上に先進的な素晴らしい国(日本人はアメリカ人やイギリス人よりも皇国・天皇から赤子として大切に処遇されている)という幻想があっという間にかき消されてしまった。

軍事的な総力戦で敗れただけではなく、国民の自由や幸福、娯楽、政府の社会福祉や人権保護、男女平等の領域においても、日本はアメリカやイギリスに及んでいなかった現実を突きつけられる格好になり、『明治維新以降の殖産興業・自由民権・物質文化の向上』が昭和初期に頓挫してしまったことで、日本人は『国・天皇のために全てを捧げなければならない臣民(命・身体さえも拘束され得る非自由民)』にとどまっていたことに気づかされるのである。

結果、日本人は『初めから勝てない戦争(圧倒的に経済・物量も軍事も文化娯楽も進んでいる米国との無謀極まる戦争)』に政府や軍から騙されて駆り出されたという被害感を持つことにもなった。これは半分真実、半分捏造とでもいうべき被害感である。

当時は戦争(外国嫌悪)や国家主義(天皇崇拝)に賛同して貢献するような国民になるように教育されていたのだから、『戦争反対・個人主義・平和主義』などの価値観を持つ国民は殆どいなかった。

満州事変や国連脱退、三国軍事同盟、真珠湾奇襲など、英米との軍事的緊張が高まり衝突していくイベントに際して、日本人の大多数が興奮して拍手喝采したというのも事実である。日本の帝国主義や国体思想は『国民教育の前提』なので、日本の支配圏の拡大やアジアでの軍事的プレゼンスを押さえ込もうとする英米が嫌いな国民が多いのは当然といえば当然であった。

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映画『るろうに剣心 京都大火編』の感想

総合評価 90点/100点

戊辰戦争から10年以上の歳月が流れ、西郷隆盛の西南戦争で“殺人のための剣”を生業とする士族の旧弊な残党勢力は敗れて、歴史の表舞台からの退場を余儀なくされた。武士の特権である帯刀を禁止された四民平等の明治の世、幕末動乱期の薩長のように暴力で地位や勢力を得ることは不可能になり、腕のある人斬り・剣客・無法者といえども刀を捨てて近代的な明治維新に適応するしかなくなったのである。

戊辰戦争で官軍(長州藩)について要人暗殺を繰り返した“人斬り抜刀斎”こと緋村剣心(佐藤健)だが、剣心の後に人斬りの暗殺者として官軍に雇われたのが志々雄真実(ししおまこと・藤原竜也)だった。志々雄真実は剣心に匹敵する剣術の使い手で、戦争では無数の敵兵を斬り殺し、政変では多くの幕府の要人を暗殺して、討幕に大きな貢献をした。

だが、新政府の大義名分を失わせる暗殺の秘密を知っているということで、志々雄は突如味方から裏切られて斬り付けられ、その身体に油を掛けられて激しく燃やされた。奇跡的に一命を取り留めた志々雄真実だったが、容貌の原型を留めない程の大火傷を負い、ケロイドとなった全身に薄汚れた包帯で巻きつけ、明治政府に対する『復讐の鬼』と化す。

『政府転覆・弱肉強食の新世界(弱者の自然淘汰)』のために、新しい太平の世から爪弾きにされて腐っている剣客や無法者を集め、反政府活動を行う一大勢力を結成した志々雄真実は、次々と地方の村落を勢力圏に収め始めた。危機感を募らせる明治政府は、繰り返し討伐軍を編成して志々雄一派が支配する村に差し向けるが、その全ては返り討ちに遭ってしまう。元新選組・三番隊隊長の斎藤一(江口洋介)でさえも、火計の罠にかかって部下を全員焼き殺され、遂に志々雄を討ち取ることはできなかった。

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映画『300 ~帝国の進撃~』の感想

総合評価 90点/100点

前作『300』では、100万以上の大軍で押し寄せるクセルクセス大王のアケメネス朝ペルシア帝国を、レオニダス王率いるわずか300人の精強なスパルタ兵が迎え撃った。幼少期から過酷なトレーニングで最強の戦士を育て上げる都市国家スパルタが、玉砕覚悟の戦闘を挑んだ伝説的な『テルモピュライの戦い(紀元前480年)』を題材にしてアレンジした映画である。

ポリスの自由と独立を守るために勇猛果敢なスパルタ兵たちは、ペルシア帝国の圧倒的な大軍に恐れを知らぬ突撃を繰り返す。わずか300名の精兵のみで100万に近い大軍を3日間にわたり足止めし、スパルタの武力の強さとレオニダスの名を伝説にまで昇華させたが、“神王”を自称するクセルクセス大王(ロドリゴ・サントロ)の『ギリシア征服の野心』まで吹き消すことはできなかった。

都市国家アテナイは、ペルシア戦争序盤の『マラトンの戦い(紀元前490年)』で勝利を収めたことで軍事防衛の自信を深め、親ペルシア派を陶片追放して対ペルシアの敵対的な外交姿勢を固めた。

映画では紀元前480年、テルモピュライの戦いと並行する形で行われた『アルテミシオンの海戦』で、アテナイの将軍テミストクレス(サリヴァン・ステイプルトン)がペルシアのダレイオス1世を弓矢の奇跡の一撃で落命させたという創作のエピソードを盛り込むことで、クセルクセス大王のギリシアへの支配欲・復讐心に説得力を持たせている。ギリシアへの復讐心に燃えてペルシア海軍を指揮する女剣士のアルテミシアもまた、原作・映画のために創作された個性的な人物である。

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