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“先行する先進国”と“後続する新興国”の優劣意識(対立図式)と歴史解釈による自己正当化の競争。安倍首相の発言から近代国家を考える:2

『戦後レジームからの脱却』が『戦前レジームへの復古』になるのであれば、近代国家はお互いに支配圏の膨張と国民動員型(戦える国民の教育)の戦争を繰り返す『戦争機械』としての宿命を背負い、国家は軍事的・経済的なパワーバランスの中で領土・利益を増やそうとする戦いをただ繰り返すだけの集合体になってしまう。

現在の日中関係は、第一次世界大戦前夜の英独関係に似ているか?安倍首相の発言から近代国家を考える:1

こういった近代国家の戦争機械(愛国心を基軸として個人と国家を同一化させる国民動員・国民教育のシステム)としての捉え方は、『旧日本の絶対的国防圏・ナチスが唱えたドイツ民族の生存圏・漢民族の核心的利益』などの有機体的国家論の膨張主義・自衛を偽装した侵略戦争(植民地支配)へと必然的につながり、『国家は外国と武力で戦ってでも膨張・発展しようとする自然的本性を持つ(実際には近代国家は自然発生的ではなく外圧・産業・教育による人為的な要素を多分に持つが)』ということを支配階層の欲望(その欲望・救済の物語を国民にコピーする教育やメディア)の免罪符にしてしまう。

かつてドイツをナチズムへと誘導する一助を担った政治思想家のカール・E・N・ハウスホーファーは、ナチスドイツの膨張主義的な軍事政策・植民地拡大を後押しするかのように、『国家が発展的に生存していくためには、ある一定以上の大きさを持った生存圏を確保し、他国との貿易や交渉に依存しなくても良い自給自足が可能な産業・資源を支配しなければならずそれは強大な国家の正当な権利である』と記したが、この一定以上の大きさの生存圏は恣意的に拡大されて結局は欧州全土を超える範囲までドイツ民族の正当な生存圏だという誇大妄想に国民が冒されていった。

こういった思想は、ドイツの地政学の祖であるフリードリヒ・ラッツェルの国家を一つの成長を続ける生き物に見立てて、国民ひとりひとりを細胞・部品のように扱う『生存圏理論』から始まっているが、拡張主義や軍拡が批判される中国の核心的利益なども、こういった地政学的な生存圏拡大(その生存圏は自然由来の正当性があるという主張)の思想の焼き直しである。

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現在の日中関係は、第一次世界大戦前夜の英独関係に似ているか?安倍首相の発言から近代国家を考える:1

安倍首相がスイスのダボスのメディア外交で、現在の日中関係が『第一次世界大戦前の英独関係』に似ていると発言して欧米メディアで物議を醸したが、安倍首相は内心では戦後レジーム(平和主義外交路線)を既に脱却し解釈改憲をゴリ押しできるという気分でいるので、『尖閣諸島を巡る武力衝突の可能性』を暗にほのめかすような話し方になってしまいやすいのかもしれない。

軍事予算の積み増しで、尖閣・竹島の力づくの排除的防衛(奪還)をイメージさせる島嶼部奪還の特殊部隊設立(離島の強襲訓練強化)などの方向性を打ち出していることもあり、安倍政権にとって『偶発的な衝突への有事対応(平時の立憲主義体制を一時停止できるような非常事態宣言)』というのはイデオロギー的にはそれほど飛躍したものではなく、世論喚起の効果も兼ねて取る可能性のある政策オプションの誘惑(ブラフ)というのに近いだろう。

首相が現代と20世紀初頭の国際社会(侵略禁止の国際法)や国家体制、国民一般の倫理・教養・発言力の水準、憲法理念、利害関係を軽視して、現代と第一次世界大戦時の外交関係(戦争の可能性)を並列に並べて比較するのは、『戦争は通常の政治とは異なる方法による政治の継続である(戦争は外交の一手段である)』としたクラウゼヴィッツだとかマキャベリだとかの時代の非民主的な国家観・権力観を引きずっているような印象も受ける。

