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大阪の小学6年生女児の焼死事件の再審:証拠不十分、推定無罪の原則採用で、実質無罪となる見通し

母の青木恵子さん(52)と内縁の夫の朴龍晧(ぼくたつひろ)さん(50)が生命保険金を目当てに小6の娘を放火し殺害したとされていた事件だが、証拠不十分と車庫の燃焼再現実験で実質的な無罪判決となる見通しである。

検察側、母への有罪主張も撤回 大阪・小6焼死再審

この事件はマスメディアでも取り上げられていたが、近代刑法における『推定無罪(疑わしきは罰せず)の原則』が最大限に適用された判例になる。検察側も各種の状況証拠から有罪を確信し起訴したが、決定的な物証を得られず弁護側の出した『車庫内の放火不可能性の再現実験』によって、不本意ながらも有罪主張を取り下げた。

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日本の報道の自由度の低下。政治・法律の報道への圧力上昇で日本は72位に。

NGO『国境なき記者団』が発表した『報道の自由度ランキング』のトップ5は、フィンランド、オランダ、ノルウェー、デンマーク、ニュージーランドだった。いずれの国も国際政治・国内政治におけるしがらみからの自由度が高く、国家機密の隠蔽を強制するような法的制約も弱いため(裏返せば国際的な政治経済状況におけるプレゼンスが弱いため)、報道に対する内外の圧力に屈しない姿勢をメディアが維持している。

北欧を筆頭とするEU諸国は、政権・政党・宗教や国際情勢におもねらない中立的視点からの多角的な報道姿勢、聖域を減らしリスクを覚悟した取材の裏付け、できるだけ多くの情報をオープンにしてから議論にかけるジャーナリズムが評価されている。

日本は今回のランキングでは、11位ダウンして180ヵ国のうちの72位だったが、『特定秘密保護法案(罰則つきの取材・報道の牽制)・政権与党の圧倒的優位及び政権長期化(野党・批判勢力の弱体化)・政治的裁量によるメディア規制検討の高市発言』がマイナス要因として働いている。

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『死刑制度・人権思想』と『煮ても焼いても食えない類の凶悪犯罪者(悪行・無反省・社会憎悪の捻れた主体)』の処遇に困る現代の先進国

EUやアメリカの多くの州では、キリスト教の博愛主義(人間の人間に対する裁きの限界の自覚・人間の潜在的な良心と内省への信仰)を背景とする『人権思想・暴力禁止』の深まりもあって、刑罰としての『死刑(極刑)』は廃止の流れに向かっている。

死刑執行「本当に長かった」

日本は立憲主義的には人権を尊重する成熟した近代国家の一員ではあるが、欧米のような死刑廃止の流れは起こっておらず、むしろ他人を殺した凶悪犯罪者は死刑もやむを得ない(それ以外の自由刑では量刑が軽すぎる)とする死刑存置の価値観を持つ人が多い。同じ死刑存置の主張にも、『積極的・応報的な死刑肯定論(正義遂行としての死刑)』から『消極的・社会防衛的な死刑存置論(必要悪としての死刑)』までの幅はある。

あるいは日本では積極的に被害者の痛み・無念を思い知らせるために加害者に報復して死刑にすべき、更生なんてしなくていいから社会から完全排除して再犯リスクをなくすべき、裁判所の判決は事件の残酷さ・凶悪性に対して軽すぎる(被害者に落ち度のない利己的な殺人は原則死刑などもっと死刑判決のハードルを下げるべき・裁判員裁判の死刑判決を覆して無期懲役にするなどもっての他)だとする『死刑肯定論・死刑存置派』のほうが多数派を形成している。

欧米の死刑反対論は外国人を殺傷する国家安全保障(防衛・正義・テロ撲滅を掲げた戦争)とは矛盾するところもあるのだが、『人権・良心・殺人禁忌の普遍主義』に立脚していて、国家権力による死刑執行も『広義の禁止されるべき殺人の一種(人間の生命活動はいかなる主体や権力であろうとも人為的・法律的に奪うことは許されない)』と解釈し、死刑を人間の裁く権利の限界を超えた『反倫理的・非人道的・残酷な越権(神の領域の侵犯)』と見なすのである。

良心の普遍主義というのは、キリスト教の『懺悔・告白(告解)』による罪の赦免の教会文化とも相関するように思うが、どんなに他人や社会を憎悪して倫理規範・法規範を蹂躙する凶悪犯罪を起こした人間でも、『自分の犯した罪と向き合う良心』が完全に無くなったわけではなく、適切な更生教育・人間信頼(社会適応)の機会を与えられれば喪失した良心・倫理を取り戻せる可能性があるという考え方である。

良心の普遍主義は、神の赦し(人間の裁く権利の限界)や遺伝・環境の要因とセットになって、『加害者本人の凶悪犯罪に対する自己責任』を減免する理由となっているのだが、それは『その加害者がそういった悪事を犯す人間になってしまった責任は果たして本人の自由選択や自己責任だけにあると言えるか+本人にはどうしようもならない運命・遺伝・家庭・環境によって不可抗力的にサイコパスの社会憎悪的な人間性が形成されていった可能性がないか』という倫理的な問いへと接続する。

一方、死刑肯定論は『シンプルな行為主義と自己責任論』によって構成されるものであり、『どんな理由があろうともその理由が本人の意思で回避できないものであっても、重大な行為の結果に対する責任を被害の深刻さに合わせて取らせるべき』と考える。

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少年法適用年齢を“18歳未満”まで引き下げるべきか?:殺人など凶悪犯罪に限っては高卒相当の年齢から成人扱いでもおかしくはない

罰から教育への近代法には賛成だが、殺人に限っては18歳を成人年齢とした方が、その凶悪犯罪を抑止しやすいかもしれない。『殺人=悪』は学校で教育して悪い事をしない人間にしていことする以前の問題であり、殺人(凶悪犯罪)に限っては18歳時から成人同等の刑罰になると教えても、その内容を理解できない子供はほとんどいないし、実際に殺人をしようとする子供もいないだろう。

少年法適用年齢引き下げの妥当性、教育的観点からの考察

18歳は高校を卒業して、親・教師の管理下から離れる人が増え、中には進学・就職で一人暮らしする人も出る。『家族・学校における監視や保護のレベル』が弱まり、モラトリアムな不良青年が集団化(ギャング化)するリスクも高まるので、腕力・環境・経済・仲間の面で凶悪犯罪が高校在学時より誘発されやすい。

18歳の時点までは多くの子供がまだ学校に通っていて(一日の行動が概ね予測でき)、親と一緒に生活して経済的にも守られているので、『親・教師の管理や教育』で問題行動や非行は抑制されやすい。18歳以降は『生き方や経済状況の多様化・自由な時間や関係の増加』が進み自己規律できない人や集団の犯罪リスクも高まる。

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“ウェブ上で忘れられる権利”と“個人の賞罰を知る権利”

EU諸国では逮捕歴・前科・失態などを巡る『(ウェブ上で)忘れられる権利・検索されない権利』を主張して、Googleを提訴する動きが数年前から活発化している。

■優先すべきは知る権利か、人格権か 検索結果削除めぐり

EU諸国の民事裁判では、『Googleの検索インデックス』から提訴した個人に不都合な情報をGoogleに削除するように命令する判決が多く、『忘れられる権利・検索されない権利』は裁判所に訴え出れば認められる確率がかなり高くなっている。

『自分が過去に犯罪を犯したという記事・記録』は、ウェブ社会以前には新聞・雑誌には書きたてられたが、よほどの大事件・凶悪事件で無い限りは『人の噂も七十五日』でいつの間にか人々の話題から消えて自然に忘れられていくものであった。

ウェブと検索エンジンがまだ普及していなかった時代には、社会・他人が自分の悪事や逮捕歴について覚えていて話題に乗せたり差別的な対応をしてくるという『社会的制裁』に有効期間があった。

見ず知らずの他人に対する人間の興味関心には自ずから限界があり、かつてはわざわざ『忘れられる権利』など主張しなくても、人は新しい話題・流行や自分の生活の雑事に引き寄せられて、勝手に昔の犯罪など忘れてくれていたわけである。

しかし、ウェブに記載(アーカイヴ)された情報はいくら時間が流れても、『人間の記憶の内容・興味の意識』のように劣化しない、5年後でも10年後でも固有名(実名)・地域と事件名などで検索すれば『○年○月○日に~の罪状で○○容疑者が逮捕された旨』の情報が出てくるので、『不名誉な記憶の亡霊』がいつ蘇ってくるか分からない不安が常にある。

永遠に消えない不名誉な個人情報が『社会的制裁の強度』として適切なものなのかどうかは、『前科のある本人の更生・意識の度合い』によって異なってくると思うが、『殺人・強盗殺人・テロ・無差別殺傷』などの凶悪犯罪はともかくとして『軽犯罪の微罪の場合』にそこまで永続的な社会的制裁を与えることが適切か(更生・再犯抑止に役立つか)といわれるとかなり微妙ではある。

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『選択的夫婦別姓』を認める人・認めない人

数十年前から、選択的夫婦別姓を巡る議論は行われているが、この問題に『当事者性を持つ人』は主に以下に該当する人たちである。

■夫婦別姓、最高裁の判断は? 旧姓使用が広がるなかで

1.結婚制度を利用したいが、『旧姓を変えなければならない夫婦同姓』が嫌だったり不都合(不利益)があったりする人。

2.結婚制度を利用したいが、『結婚する相手(主に自分側が姓を変えなければならない女性など)』が夫婦同姓に反対している人。

3.子・孫が結婚するが、『夫婦別姓の結婚は容認できない(相手が自分の家の姓を名乗らないなら結婚を認めない)』という親・祖父母などの親族。

4.子・孫が結婚するが、『夫婦同姓の結婚は容認できない(自分の子が相手の姓になるのなら結婚を認めない)』という親・祖父母などの親族。

厳密には選択的夫婦別姓というのは、『結婚するみんなが夫婦別姓にしなければならない制度』ではないから、本来は『今まで通りに夫婦同姓にしたいというカップル・親族』の選択や利益を損ねるものではない。

しかし、『結婚するみんなが夫婦同姓にしなければならない制度設計』を守るべきである(今までの結婚の慣習・法律のルールに従えないカップルは結婚すべきではなく事実婚にすべきだ)という思いを持っている人たちが多くいるので、『選択的夫婦別姓の議論の余地』が生まれてくる。

選択的夫婦別姓を認めて欲しいという人は『個人主義的・自由主義的・選択的な結婚観』を持っていて、選択的夫婦別姓を認めないという人は『集団主義的・統制主義的・義務的な結婚観』を持っているのだが、『結婚』という男女を経済的・性的に結合させて次世代の子供を育てるための制度の捉え方が変わっている“過渡期”ゆえに起こる論争でもある。

かつては90%以上の日本人が使っていた結婚制度そのものの利用率がここ30年ほどで急激に低下していて、2035年頃には男性の約3割、女性の約2割が結婚制度を利用しないまま生涯を終えるとも推計されていて少子化の原因の一つにもなっている。

『義務的・慣習的な皆婚(女性が男性のイエの一員の嫁になるという旧来的結婚観念)の終焉』と『選択的夫婦別姓・パートナーシップ協定・同性婚の議論の発生』はかなり密接に相関している。

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