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映画『永遠の0』の感想

総合評価 90点/100点

祖母・松乃の死をきっかけにして、祖父の賢一郎(夏八木薫)が『二人目の夫』だったことを初めて葬式で知らされた佐伯健太郎(三浦春馬)は、祖母の初めの夫である宮部久蔵(岡田准一)が鹿児島県の鹿屋航空基地から米艦船に突撃した特攻隊員であったことを知る。

母・清子の血縁上の父親は賢一郎ではなく、特攻隊員として散った宮部久蔵であり、健太郎はフリーライターの仕事をしている姉・佐伯慶子(吹石一恵)の勧めもあり、実の祖父である宮部久蔵がどんな人物であったのかの調査を始めることになった。

ラバウル航空隊に所属していた元海軍のパイロットや戦友たちから嘲笑混じりに聞かされるのは、『海軍一の臆病者・卑怯者』『何よりも命を惜しむ情けない男』『戦闘を避けて逃げ回っているばかりの奴』など散々なもので、健太郎は話を聞く度に暗く情けない気持ちになり、調査を続行する気力を失いかけていた。

しかし、末期がんで病床にある元海軍の井崎(橋爪功,青年期:濱田岳)の話はそれまでの戦友の話とは異なっており、『宮部さんは圧倒的な凄腕のパイロットだったが、奥さんや娘の元に会いたいという思いから何としても生きて帰りたいといつも口にしていた。あの時代にそんな意思を持つこと自体が強い人だったという証拠だ。自分も死ぬことを考えず何が何でも生きる努力をしろと励ます宮部さんによって生命を救われた』といったことを語ってくれた。

右翼の大物らしき景浦(田中泯,青年期:新井浩文)にインタビューした時に、『うちの祖父は逃げ回るだけの臆病者だったらしいですが』と笑いながら前置きした健太郎は、景浦に切りつけられるような剣幕で叩き出されたのだが、井崎の話を聞かせてもらいもっと祖父の過去を詳しく知りたいという思いで、深夜に景浦の自邸を再訪する。

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映画『利休にたずねよ』の感想

総合評価 84点/100点

市川海老蔵演じる千利休の濃い存在感や自負心の強い台詞回しが印象に残る映画。千利休が豊臣秀吉(大森南朋)に切腹を命じられた理由や背景を、当時の人間関係とエピソードの中で多面的に捉えている。

権力ですべてを牛耳る専制君主となった秀吉に対して、唯一分かりやすい形で跪かない男が茶頭の千利休であり、利休は面従腹背してはいたものの、次第に秀吉にとって目障りな存在になってくる。

千利休もまた『自分は美しいもの以外には従わない』という頑なな姿勢を鮮明にし始めるようになり、間接的であるにせよ、『権力・暴力による強制的な支配』に頼っている秀吉を、“権力の通じない茶の湯の境地(芸術的な高み)”から見下しているかのような態度に見られてしまうようになる。

物語を盛り上げるために創作した高麗の王族の娘との色恋沙汰のサイドストーリーはやや蛇足にも見えるが、千利休と妻の宗恩との夫婦関係の深層を解明する要素になっている。また、千利休が秀吉に激高された理由の一つが『朝鮮出兵に対する反対(武力の無闇な行使を美に反する野蛮な行為として指弾したこと)』だとも言われており、高麗の娘との恋愛が、利休が高麗の平和(戦争回避)に思い入れをするようになった伏線になっている。

本作『利休にたずねよ』では、『利休と秀吉の確執』の中心に絶対権力者の秀吉に心から服従することのない芸術家の利休という図式を置いているのだが、上で書いた高麗の娘との悲しい恋愛の思い出(朝鮮出兵に反対する動機づけ)だけではなく、秀吉が利休の娘を側室として所望したが断られたという話も織り込まれている。

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安倍首相の靖国神社参拝と国家に対する絶対的忠誠の道徳2:平泉澄の皇国史観・天皇崇拝のイデオロギーと戦争責任の曖昧化

靖国神社には、戦争指導者・軍の幕僚として徴兵をしたり従軍の命令を出した者、召集令状(赤紙)で徴兵された者の双方が祀られているという矛盾もあるが、これは『国家のために死ぬ国民教育・価値観の誘導・同調圧力の形成』をしておきながら、国体のために戦死した人を肯定的に顕彰し続けるというマッチポンプの構造もある。

安倍首相の靖国神社参拝と国体・天皇に対する絶対的忠誠の道徳1:日本でなぜ本格的に近代史の授業がしづらいのか。

つまり、靖国神社の英霊崇拝の歴史的な仕組みの問題は、これから戦争で死ぬ国民を無くそうとする平和主義(不戦の意志)の目的で建立されたのではなく、むしろ戦争で死ぬ国民がこれからも持続的に生み出される(国体や天皇のために命を捧げるような忠義の国民を育成して生存よりも戦死の価値を強調する)ことが前提になっていたことにあるように思える。

靖国神社の宗教道徳的な働きには『戦没者の慰霊・鎮魂』と『国民の戦意発揚・滅私奉公』の二つの側面があるが、空爆・沖縄戦などで戦争の巻き添えになった一般庶民の死までは慰霊していないのであり、国民の命の犠牲・貢献を一般的に慰安する施設ではない。

戦時中の右翼思想(皇国史観)の最大の唱道者で、近衛文麿・東条英機のみならず昭和天皇に歴史講義までした東大教授の平泉澄(ひらいずみきよし)は、天皇絶対主義の『平泉史学』で当時の日本人の好戦的なマインドと空気を支配した人物として知られる。国家社会主義とも親和した右翼思想家の北一輝・大川周明よりも、天皇中心の国体の至高性を強く主張している点で平泉澄の歴史学やその講義・著作は特殊なものであった。

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安倍首相の靖国神社参拝と国体・天皇に対する絶対的忠誠の道徳1:日本でなぜ本格的に近代史の授業がしづらいのか。

政治家の靖国神社参拝に特別な意味づけが為されやすい理由は、『国家神道・軍国主義・天皇崇拝と忠君愛国・ファシズム(拒絶困難な同調圧力)との密接な歴史的関係』があり、日本人が徴兵されて戦死することを正当化する(忠義の国民か卑怯な非国民かを踏絵のように識別する)『政教一致のイデオロギー装置』として機能した過去の呪縛的な重みがあるからである。

1930年代半ばからの戦時中の一時期の日本は、『軍国主義』であると同時に、記紀神話・天皇制を国体の本質とする宗教国家』であり、天皇は皇祖神(ニニギノミコト)の後胤である『現人神』なのだというフィクションを史実として真剣に信じる国民も少なくなかった。

少なくとも、天皇をただ天皇という歴史的な肩書や身分を持った普通の人間の一人なのだという意識は、多くの国民には無かったはずで、『天皇の意志』を勝手に都合よく忖度することで政治・軍事の判断に権威的な正当性を加えた政治家・軍人(虎の威を借る狐)が多かったのである。天皇陛下の御意志に逆らうのか(天皇陛下の指揮する皇軍に対して統帥権干犯をするつもりか)という一言は、軍部が戦争の決定や軍事予算の増額を行う場合の決め台詞でもあった。

厳密には、主権者である天皇と家臣である全国民という『精神的・象徴的な君臣関係』が生きており、『私は天皇の臣民ではなくその命令に従わない』という自意識・活動が反乱(謀反)と見なされたという意味において、昭和10年代以降の日本の国家観や政治体制は『民主主義・自由主義・権利思想』からは遠かったし、村社会的な厳しい相互監視体制に置かれてもいた。

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